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第43話「四角関係」

「うう……ぐすっ……」


「どうしたの?なんで泣いてるの?」


 病室へ入ってきた君野を見て、綾目はすぐにベッドを下りた。


「堀田くんと、喧嘩しちゃった……」


「大丈夫。私がいるから」


 綾目は君野を抱き締め、宥めるように頭を撫でた。


「うん……ありがとう」


「おいで」


 綾目はベッドへ戻り、自分の隣を軽く叩いた。


 君野は一瞬ためらった。


 けれど、優しく笑う綾目を前に、人恋しさの方が勝った。


 今の君野には、誰かへ向ける愛情も、誰かから受け取った愛情も、すべて底をついていた。


 君野が隣へ入ると、綾目は2人の胸元まで布団を掛けた。


 顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑う。


「僕ね、綾目ちゃんとは不思議な縁がある気がするんだ。どうしてか分からないけど……」


「本当?私のこと、好きなの?」


「分からない。でも……」


「ねえ。それより、どうして堀田くんと喧嘩したの?」


「堀田くんが、僕のことを本当に好きだったのか分からなくなって……」


「どうして?」


「桜谷さんっていう女の子と、すごく仲がいいみたいだから……」


「そっか」


 綾目は同情するように目を伏せた。


「……堀田くんは格好よくて、みんなの憧れなんだ」


 君野の声が、少しずつ沈んでいく。


「僕なんかを相手にするわけないのに。弟に似てるってだけで、好きになってくれただけだもん……」


 綾目の口元が、わずかに歪んだ。


 ――見つけた。


「じゃあ、堀田くんは弟くんを見ていたのかもしれない」


「……え?」


「るりちゃんも、理想の王子様を見ていた」


 君野は小さく瞬きをした。


「2人とも、本当に見ていたのは君野くんじゃなかったのかもしれない」


「そんな……」


「堀田くんには、弟くんの代わりとして。るりちゃんには、理想の王子様として」


 綾目は優しく微笑んだ。


「君野くんは、ずっと誰かが望む君野くんになろうとしてきたんじゃない?」


「誰かが望む……?」


「本当の君野くんが何を望んでいるのか、2人は聞いてくれた?」


 君野は答えられなかった。


「……」


「2人の気持ちを満たすためだけに、君野くんは必要とされていたのかもしれない」


 その言葉が、じわじわと胸へ入り込んでくる。


 否定したい。


 けれど、自分は桜谷という人を覚えていない。


 堀田くんだって、もう僕のことなんか――。


「分からないんだ……」


 君野は両手で顔を覆った。


 指の隙間から、弱々しい声が漏れる。


「本当の僕って、今どこにいるんだろうって、たまに思う」


「そっか」


 綾目は、さらに優しく語りかけた。


「私は君野くんの味方だよ」


 君野の瞳から、大粒の涙がこぼれた。


 綾目は、その身体をもう1度強く抱き締める。


「苦しくなるものは、いったん全部遠ざけてもいいんじゃない?」


「遠ざける……?」


「連絡先を消したり、見えないようにしたり」


 甘い声が、耳元へ落ちる。


「今は私が、君野くんを癒してあげる」


「……毎日、来てもいい?」


「もちろん」


 残りの面会時間、綾目はずっと君野を抱き締めていた。


 その温もりが、空っぽだった心を少しずつ満たしていく。


 久しぶりに、何も考えず、誰かへ甘えられた気がした。




「じゃあね」


「うん。バイバイ」


 2人は名残惜しそうに手を繋ぎ、エレベーターまで歩いた。


 扉が閉まり、君野の姿が見えなくなる。


 しばらくして――。


「ふふ……あはは……!」


 静かな廊下へ、綾目の幼い笑い声が響いた。



 君野は病院を出て、徒歩数分の最寄り駅へ向かっていた。


 その間にも、堀田からメッセージが届いている。


 ――頼む!!綾目に近づくな!あいつはお前を操ろうとしてるだけだ!


 ――俺はお前を愛してる!分かってくれ!


「分かんないよ……何も……」


 今は、何も聞きたくなかった。


 考えることにも疲れていた。


 君野は勢いのまま、堀田と桜谷をブロックした。


 何が正しいのかは分からない。


 それでも今は、綾目の優しさだけを信じていたかった。



 その頃。


 桜谷は、カーテンも開けていない昼の部屋で、1人座り込んでいた。


 何かをする気力は、まだ戻っていない。


 今日も堀田からは、


 ――おはよう。


 ――ちゃんと飯食ったか?


