第47話「黒い正体」
翌日。
桜谷は、君野の家の前に立っていた。
いつもの地味な服装ではない。
ふわりとした白いワンピースにコートを重ね、長い黒髪は高い位置でポニーテールに結んでいる。
今日こそ、作戦を成功させる。
そう自分へ言い聞かせ、深く息を吸った。
チャイムを鳴らしてしばらくすると、家の中からダスダスダスッ、と分かりやすく床を駆ける音が近づいてきた。
勢いよく玄関の扉が開く。
「お待たせ!!あ……可愛い!」
青いジャケットの下にパーカーを着た君野が、目を輝かせて立っていた。
「桜谷さん、白似合うね!」
「……ありがとう」
開始早々、胸が大きく跳ねる。
桜谷は平静を装い、わずかに視線を逸らした。
「駅前に行きつけのカフェがあるんだけど、そこでモーニングしない?」
「うん!」
君野は無邪気に笑った。
2人は昨日と同じように肩を並べ、冬空の下を歩き始める。
「……綾目ちゃん、元気だった?」
桜谷がそう尋ねると、君野ははっとしたように目を見開いた。
「あ、うん……。昨日はいきなり電話しちゃって、ごめんね」
「何事かと思ったわ。泣きそうな声で、綾目ちゃんとキスしたなんて言うから」
「あれは……女の子と初めてキスしたから、びっくりしただけだよ」
「初めて?」
桜谷は小さく笑った。
「君野くんのお母さんが話してたわよ。園児の頃、女の子たちにキスされすぎて、歩けなくなったって」
「えっ?そんなことあったの?」
「最後には床へ突っ伏して泣いてたらしいわ」
「全然覚えてない……」
「初めてなんて言ったら、お母さんに笑われるんじゃない?」
2人は顔を見合わせ、他愛もなく笑った。
けれど、桜谷の表情はすぐに曇る。
「……今日も、このあと綾目ちゃんのところへ行くの?」
「う、うん……」
有無を言わせず、自分の欲しいものを絡め取る。
いかにも綾目ちゃんらしいやり方だった。
でも、まだ助けられない。
綾目ちゃんが、もう1度キスをする機会を待たなければならないから。
また、胸の奥が痛んだ。
それでも桜谷は何も言わず、彼と並んで歩き続けた。
2人は、モーニングで評判のカフェへ入った。
桜谷はコーヒーとパンを注文する。
君野は目玉焼きやハンバーガー、ヨーグルトまで並んだ朝食を、嬉しそうに頬張っていた。
「美味しい?」
「うん!!」
少し前まで影を落としていた顔が、食事をしている間だけは幸せそうにほころんでいる。
せめて今だけは、この顔を見ていたい。
桜谷は柔らかな目で彼を見つめた。
食事を終え、桜谷がコーヒーを飲んでいると、君野はメロンクリームソーダのストローから口を離した。
「あの……呪いのキスって、本当にあるの?」
「あら。誰から聞いたの?」
「堀田くんも綾目ちゃんも言ってたんだ」
君野は少し不安そうに続ける。
「桜谷さんとキスすると、僕の中から桜谷さんの記憶が消えるって」
「……もし私が、そんな呪いを持っていたら怖い?」
「ううん」
君野は迷わず首を振った。
「でも、桜谷さんのことだけ不自然なくらい覚えてないから。呪いがないなら、それはそれで変だなって思って」
君野はアイスと一緒に唾を飲み込んだ。
その様子を見ながら、桜谷の中で考えが巡る。
綾目ちゃんが、呪いのキスを素直に信じた理由。
あれほど不確かなものを、疑いもせずに受け入れている。
自分のキスなら呪いを跳ね返せる。
君野くんと自分は、特別な関係で結ばれている。
そう信じたいのだ。
まるで、君野くんとは絶対に運命で結ばれていると信じ切っていた、昔の私みたいに。
皮肉なものね。
これが、私が初めて見つけた綾目ちゃんの弱さなのかもしれない。
「記憶がないのは、事故や幼児退行の影響かもしれないわ」
「ああ、そっか!」
君野の表情が一気に明るくなる。
「確かに僕、そうだった!」
「症状もだいぶ良くなってきたもの。そう考えてしまうのも無理はないわ」
「じゃあ、僕が桜谷さんにチューしても大丈夫だよね?」
「ぶっ!」
桜谷は、飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。
「大丈夫!?」
君野は慌てて、卓上の紙ナプキンを何枚も取って差し出した。
「あっ、服にかかっちゃった……ごめん!」
白いワンピースへ、茶色い染みが数滴広がっている。
「……大丈夫。洗えば落ちるわ」
桜谷は努めて平静を装い、紙ナプキンで染みを押さえた。
「これを飲み終わったら、店を出ましょう」
「う、うん……」
しょんぼりする君野を見て、桜谷は少しだけ声を柔らかくした。
コーヒーを飲んでいなければ、どんな声が出ていたか分からない。
落ち着け。
やっぱり私、この人には敵わない。
店を出ると、2人は冷たい風に吹かれながら帰り道を歩いた。
火照っていた桜谷の頭も、少しずつ冷えていく。
そこでふと、君野の顔を見て気づいた。
「ごめんなさい。言うのを忘れてたわ」
「何を?」
「口元に、目玉焼きの黄身がついてる」
「えっ?どこ?」
君野は慌てて口元を手で探った。
「ここ」
桜谷は不意に、君野の唇の端についた黄身を当たり前のように指先ですくう。
「……あ」
2人そろって動きを止めた。
君野はきょとんとした顔で、桜谷を見つめている。
「ご、ごめんなさい……」
桜谷は慌てて手を引っ込めた。
「思わず。……嫌だった?」
「ううん」
