第48話「ザーザーの雨」
その翌日の午前。
外は、出歩くのもためらうほどの土砂降りだった。
君野と桜谷は、君野の部屋で散らかった荷物を整理している。
桜谷は昨日とは違い、ラフなデニムに灰色のニット姿。
動きやすい格好なのは、雑然とした彼の部屋を掃除しようと思いついたからだった。
だが、当の部屋の主は早くも戦線離脱している。
棚から見つけた漫画を読み始め、すっかり夢中だった。
「君野くん。それでは、いつまで経っても終わらないわ」
「ごめん。つい……」
君野は埃まみれの漫画を棚へ戻し、小さなほうきとちりとりを手に取った。
「……なんかさ」
照れくさそうに笑う。
「女の子が部屋を掃除しに来るなんて、彼女みたいだね」
マスク越しの桜谷が目を細める。
笑っているのか、それとも照れているのか。
視線だけが落ち着かず泳いでいた。
「でも、一日じゃ終わりそうにないわね」
「うん……」
君野はぼんやりと部屋を見回した。
部屋が綺麗になろうが散らかったままだろうが、本人はあまり気にしていない。
ただ、桜谷が満足するまで付き合うつもりらしい。
一時間ほど経った頃。
「お腹減ったなぁ」
君野はベッドへ寝転がったまま呟いた。
桜谷も時計を見る。
「もう11時ね。でも、この雨じゃ買い物にも行けそうにないわ」
「オムライス食べたい」
「オムライス?」
桜谷は首を傾げる。
「作ろうか?」
「えっ!?作れるの?」
「うん。家ではいつも私が料理してるから」
「食べたい!桜谷さんのオムライス!」
君野は飛び起きた。
「でも、勝手にキッチンを使っていいのかしら。食材も勝手に使うのは申し訳ないし……」
「お母さんに連絡するよ!」
君野はすぐスマホを取り出す。
「僕も家にあるもの適当に食べちゃうし、大丈夫!」
その笑顔に背中を押され、2人は掃除を中断して台所へ向かった。
「疲れたでしょ。座って待ってて」
君野は素直にダイニングチェアへ腰掛ける。
桜谷は冷蔵庫を開き、手際よく材料を取り出した。
「そんなに見ないで」
「え?」
「手品をするわけじゃないんだから」
桜谷は少し恥ずかしそうに笑う。
このキッチンだけ切り取れば、本当に同棲している恋人みたいだった。
君野は慌てて視線を逸らし、スマホを触るふりをする。
それでも気になって、時々ちらりと彼女を盗み見た。
野菜を刻む包丁の音が、小気味よく響く。
慣れた手つきだった。
手元が見えなくても、その上手さが伝わってくる。
恋人がいたら、こんな毎日なんだろうか。
そんな穏やかな想像をした、その時だった。
――次は瑠璃子とキスをして。
綾目の言葉が、不意に脳裏で蘇る。
もしここで桜谷さんとキスをしたら、本当に僕は彼女を忘れてしまうんだろうか。
死神。
黒い影。
桜谷さんは、一体何者なんだ。
その時、チキンライスの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
君野が一瞬目を閉じる。
「……!」
次に目を開けた瞬間だった。
桜谷のすぐ背後に、黒い影が張り付いていた。
綾目の病室で見た、あの影だ。
冷蔵庫へ向かう桜谷と、へその緒のようにつながるように揺れている。
「……嘘だ」
息が止まる。
「桜谷さんが……黒い影の正体……?」
だが、次の瞬きで影は跡形もなく消えてしまった。
今のは、何だったんだ……。
「おまたせ」
桜谷は二人分の皿を運びながら言った。
「お母さんに伝えておいて。卵は残り2つ。玉ねぎと、お米も冷蔵庫の分は使っちゃったって」
テーブルには、家庭でよく出る半熟卵のシンプルなオムライスと、玉ねぎのコンソメスープが並ぶ。
さっき見た黒い影よりも、目の前のオムライスの方が君野にはよほど魅力的だった。
「美味しそう!」
「はい、ケチャップ」
桜谷が差し出す。
だが君野は受け取らず、にっと笑った。
「ハート描いて!」
「……ハート?」
