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第44話「幻のオリオン座」

 

 私がこの賭けに出ようと決めたのは、つい先日のことだった。


 君野(きみの)くんと夜の公園で会い、手紙を拾ってもらった、あの日。


 彼と別れたあと、私はふらふらと家路についていた。


「あれ?瑠璃子(るりこ)ちゃん!」


 ちょうど君野くんの家の前を通り過ぎようとした時だった。


 玄関先に立っていた彼のお母さんが、私を見つけて手を振っている。


 私は咄嗟に街灯の下から離れた。


 辺りはすでに暗い。


 近づいた頃には、泣き腫らした顔まではよく見えていないようだった。


「こんばんは……」


「寒そうね。ねえ、これ持って帰る?」


 差し出されたのは、小さなお菓子の袋だった。


 幼稚園時代のママ友と会った帰りで、余ったものらしい。


「あ、ありがとうございます」


 袋を受け取り、そのまま帰ろうとした時だった。


「ねえ、見て、これ!」


 彼女は嬉しそうに、スマートフォンの画面をこちらへ向けた。


吉郎(よしろう)なの。親ばかかもしれないけど、幼稚園生の頃はものすごく可愛くてね~!女の子たちにキスされすぎて、1歩も歩けなくなっちゃって。最後には床へ突っ伏して泣いてたって、先生が言ってたのよ」


 画面の中には、小さな天使のような君野くんがいた。


 思わず笑みがこぼれる。


「それでね、ちょっと不思議なことがあって……」


 彼女は楽しそうに、その続きを話し始めた。


 幼稚園では、君野くんが歩くたび、女の子たちが競うようにキスをしてきたこと。


 けれど、どれだけキスをされても、その子たちを忘れることはなかったこと。


 ただ1人。


 本当に好きだった女の子とキスをした時だけ、その子に関する記憶がすべて消えてしまったこと。


「……なるほど」


 話を聞き終え、私は君野くんのお母さんと別れた。


 冷たい夜道を歩きながら、何度もその話を頭の中で繰り返す。


 それは、私がずっと抱いていた疑念を裏づけるものだった。


 どうして君野くんは、私との記憶だけを失い続けるのか。


 私がキスをするたび、彼の中から私だけが消えてしまうのか。


 答えは、最初から逆だった。


 呪いを持っていたのは、私ではない。


 君野くんの方だった。


 彼が最も愛している相手とキスをした時、その人に関する記憶だけが消える。


 それが、君野くんの生まれ持った『呪いのキス』だった。


「……私、ちゃんと愛されていたんだ」


 忘却の愛。


 そんな言葉が、ふと頭をよぎった。


 君野くんは、何度忘れても。


 何度、私との記憶を失っても。


 そのたびに、もう1度私を好きになってくれた。


 ずっと私を1番に選び続けてくれていた。


「私は……彼を愛する資格なんてあるの……?」


 答えてくれる人はいない。


 頭の中でばらばらになっていた点が、1本の線で繋がっていく。


 絶望しかないと思っていた状況へ、かすかな光が差し込んだ。


 ……もしかしたら。


 まだ、やり直せるかもしれない。



 だから私は、この賭けに出ることを決めた。


 まず、君野くんにもう1度、私を1番好きになってもらう。


 そのうえで、私とキスをする。


 そうすれば、君野くんの中から私の記憶が消え、次に好きな綾目ちゃんが1番へ繰り上がる。


 その直後に、綾目ちゃんとキスをさせる。


 呪いがもう1度発動すれば、今度は君野くんの中から綾目ちゃんの記憶も消えるはず。


 私も、綾目ちゃんも、彼の中からいなくなる。


 それが、私の『呪いのキス作戦』。


 君野くんを、私たち2人の執着から解放するための、最後の賭けだった。


 だから私は、今すぐキスを選ばなかった。


 本当なら、それが1番早い。


 でも――まだ、その時じゃない。


 あの呪いには、どうしても越えなければならない条件がある。



 焦って、すべてを台無しにするわけにはいかない。





 少し前を歩く君野くんへ、私は小走りで追いついた。


「君野くん」


「!」


 振り返った彼は、私を見るなり目を丸くした。


 私は手にしていた紙袋を差し出す。


「これ、ありがとう」


「ぼ、僕ですか? えっと……」


 紙袋から、青い厚手のジャケットを取り出した。


「ああ!」


 君野くんは、ようやく思い出したように声を上げる。


「それ……夜の公園で会った子?」


「そう。私、おばけみたいだったでしょ?」


「いや、おばけだなんて……」


 彼は困ったように笑い、首を振った。


「これを返すために、わざわざ来てくれたの?」


「……私、桜谷瑠璃子っていうの」


「えっ!」


 彼の目が大きく見開かれる。


「桜谷さんって、あなたなの!?」


「そのスマートフォンに、私の写真は入ってなかった?」


「ごめん」


 申し訳なさそうに頭をかく。


「前のスマートフォン、水没しちゃってさ。同期もしてなくて、昔の写真、全部消えちゃったんだ……」


「そうなの……」


 私は少しだけ俯いた。


 すると彼は、何事もなかったように笑った。


「……一緒に帰る?」


 その一言だけで、胸が締めつけられる。


 いいの?


