第49話「忘却の愛」
次の日。
堀田は数日間の外出禁止とスマホ没収処分をようやく解除された。
だが結局、君野が面会に来る前に退院日が決まり、来週には病院を出ることになった。
検査の結果、すこぶる健康だと判断されたからだ。
「はあ……もう年越してたのか」
気づけば三が日も終わっている。
早く退院して、自分のベッドで、自分の生活リズムを取り戻したい。
そんなことを考えていると、机の上のスマホが震えた。
「君野か!」
ようやくブロックを解除してくれたのか。
期待して画面を見ると――
「……桜谷か」
一気に熱が冷める。
届いていたのは、桜谷からのメッセージだった。
『君野くんに、私へ送る予定だったメッセージを送って』
「……なんだそれ?」
首を傾げながら続きを読む。
『"早く会いたい"と送って。その直後に"悪い、桜谷に送るつもりだった。間違えた"と送ってほしい』
「はぁ!?」
思わず声が漏れる。
「いくら何でも、それなりの理由がないとできないぞ……」
怪訝に思っていると、すぐ桜谷から電話がかかってきた。
「言ったでしょ。これは賭けだって」
落ち着いた声が響く。
「だから、それを俺にも教えてくれよ!」
「私にした全部の罪をチャラにしたいなら、送りなさい」
「うっ……」
痛いところを突かれた。
「綾目から君野を助けてくれるんだよな……? それなら、なんでもやる……」
堀田は観念し、桜谷に言われた通りメッセージを送信した。
数秒後、既読が付いた。
すぐに君野から返信が返ってくる。
『桜谷さんって誰!?浮気!?酷い……』
「…………」
一瞬、思考が止まった。
「そ、そうか……」
震える声が漏れる。
「これ……呪いのキスが効いてるのか」
予想していたはずなのに、現実として突き付けられると衝撃が大きい。
なんて返せばいい……
呪いのことは話せない。
だからといって、このまま放っておくわけにもいかない。
困り果てた堀田は、すぐ桜谷へメッセージを送った。
だが、返事はない。
既読だけが静かに付いていた。
一方。
堀田へ指示を送った桜谷は、スマホをベッドへ伏せ、そのまま力なく横になっていた。
昨日の豪雨が嘘のような快晴だった。
カーテンの隙間から、柔らかな冬の日差しが部屋いっぱいに差し込んでいる。
窓辺の植物へ降り注ぐ光をぼんやり眺めながら、糸が切れた人形のように体を預けていた。
メールの着信音が鳴る。
堀田からだった。
『君野から"堀田くん浮気してるの?酷い"って来たぞ!俺どうしたらいい?(´°̥̥̥̥ω°̥̥̥̥`)』
桜谷は重たいまぶたをゆっくり持ち上げる。
表情1つ変えないまま、親指だけを動かした。
『適当に喧嘩して、突き放して』
送信。
それだけだった。
スマホを胸へ落とす。
返事を待つ気にはなれない。
これでいい。
これが、1番君野くんを遠ざけられる。
そう言い聞かせても、胸の奥だけは少しも納得してくれなかった。
「……」
唇を強く噛み締める。
まぶたが熱い。
喉の奥がじんと痺れる。
「……私、ちゃんと愛されていたんだ」
忘却の愛。
何度忘れられても。
彼は何度でも、私を1番好きになってくれた。
「……やっぱり、そういうことだったのね」
数か月前、君野くんが私を忘れなかったことが何度かあった。
あの頃の私は、堀田くんの優しさに心を揺らしていた。
だから、呪いは発動しなかった。
この呪いは、君野くんだけの想いでは足りない。
私もまた、君野くんを1番に想っていなければならない。
だから私は、あの日すぐにキスを選ばなかった。
お互いが、心の底から1番だと信じられる、その瞬間まで待った。
桜谷は力なく天井を見上げる。
ただ1つ。
今日の作戦が、うまくいくことだけを願っていた。