一瞬だけ戸惑った桜谷だったが、不器用な手つきでケチャップを絞り、小さなハートを描いた。
「私、絵は下手なの」
「ううん!ありがとう!」
君野は満面の笑みを浮かべる。
「これで百倍美味しくなるよ!」
その無邪気な笑顔に、桜谷も思わず照れ笑いを浮かべた。
君野はスプーンを持つより先に、大きく口を開く。
「いただきます!」
昼食を終え、二人は食後のコーヒーで一息ついていた。
「眠くなっちゃったなぁ……」
君野は赤ちゃんのような声で呟き、そのままテーブルへ突っ伏す。
その姿を見て、洗い物をしていた桜谷の口元がわずかに緩んだ。
――いい感じ。
でも、もう少し。
もっと深く眠ってから。
キスをするなら今日しかない。
いつまでも、恋人ごっこを続けてはいられない。
そしてまた、呪いのキスの仕組みを振り返っていた。
朝から3時間近く部屋を掃除した疲れもあってか、君野はテーブルに腕を重ね、その上へ頬を乗せてすやすやと眠っていた。
桜谷は洗い物を終え、静かに彼のそばへ歩み寄る。
眠る横顔を見つめた途端、胸の奥に押し込めていた感情が一気にあふれ出した。
ぽたり、ぽたりと涙がこぼれ落ちる。
このまま眠っている間にキスをして去ればいい。
そうすれば――君野くんは、綾目ちゃんから解放される。
「っ……」
けれど、自分の心まで魔法にかけてしまったみたいだった。
唇を近づけようとするたび、涙ばかりがあふれて止まらない。
「……桜谷さん、なんでそんなに泣いてるの?」
鼻をすする音で目を覚ました君野が、眠そうな目でこちらを見上げた。
その無垢な瞳を前にすると、胸の奥にしまっていた本音が零れてしまう。
「忘れたくない……」
「……やっぱり、僕たち、キスすると忘れちゃうの?」
「……ひっ……ぐっ……まだ……一緒にいたい……」
だって、部屋の掃除だってまだ終わっていない。
そんな小さな理由を思い浮かべるだけで、喉が詰まり、涙が止まらなくなる。
「……君野くんが……好きなのに……っ……悔しい……」
その言葉を聞いた君野は、ゆっくり立ち上がる。
そして何も言わず、そっと桜谷を抱きしめた。
「僕も大好きだよ」
耳元で静かに囁く。
「ねえ、忘れても……また好きになってもいい?」
「……うん……」
君野は、なぜそこまでしてキスをしなければならないのか、もう尋ねなかった。
彼女には理由がある。
それだけは、なんとなく伝わってきた。
今はただ、この涙を止めてあげたかった。
「次に会う時は、僕が君を見つける」
抱きしめる腕に少しだけ力が入る。
「僕たちは両想いなんだ。だから絶対、忘れてもまた好きになる」
声も出せないほど泣き続ける桜谷は、小さく頷いた。
君野は震える彼女の唇へ、ゆっくりと顔を近づける。
そして、そっと口づけた。
長いキスが終わる頃には、窓の外の雨はさらに勢いを増していた。
滝のような雨音が部屋いっぱいに響き渡る。
まるで2人だけをこの部屋へ閉じ込めるように、ザーザーと降り続けていた。
その言葉を聞いた君野は、ゆっくり立ち上がる。
そして何も言わず、そっと桜谷を抱きしめた。
「僕も大好きだよ」
耳元で静かに囁く。
「ねえ、忘れても……また好きになってもいい?」
「……うん……」
君野は、なぜそこまでしてキスをしなければならないのか、もう尋ねなかった。
彼女には、そうしなければならない理由がある。
それだけは、なんとなく伝わってきた。
今はただ、この涙を止めてあげたかった。
「次に会う時は、僕が君を見つける」
抱きしめる腕に少しだけ力が入る。
「僕たちは両想いなんだ。だから絶対、忘れてもまた好きになる」
声も出せないほど泣き続ける桜谷は、小さく頷いた。
君野は震える彼女の唇へ、ゆっくりと顔を近づける。
そして、そっと口づけた。
長いキスが終わる頃には、窓の外の雨はさらに勢いを増していた。
滝のような雨音が部屋いっぱいに響き渡る。
まるで2人だけをこの部屋へ閉じ込めるように、ザーザーと降り続けていた。




