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第46話「悩ましい夜」

 桜谷(さくらたに)と別れた君野(きみの)は、散らかった自室で、彼女と過ごした時間の余韻に浸っていた。


 ベッドへ腰を下ろし、メッセージアプリを開く。


 まず桜谷さんのブロックを解除した。


 堀田くんのブロックも、すでに解除してある。


 けれど先日の病院での騒ぎが問題となり、彼は母親にスマートフォンを没収されたらしい。


 面会どころか、トイレ以外では病室から出ることもほとんど許されていないという。


 朝、「おはよう」とだけ送ると、代わりに彼の母親から事情を説明する返信が届いた。


 申し訳ないことをした。


 けれど今、自分が会いに行けば、かえって事態を悪化させるかもしれない。


 可哀想ではあるが、声をかけることさえためらわれた。


「はぁ……」


 君野は自分の聖域であるベッドへ倒れ込み、スマートフォンをシーツの上へ置いた。


 布団へ潜り込み、土下座でもするように身体を丸める。


 目の前には、広げたままの冬休みの宿題。


 けれど頭の中へ浮かぶのは、問題集の答えではなかった。


「不思議だな……」


 まるで前世では、桜谷さんと結ばれなかったみたいだ。


 だから今、こんなにも惹かれているのかもしれない。


 指切りをした時。


 こんな未来が欲しかったと、胸の奥が訴えていた。


 どうしてだろう。


「僕、浮気者みたいだな……」


 堀田くん。


 綾目ちゃん。


 桜谷さん。


 3人の間を好き勝手に行き来しているようにしか思えない。


 言い訳なんて、できなかった。


 自己嫌悪へ沈んでいると、パーカーの腹ポケットが震えた。


「ん?」


 取り出したスマートフォンには、知らない番号からの着信が表示されている。


「あっ、もしかして……」


 そこでようやく思い出した。


 今日は病院へ行くと約束していたのに、面会へ行かなかった。


 一気に顔から血の気が引く。


 まさか、病院から?


「も、もしもし……?」


 恐る恐る電話へ出る。


 だが、相手はすぐには答えなかった。


 微かな息遣いだけが聞こえる。


 その向こうでは、看護師らしい女性が誰かを呼ぶ声も響いていた。


「もしもし?」


「どうして来てくれなかったの」


 冷たく、寂しげな声。


 すぐに分かった。


「綾目ちゃん?ご、ごめんね!急に用事ができちゃって……!」


「寂しいよ、君野くん」


 淡々とした声が続く。


「今すぐ会いに来て」


「今から!?明日じゃ駄目?」


「明日なら、もう来なくていい」


「え……」


「もう知らない」


 心臓が跳ねた。


 息が浅くなる。


「っ……」


 ――行かなきゃ。


 手のひらへ汗が滲む。


 スマートフォンを握る指まで震え始めた。


 行かなくても、綾目が死んでしまうわけではない。


 それは分かっている。


 それなのに、行かないという選択だけはできなかった。


 もう会えなくなるなんて、嫌だ。


「綾目ちゃん……!」


 通話は切れていた。


 呆然と画面を見つめる。


 数秒遅れて、心臓が誰かに強く握られたように激しく脈打ち始めた。


「……行かなきゃ」


 呟いた時には、もう身体が動いていた。


 君野はベッドへ放り投げていた青いジャケットを掴み、そのまま玄関へ駆け出した。




 一方。


 病院にいる綾目は、自分へ従順な看護師へスマートフォンを返していた。


 ――どうして?