 この作戦も、また彼を振り回してしまうことに変わりはない。


「…うん」


 桜谷は頷いた。

 その葛藤が、駅へ向かう2人の間へ静かな沈黙を落としていた。


 ホームへ吹き込む冬の風だけが、その沈黙をいっそう際立たせる。


 電車を待っていると、君野くんが先に口を開いた。


「桜谷さんは、どうしてあの公園で泣いてたの?」


「……私の大切なあなたが、そこにはいないって分かったから」


「え?」


「ねえ」


 私は君野くんを見つめた。


「もう一度、あの公園まで来てくれる?」


「……う、うん」


 ちょうどその時、電車がホームへ滑り込んできた。


 2人は並んで座席へ腰を下ろす。


「寒くない?」


「……寒くない」


 短く答え、窓の外へ視線を向けた。


 本当は、まだ少し寒かった。


 けれど、彼のジャケットを返した今、それを口にするのは卑怯な気がした。


 最寄り駅で降り、そこから10分ほど歩く。


 やがて、あの公園へ辿り着いた。


 冬の曇り空が、公園全体を灰色に染めている。


 人の姿は、どこにもなかった。


「不思議ね……」


 私は公園の中央を見つめた。


「ここにはまだ、あなたと過ごした残像が見えるの」


 静かに目を閉じる。


 ブランコ。


 滑り台。


 砂場。


 そして…


「私ね、君野くんとこの公園で遊んで、たくさんの星を見たの」


「え?いつ?」


「……ううん」


 私は小さく首を振った。


「それは、本当じゃなかった」


 自嘲気味に笑う。


「私が勝手に作った妄想だったの」


「妄想……?」


「勝手にあなたを恋人だと思い込んで、勝手に思い出まで作ってた」


「……」


「気持ち悪いでしょ。……でもね」


 私は灰色の空を見上げた。


「私が今ここに立っていられるのは、その都合のいい薔薇色の思い出があったからなの」


 君野くんは何も言わなかった。


 ただ、静かに私の話を聞いてくれていた。


 厚い雲の向こうを見つめながら、私は鼻をすすった。


「不思議よね」


 涙で滲む空へ微笑む。


「あなたと本物の星を見たことなんて、1度もないのに」


 胸の前で、冷えた指を握り締める。


「それでも、あなたを好きになった瞬間だけは覚えてる」


 君野くんは少し困ったように笑った。


「僕はその妄想通りだった?失望したんじゃない?」


「するわけない」


 私はすぐに答えた。


「本物の君野くんは、枕の中で作られた理想より、ずっと温かいもの」


 ゆっくりと彼を見る。


「偽物の記憶の中にいたあなたより、ずっと素敵な人よ」


 その言葉に、君野くんは照れくさそうに頭をかいた。


「……ねえ」


 少し考えたあと、彼が口を開く。


「今から、本物の思い出を作らない?」


「え……?」


「今日、夜になったら一緒に星を見よう!」


 無邪気な笑顔だった。


「今日、本物にすればいいよ!」


 胸が大きく跳ねた。


 さっきまで胸を覆っていた暗い雲が、一瞬で吹き飛んでいく。


 まるで初めてデートに誘われた少女みたいに、心が浮き立った。



「……7時には見えるかな」


 私は空を見上げた。


「オリオン座。蒸し暑い蝉の声を聞きながら、ここで見た覚えがあるの」


「え?」


 君野くんが、不思議そうに首を傾げる。


「オリオン座って、冬の星座じゃない?」


「……」


 息が止まった。


 そうだ。


 そんな当たり前のことにさえ、今まで気づかなかった。


 夏の蒸し暑い夜に、冬の星座が見えるはずがない。


 あまりにも明白な矛盾だった。


 それでも私は、疑うことすらせず、あの記憶を信じ続けていた。


 どれだけ深く、偽りの思い出へ縋っていたのだろう。


 思わず、乾いた笑いが漏れる。


「……ほんと、馬鹿ね」


 もう、鼻で笑うしかなかった。


「じゃあ!」


 君野くんが、沈みかけた空気を吹き飛ばすように明るく声を上げた。


「僕、7時にこの公園へ来るから!」


「……ありがとう」


 2人は約束を交わし、いったん別れた。




 家へ帰ると、部屋には久しぶりに穏やかな空気が流れていた。


 ベッドも、机も、本棚も、何も変わっていない。


 けれど、昨日までとは違って見える。


 ――君野くんは、たまたま私たちの思い描いた理想の王子様だった。


 綾目ちゃんの言葉が、胸の奥へ突き刺さる。


 彼は、私の理想と、本物の君野くんが、偶然重なっていただけだった。


「だから、君野くんのことが好きなんだ」


 声に出した瞬間、その事実がゆっくりと胸へ染み込んでいく。