君野は穏やかに笑う。
「桜谷さんって、本当に優しい子なんだね」
「……っ」
一気に顔が熱くなった。
思わず、なんて言わなければよかった。
「て、手を洗ってくるわ」
桜谷は逃げるように駅前のトイレへ入り、洗面台で指先を何度も洗った。
けれど、いくら水で流しても、君野の唇へ触れた感触だけは消えてくれなかった。
再び合流し、2人は短い帰り道を歩き始めた。
だが、先ほどの出来事で意識してしまったのか、君野は落ち着かない様子で何度も桜谷を見ている。
「あのね……」
「何?」
「さっき、カフェで言ったことなんだけど」
「呪いのキスのこと?」
「ううん。その……チューしたいって言った方」
「そ、そう……」
桜谷の足取りが、わずかにぎこちなくなる。
「僕、あれ結構本気なんだ」
「……」
「それと、家の前に着いたら、ぎゅってしてもいい?」
「え?」
「今日、付き合ってくれたお礼!」
そこまで言って、君野は慌てて両手を振った。
「あっ、でも付き合うって、そっちの意味じゃないよ!今日、一緒に出かけてくれたって意味!」
「分かってるわ……」
桜谷は俯いたまま答えた。
顔を上げられない。
「君野くんは、私のどこが好きなの?」
「うーん……」
君野は真剣に考え込んだ。
「言葉にするのは難しいけど……また口に黄身をつけていたいなって思った!」
「……何、それ」
あまりに独特な愛情表現に、桜谷は思わず吹き出しそうになる。
「あとね」
君野は桜谷の手元を見た。
「そのカイロより、僕の手の方が温かいよって言いたかった」
桜谷が握っている使い捨てカイロを、少し恨めしそうに見つめている。
その顔が可愛らしくて、胸がまた高鳴った。
そう思っているうちに、桜谷の家が見えてきた。
「着いちゃったね」
君野は名残惜しそうに、彼女を見上げる。
「今日はありがとう。また会えるよね?」
「ええ……あの」
桜谷は手にしていたカイロを、コートのポケットへしまった。
そして、君野の両手を取る。
「桜谷さん?」
胸元まで持ち上げ、その手をぎゅっと握った。
「カイロじゃなくて……」
喉が震える。
「この温もりを、覚えていてほしいの」
何を言っているの、私は。
言った直後に、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
顔から火が出そうな桜谷へ、君野は嬉しそうに笑う。
「うん!」
そのまま彼女の片手を取り、自分の頬へ当てた。
「僕も、この手の温かさを忘れないよ」
「……っ」
自分から焚きつけたとはいえ、あまりに大胆な行動だった。
胸の鼓動が、さらに速くなる。
「ま、またね」
「うん!またね!」
2人は離れてからも、互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
君野が角を曲がり、完全に見えなくなる。
「……」
もうすぐ、この時間も幻になる。
桜谷は身体から中身が抜け落ちたように、ふらふらと玄関へ向かった。
その日の午後。
君野は綾目の病室を訪れた。
「いらっしゃい。どうしたの? ずいぶん悩んでいる顔ね」
第一声で、綾目の機嫌がいいことが分かった。
「君野くんから私の記憶、やっぱり消えなかったわね」
「……うん」
「わざと忘れたふりをしてもよかった、なんて思ってる?」
「まさか、そんなこと……」
「まだ誰を選ぶか決めきれてないの?」
綾目は微笑みながら続けた。
「それなら、瑠璃子にキスしてみればいいじゃない」
「え……」
「呪いのキスが本当なら、それで分かるでしょう? 効いたなら、神様が『あの子じゃない』って教えてくれてるってこと」
「……そう、なのかな」
「そうよ。瑠璃子にだって運命の人がいる。それが君野くんじゃないってだけ」
綾目の言葉は、ゆっくりと、しかし容赦なく胸へ突き刺さる。
君野は何も言い返せず、ただ俯いた。
その時だった。
「わああああっ!!」
君野が突然、悲鳴を上げた。
「どうしたの!?」
「お、お化け……!黒いお化けが!」
綾目は振り返る。
そこには大きな窓があるだけだった。
窓の向こうには、葉を落とした木々が中庭に並んでいる。
「どうしたの?何もいないわ」
「……っ!」
君野の目には見えていた。
天井いっぱいに広がる、水滴のような黒い影。
煙のように揺らめきながら、部屋全体を覆っている。
顔はない。
目も口もない。
それでも、その存在は確かに綾目を見下ろしていた。
「大丈夫。おいで」
綾目は君野を優しく抱き寄せる。
「あなた、色々あって疲れてるのよ」
その腕の中にいても、黒い影は消えない。
彼女を睨みつけている。
そんなふうに、君野には見えた。
「相当疲れてるのね」
綾目は何も気づかないまま、小さく笑う。
「あ、そういえば思い出した」
楽しそうに口元を緩めた。
「瑠璃子って、小さい頃『死神』って呼ばれてたらしいわ」
「死神……?」
「ねえ、何でだと思う?」
「どうして?」
「うふふ」
綾目はくすくすと笑う。
「その幻覚と関係があるのかもしれないわね」
そう言って、何も見えていないはずの黒い影へ向かって、挑発するように口角をつり上げた。
黒い影は何も答えない。
ただ静かに、綾目を見下ろし続けていた。
君野は綾目に抱きしめられたまま、その黒い影から最後まで目を逸らすことができなかった。