その頃――
君野は胸を締めつけられる思いのまま、綾目の病院へ向かっていた。
堀田から突然、「知らない女の子に会いたい」と送られてきたうえ、それは桜谷に送るはずだった誤送信だと続けて連絡が来たのだ。
――そうなんだ。
僕という人がいながら。
「浮気なんて……酷い……」
知らないはずの"桜谷さん"という名前だけが、なぜかメッセージアプリに残っている。
胸が締めつけられるように苦しくなり、君野は何も考えないまま堀田と桜谷をブロックした。
気づけば足は、いつもの病院へ向かっていた。
今、1番会いたいのは綾目だった。
「どうしたの? なんで怒ってるの?」
病室へ入るなり、綾目が優しく声をかける。
君野は俯いたまま丸椅子へ座り、沈んだ表情を浮かべていた。
「堀田くんが……他の女の子と仲良くしてるのを知っちゃったんだ……」
その言葉に、綾目は静かに瞬きをする。
どこか覚えのある展開だった。
「それって……」
「桜谷さんっていう女の子がいて……」
その名前を聞いた瞬間、綾目は確信した。
「やっぱり、呪いのキスが効いたのね」
「え? あ……なんだっけ、それ……」
もう、その言葉すら曖昧になっている。
綾目の胸に、小さな歓喜が広がった。
目の前にある宝物は、もう誰にも渡さない。
「私が愛してあげる」
だから――彼は私のもの。
「ねえ、私のこと好き?」
「……うん……」
君野は曖昧に頷く。
まだ心のどこかで、堀田と仲直りしたい気持ちは残っている。
それでも、その温もりを求めてしまう。
「じゃあ、今1番好きなのは誰?」
「今は……綾目ちゃん」
その答えに、綾目は小さく微笑んだ。
「ここ数日のこと、覚えてる?」
「うーん……1人で部屋を掃除したり、行きつけのカフェに行ったりしてたよ」
「桜谷瑠璃子とは過ごさなかった?」
「ごめん……そんな子、知らない……」
その反応を見て、綾目は確信する。
嘘ではない。
記憶そのものが消えている。
普段なら部屋の掃除など絶対にしない君野が、自分から片づけをしている。
その時間には確かに誰かがいた。
事故や幼児退行では説明できない。
消えたのは、瑠璃子だけ。
――やっぱり成功したのね。
綾目はゆっくりと口元を緩めた。
「前にも言ったでしょ。やっぱり、あの2人は君野くんを馬鹿にしてるのよ」
「あ……なんか、そんなこと……前にもあった気がする……」
記憶は曖昧でも、胸に残る違和感だけは消えていない。
綾目は優しく頷いた。
「ふふ、でしょ? 2人はまだつながっていたの。これでもう、諦められた?」
「……」
君野は答えない。
俯いたまま、自分の手を見つめていた。
「神様はね、ちゃんと運命の人同士を導くの。今は間違いだと思っても、いつか必ずわかるわ」
静かな声が、少しずつ彼の心へ染み込んでいく。
「私はどこにも行かないし、行けない」
綾目は自分の胸へそっと手を当てた。
「私は、必ずここにいる。あなたを裏切ることなんて絶対にない」
「……綾目ちゃん」
堀田に裏切られたと思い込んだ心に、その言葉は優しく染み渡っていく。
もしかしたら――。
この胸の寂しさを埋めてくれるのは、綾目ちゃんなのかもしれない。
君野は静かに目を閉じる彼女を見つめた。
白い肌は病室の光を受けてやわらかく輝き、まるでお姫様のようだった。
もう、忘れるべきなのかもしれない。
堀田くんとは、友達としてやり直せばいい。
きっと、それだけのことなんだ。
そう自分に言い聞かせるように、君野はそっと彼女へ近づく。
キスを待つように閉じられた唇へ、自分の唇を重ねた。
もう考えたくなかった。
今はただ、目の前にある温もりだけを信じたかった。
そして君野は、その温もりから目を逸らさなかった。




