第45話「君野をメロメロにせよ!」
「あら、また病院に出かけるの?」
星を見た翌日。
晴れ渡った朝、キッチンにいた君野の母は、出かける支度をする息子へ声をかけた。
「うん!」
最近の吉郎は、家族との予定も後回しにして病院へ通っている。
心配ではある。
けれど、病院の友達に会いに行くと言われると、引き止めることもできなかった。
そんな母の複雑な表情には気づかないまま、君野は青い厚手のジャケットを羽織り、慌ただしく玄関を飛び出す。
――あの病室へ行かなきゃ。
なぜか、そう思ってしまう。
「待って」
「!」
玄関を出て左へ向いた瞬間、声をかけられた。
振り返ると、昨日一緒に星を見た桜谷が立っている。
「あ、こんにちは」
「病院、行くの?」
「桜谷さんもこれから?それなら一緒に行こう!」
君野は穏やかに笑い、彼女へ手を差し出した。
「行かないで」
「え?」
「綾目ちゃんのいる病室には、行ってほしくないの」
思いがけない言葉に、君野は固まった。
「すぐ戻ってくるから……」
「ダメ!」
桜谷は感情のまま彼の腕を掴む。
「どうして?僕の勝手だよ。納得できる理由がなきゃ、行かない理由も見つからないよ……」
「私の言うこと、聞いて……」
桜谷は唇を噛み、俯いたまま彼の腕を離さなかった。
その小さな手に込められた必死さが伝わってくる。
なぜか、その意地っ張りな姿が愛おしかった。
「……わかったよ。今日は行かない」
本当は病院が気になって仕方ない。
それでも今は、彼女を一人にしておけない気がした。
「ありがとう……。ねえ、一緒に駅前の新しいドーナツ屋さんに行かない?」
「ドーナツ好きなの?」
「き、君野くんが好きそうなお店、調べたの……」
「えっ!本当?」
君野の表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ行こう!」
2人は肩を並べ、駅前へ向かった。
「怒ってない?本当は病院へ行きたかった?」
「未練がないって言ったら嘘だけど……それ以上に、やっぱり桜谷さんも放っておけないなって」
「それって、私だけ記憶が変だから?」
「それもあるけどね」
含みのある返事に、桜谷は首を傾げた。
「他には?」
「内緒!」
君野は、にひっと笑う。
桜谷は眉を寄せた。
「どうして教えてくれないの?」
「言ったら、それが見られなくなるから」
「……何?」
もしかして、からかわれてる?
彼は本当に、私を一番好きになってくれるんだろうか。
そんな焦りが胸に広がっていく。
2人は新しくできたドーナツ店へ入った。
セルフサービスで好きな商品を選び、会計を済ませてイートイン席へ座る。
桜谷はホットコーヒーとシンプルなドーナツを2つ。
君野はクリームたっぷりの甘いコーヒーに、カスタードやクリームが山ほど入ったドーナツを3つ、それにコーンスープまで注文していた。
「ねえ、君野くん」
口元へクリームを付けたまま幸せそうに食べる彼へ、桜谷は問いかける。
「綾目ちゃんと堀田くん、どっちが好き?」
「どっちも好きだよ」
「じゃあ、どっちが上?」
「うーん……」
困ったように首を傾げる。
桜谷はテーブルのドーナツを指差した。
「じゃあ、このドーナツなら?」
「天使のふわふわカスタード!」
「そのドーナツが綾目ちゃんと堀田くんだったら?」
「うーん……綾目ちゃんかな。こっちの方がふわふわで甘いんだ!」
「……ふーん」
桜谷は複雑そうに呟く。
一方の君野は満足そうにお腹をさすった。
「美味しかった!」
店を出ると、2人は駅前を並んで歩き始めた。
しばらく歩いたところで、桜谷はふと足を止める。
「ねえ、ちなみに私は君野くんにとって何番?」
君野はきょとんと首を傾げた。
「何番がいい?」
「私が聞いてるの。あなたに」
また、はぐらかす。
桜谷は少しだけ頬を膨らませた。
どうして素直に答えてくれないの。
こんなやり取りばかりしていたら、肝心な気持ちが何も分からない。
「僕は1番だよ!」
「え?」
あまりにも真っすぐな答えだった。
その一言だけで胸が高鳴る。
なのに――。
「……嘘よ。どうせ病院へ行ったら、あの2人にも1番好きって言うんでしょ」
思ってもいない言葉が口をついて出た。
君野は返事をしない。
「君野くん?」
「……あ、ごめん」
彼はようやく顔を上げた。
「考え事してた」
「もう……」
せっかく勇気を出したのに。
少し拗ねたように目を逸らす。
「……あ、帰る?」
君野は悪びれる様子もなく尋ねた。
「他にしたいことがなかったら、今日は解散しよう」
その言葉に、桜谷は胸が締めつけられた。
ここで別れたら。
また綾目のところへ行ってしまうかもしれない。
「嫌」
小さく首を振る。
「帰りたくない」
「そっか」
君野は嬉しそうに笑った。
「じゃあ駅前をもう1周しよう!」
2人は目的もなく歩き始めた。
駅前をぐるりと1周。
そして、もう1周。
ただ歩いているだけなのに、不思議と時間だけが過ぎていく。
……焦ってる。
どうすれば彼は私を一番好きになってくれるんだろう。
考えれば考えるほど、その答えは遠ざかっていく。
やがて2人は、桜谷の家の前までやって来た。
「ここが家なんだね。おしゃれだね」
君野が笑顔でそう言って彼女の顔を覗き込む。
その瞬間、桜谷の瞳が涙で潤んでいることに気づいた。
「……何で泣いてるの?」
「今日の全部が……うまくいかなかったから……」
彼女は俯いたまま、小さく答える。
病院へ行くのは止められた。
一緒にドーナツも食べた。
ずっと隣を歩くこともできた。
でも、不安なこともたくさんあった。
私は、本当に君野くんだけを1番に好きになれているんだろうか。
そして、君野くんも私を1番に想ってくれるんだろうか。
「そうかな?」
君野は優しく笑う。
「僕はすごく楽しかったよ。また遊ぼうよ」
そう言って、そっと彼女の頭を撫でた。
大きな手が、髪を優しく滑っていく。
その温もりに、桜谷はまた涙がこぼれそうになった。
「……また会ってくれる?」
「うん!」
迷いのない返事だった。
「指切りしてもいい?」
桜谷がおずおずと小指を差し出す。
君野も笑いながら小指を立てた。
「ゆびきりげんまん――」
君野が懐かしそうに歌い始める。
その声を聞きながら、桜谷は静かに目を閉じた。
昔できなかったこと。
他愛もない話をしながら笑うことも。
今、1つずつ叶っている。
一喜一憂している自分が、少しだけ情けない。
それでも――。
こんな当たり前の日常が、たまらなく幸せだった。