 脱いだばかりのコートを抱き締める。


 彼から返してもらったジャケットの匂いが、まだわずかに移っている気がした。


「っ……」


 そのまま顔を埋めた瞬間、涙が溢れ出した。


 嗚咽を押し殺そうとしても、声が漏れる。


 肩が小さく震え続けた。


 嬉しい。


 今度こそ、本当に彼を好きになれた。


 それなのに――。



 作戦が成功すれば、君野くんは私を忘れる。



 もう1度好きになってもらえたとしても、その瞬間にすべてを失う。


 そう思うほど、涙は止まらなかった。




 午後6時45分。


 君野は返してもらった青いジャケットを羽織り、公園へやって来た。


 厚い雲が空を覆い、星はほとんど見えない。


「星……見えるかな」


 彼は空を見上げる。


 塵のような小さな星屑。


 どうしてあんなに綺麗なんだろう。


「僕の部屋のホコリも、星みたいに光ったら綺麗かなあ……」


「君野くん」


 振り返ると、桜谷が立っていた。


 白いファー付きのコートにマフラーを巻き、冷たい息を白く吐いている。


「オリオン座……見えそうにないわね」


 寂しそうに笑う彼女へ、君野も笑顔を返した。


「ねえ。僕たちは、どこで星を見てたの?」


「ここ」


 桜谷は公園の中央を指差した。


「ここにあったドーム型の遊具の上」


 しかし、そこにはもう遊具はない。


 砂地だけが広がっていた。


「そっか……なくなっちゃったんだね」


 2人は同じ場所を見つめる。


 重たい沈黙が流れる。


 今日だけは見えてほしい。


 そんな願いを胸に抱えたまま、桜谷が静かに口を開いた。


「もう、この薔薇色の思い出は封印しようと思うの」


 君野が振り向く。


「だから、新しい思い出を作りたい」


 少し照れながら、マフラーの端を差し出した。


「……これ、片方してほしい」


「うん」


 君野は受け取ると、自分の首へ巻き付けた。


 1枚のマフラーで繋がった2人。


 さくらんぼみたいに、自然と距離が近づく。


 少し照れながら並び、夜空を見上げた。


 その時だった。


 君野がそっと右手を伸ばす。


 桜谷の左手を、ぎゅっと握った。


「!」


 一瞬だけ肩が跳ねる。


 けれど、彼女は手を振りほどかなかった。


 もう、オリオン座なんて見えなくてもいい。


 彼の温もりだけで、あの頃の孤独が少しずつ溶けていく気がした。



「寒いし、帰る?」


 桜谷が尋ねる。


 君野は首を横に振った。


「もう少し待ってみよう」


 君野は寒さで唇を震わせながらも、手を離さなかった。


 桜谷も、そっと握り返す。


 すると――


「あっ!!」


 君野が空を指差した。


「オリオン座!!見て!」


「……!」


 雲が一瞬だけ切れた。


 その隙間から、オリオン座が夜空に姿を現す。


「ほんとだ……見えた……!」


 桜谷の瞳に、幻だったはずの星座が映る。


 ほんの数秒。


 それだけで十分だった。


「あの星座だけ、なんであんなに分かりやすいんだろ……あれ?」


 君野が隣を見る。


 桜谷は目頭を押さえていた。


「……泣いてるの?」


「……ありがとう」


 涙をこぼしながら微笑む。


「もう、思い残すことはないわ……」


 その笑顔を見た瞬間だった。


 君野はマフラーを少し緩め、そのまま桜谷を抱きしめた。


「!」


 突然のことに、桜谷の身体が小さく跳ねる。


 けれど次の瞬間には、彼の温もりへ静かに身を預けていた。


「……どうして私を抱きしめたの?」


「わかんない」


 君野は困ったように笑う。


「なんか急に愛しくなって……でも同時に、悲しくなって……」


 君野は桜谷を抱きしめたまま、小さく呟いた。


「……僕の望んだ運命が」


 一度、言葉を探すように息を止める。


「運命じゃなかった気がしたんだ」


 その一言に、桜谷は答えられなかった。


 言葉は見つからない。


 けれど、今だけは答えなんていらない気がした。


 偽物だった思い出は消えた。


 代わりに今、この夜の出来事は本物になった。


 君野と見上げた夜空。


 繋いだ手。


 同じマフラーの温もり。


 そして、この抱擁。


 もう誰にも奪えない、本当の思い出だった。


 2人はしばらく何も言わず、静かな冬の公園で寄り添い続けていた。

29年7月22日

長さ調整などをしました。

展開は一切変わってません。

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