「私のこと、好きって言ったのに……」


 下唇を強く噛む。


「許せない」


 好きだと言ったのなら、責任を取って。


 私以外を優先するなんて、許さない。




 1時間後。


 君野は当日の面会許可を取り、綾目の病室へ駆け込んだ。


「ごめんね!遅くなって……」


 額には汗が滲み、息も切れている。


 それでも君野は、安心させようと穏やかに笑った。


「30分、いっぱい話そう」


 だが綾目は、いつもの笑顔を見せなかった。


 冷ややかな瞳で、君野をまっすぐ見つめている。


「どうして、約束の時間に来なかったの?」


「えっと……その……」


瑠璃子(るりこ)に会っていたんでしょう?」


 静かな声だった。


 怒鳴られてはいない。


 なのに、君野の身体は震え始める。


 何も悪いことはしていないはずだった。


 それでも、目の前で裁きを待たされているような息苦しさがあった。


「ねえ」


 綾目は視線を逸らさない。


「言ってくれたよね。私のこと、昔から好きだったのかもしれないって」


「っ……」


 そう言った。


 確かに、あの時はそう感じていた。


 桜谷という存在を知ってから、綾目へ抱いていた感情は、勘違いだったように少しずつ薄れていった。


 その沈黙だけで、綾目はすべてを察した。


 瞳から、すっと温度が消える。


「あっ――」


 突然、腕を掴まれた。


「わっ!?」


 自分とほとんど身長の変わらない綾目に引き寄せられ、そのまま病室のベッドへ倒れ込む。


 君野は驚いたまま固まった。


 綾目はその上へ覆いかぶさり、ゆっくり顔を近づける。


 瞳孔を大きく開き、逃げ道を塞ぐように君野を見つめた。


「私は、あなたのことが本気で好きなの」


 震える声だった。


「あの子に取られたくない」


「ごめん……本当にごめん」


 君野は視線を逸らした。


「記憶が消えていて……その、桜谷さんのことを知ったら、綾目ちゃんに感じていたものが、少しずつ流れていくみたいで……」


「言ったでしょう?」


 綾目は逃がさないように、さらに顔を近づける。


「君野くんは、堀田くんにも瑠璃子にも、本当の自分を見せられないの」


「それは……」


「見せたら嫌われるって、自分でも分かってたじゃない」


 君野の喉が、小さく鳴った。


「誰も、本当の君野くんなんて好きじゃない」


 その一言が、胸の奥へ深く突き刺さる。


 否定したい。


 けれど今の君野には、それを跳ね返すだけの自信も勇気もなかった。


「私だけよ」


 綾目の瞳から、静かに涙がこぼれる。


「私だけが、本当の君野くんを知ってる」


 その涙が、君野の頬へ落ちた。


「あなただけが、本当の私を知ってる」


 綾目は両手を広げ、歪んだ笑みを浮かべる。


 口元だけが笑い、身体は小刻みに震えていた。


「だから私たちは、2人でいるしかないの」


「……」


「ほら、見て」


 綾目は涙を流しながら、嬉しそうに笑った。


「私の感情が動いてる」


 その声は、歓喜に近かった。


「あなたのこと、こんなに好きなの」


 君野は何も言えない。


「私に、呪いのキスなんて効かないわ」


 綾目はそう言い切った。


「君野くんが一番苦しい時、相談したのは私だった」


 優しく言い聞かせるように続ける。


「それが答えでしょう?」


 君野の顔へ、ゆっくりと唇が近づく。


「本当は誰が一番好きなのか、君野くんはもう分かってるの」


「……」


「今、証明して」


 甘い声が耳元へ落ちる。


「約束を破って、瑠璃子に会いに行ったんだもの」


 綾目は悲しそうに目を細めた。


「それって、浮気でしょう?」


「……そう、だよね」


 言葉が重い刃のように胸へ沈んでいく。


 じゃあ、本当に僕を愛してくれているのは、綾目ちゃんなのだろうか。


 もう、何も分からなかった。


「私のこと、好き?」


 白い指先が、君野の唇へ触れる。


 生温かい息が、その指の間をすり抜けた。


「呪いのキスを跳ね返せるのは、私だけ」


 綾目はそう囁き、無抵抗の君野へ口づけた。


 しばらくして、唇が離れる。


「ねえ」


 綾目はすぐそばから、君野の瞳を覗き込んだ。


「私のこと、世界で1番好き?」


「……うん」


 君野は力なく答えた。


 その瞬間だった。


 真っ白な天井へ、黒い靄がふっと浮かび上がる。


「……」


 君野は目を凝らした。


 綾目も視線を追い、天井を見上げる。


「何か見えるの?」


「ううん……」


 君野は小さく首を振った。


 瞬きをした時には、もう靄は消えていた。


 綾目は再び彼へ視線を戻し、満足そうに微笑む。


「ねえ」


 君野の頬を撫でながら、静かに囁いた。


「2人だけで、幸せになろうね」




 その夜、午後11時。


 君野は自室で、やりかけの冬休みの宿題を無造作にベッドの下へ押しやった。


 部屋の明かりもつけないまま、毛布へくるまる。


 目を閉じると、綾目の顔が浮かんだ。


 唇が触れた、あの一瞬。


 どうしても忘れられない。


「……」


 ぼんやりとスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。


 指が止まった先には、桜谷とのトーク画面があった。


「……桜谷さん、今何してるんだろう」


 何かを書こうとしているわけじゃない。


 ただ画面を眺め、親指だけが宙をさまよっている。


 本当に、自分は最低だ。


 女の子とキスをしたその日に、別の女の子へ連絡しようとしている。


 揺れる気持ちは、ますます自分を苦しめていた。


 トーク画面を開いては閉じ、閉じてはまた開く。


「……デジタル不審者だ」


 思わず自嘲した、その時だった。


「あっ」


 手が滑り、スマートフォンがベッドの下へ落ちる。


「もう……」


 毛布から身を乗り出し、必死に手を伸ばして拾い上げた。


 その瞬間。


『――もしもし?君野くん?』


「うわっ!?」


 落とした拍子に、通話ボタンへ触れてしまったらしい。


 桜谷へ電話がつながっていた。


 慌てて切ろうとする。


 だが――。


 今の苦しい気持ちを、誰かに聞いてほしい。


 そんなわがままが勝った。


 君野はそのままスピーカーモードへ切り替えた。


「どうしたの、君野くん? もしもし?」


「ご、ごめん……間違ってかけちゃった」


「……そうなの」


 桜谷は落ち着いた声で答える。


「じゃあ、おやすみ」


「あ、待って!」


 思わず大きな声が出た。


「待って……」


「なに?」


「あのね……その……」


 喉が詰まる。


「今から、変なこと言ってもいい?」


「……ええ」


 少しだけ間があったあと、桜谷は静かに返事をした。


「今日ね……病院で、綾目ちゃんとキスしちゃった」


 沈黙が流れる。


 数秒後、桜谷が静かに口を開いた。


「……そうなの」


「うん。でも、不可抗力というか……なんというか……」


 言葉がまとまらない。


「いや、ごめん。こんなこと、桜谷さんに言うべきじゃなかった」


 自分でも分からない。


 どうして真っ先に、このことを彼女へ話してしまったのか。


「ううん」


 桜谷の返事は穏やかだった。


「落ち着いて。キスは、君野くんが望んだことじゃなかったのよね」


「そう……そうなんだ」


 君野は安堵したように息を吐く。


「それで、そのまま電話がかかっちゃって……」


「ううん」


 桜谷は少し笑った。


「ちょうど私も、君野くんと話したいと思ってたから」


「ほんと?」


 思わず声が弾む。


「ごめんね。こんな遅い時間に」


 君野の混乱を察したのだろう。


 桜谷は努めて明るい声を作る。


「ねえ。また明日会える?」


「え?」


「午前中、お茶でもしない?」


「うん!」


 君野は勢いよく起き上がった。


「行く!」


 返事をした瞬間、自分でも苦笑する。


 ほんと、僕、浮気者だな……


 それでも、会いたかった。


「じゃあ、おやすみ」


「うん。おやすみ、桜谷さん。また明日」


 通話が切れる。


「……はぁ」


 君野はスマートフォンを胸へ抱き寄せた。


 よかった。


 声が聞けた。


 それだけで、胸の奥に渦巻いていた靄が少しずつ晴れていく。


「やっぱり、この感覚……間違ってなかったんだ」


 大きなあくびが1つ漏れる。


 明日が楽しみだ。


 そう思えるだけで、心は少し軽くなっていた。


 君野は微笑みながら、そのまま眠りについた。




「……キス、したのね」


 一方その頃。


 桜谷はドレッサーの前へ腰掛け、長い黒髪を静かに梳かしていた。


 明日になれば――。


 綾目ちゃんの記憶は消えているのか。


 それとも、消えていないのか。


「……」


また会いたい。


その気持ちだけは、止められなかった。


鏡へ目を向ける。


そこには、自分でも呆れてしまうほど嬉しそうに微笑む自分が映っていた。

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