 ――おやすみ。


 そんな短いメールが、何度も届いていた。


 私がまだ死んでいないか、確認しているのだろう。


 堀田の生活時間など、知りたくもない。


 けれど実際、今の自分の命を繋いでいるのは、その煩わしい連絡だった。


 壊してしまった天使の置物にも、少しずつ後悔が生まれている。


 床へ置いていたスマートフォンが震えた。


 画面に表示されたのは、堀田からの新しいメールだった。


 ――助けてくれ……君野が綾目に取り込まれてる!


 衝撃的な文面にも、桜谷の眉は動かなかった。


 当然の結果にしか思えない。


 続けて、もう1通届く。


 ――綾目が知らない女をでっち上げて、俺がそいつとできてるみたいに言ってる!


 ――連絡もつかない。ブロックされたかも_| ̄|○


「知らない女……」


 ……もしかして。


 さらに通知が届いた。


 ――明日、病院の中庭で落ち合おう!


 ――俺、病室抜け出して行く!お前の顔が見たいんだ!


「私が今、そこまでする理由って何……?」


 会いに行く理由などない。


 もう、自分と君野は赤の他人だ。


 けれど、完全に離れるのなら、堀田には伝えておかなければならないことがある。


 呪いのキスについて。


 そして、堀田の言う「知らない女」が自分なのだとしたら、なおさらだった。


 桜谷はしばらく画面を見つめたあと、短く返信を打った。


 ――いいわ。落ち合いましょう。


 初めて、堀田へ返事を送った。


 自分がこれから生きるかどうかは、そのあとで考えればいい。


 まずは、明日何を着ていくか決めなければ。


 そう思い、壁際の姿見へ目を向ける。


 映った自分の顔を見て、思わず乾いた笑いが漏れた。


「……なんて酷い顔」




 翌日、午前10時。


 堀田は病室を抜け出し、病院の中庭にあるベンチで桜谷を待っていた。


「おはよう」


「……よく来たな」


 顔を上げると、桜谷はいつもの仏頂面で立っていた。


 白いコートに黒のデニム。


 けれど頬は痩せ、目元にも疲れが滲んでいる。


「すまん!!!」


 堀田はベンチの上へ膝をつき、そのまま頭を擦りつけるように下げた。


「俺、お前が暴力を振るう理由を勝手に暴こうとして……正義感を振りかざした挙げ句、綾目に全部話しちまった」


 拳を強く握る。


「それが、こんなことになるなんて……」


「ええ。とんでもないことにしてくれたわね」


「本当に申し訳ない!!」


「……はぁ」


 桜谷は白い息を吐き、堀田の隣へ腰を下ろした。


 目線を落としたまま、遠くの植え込みを眺める。


「腹が立って、あなたにもらった天使の置物を壊したわ。一応、謝っておく」


「そんなの、欲しかったらまたいくらでも買ってくる!」


 堀田は顔を上げた。


「もういらないわ」


「頼む!!こんなこと言うのは身勝手だって分かってる。でも、君野を一緒に助けてくれ!」


 必死な声が、中庭へ響く。


「あいつ、いつの間にか綾目と交流してて……気づいた時には、連絡も取れなくなってた」


「……あ、私もブロックされてる」


 桜谷は淡々と答えた。


「綾目ちゃんの支配は、もうかなり深いところまで入り込んでると思う」


「でも、お前はまだ君野と喧嘩してないだろ?説得してくれないか?」


「無理」


「無理って……君野がどうなってもいいのか!?」


「もう、彼は私のことを覚えていないから」


 堀田の表情が止まった。


「どういうことだ?綾目に、そういう力があるのか?」


「違う」


 桜谷は小さく首を振る。


「私が、君野くんに呪いのキスをしていたの」


「呪いのキス……?」


「もういいから、普通に座って」


「あ、ああ……」


 堀田はようやく正座を崩し、足をベンチの下へ下ろした。


「その呪いのキスって、何なんだ?」


「私が君野くんにキスをすると、彼の中から私に関する記憶だけが消える」


 桜谷は前を向いたまま続ける。


「今の君野くんは、私の存在そのものを忘れてる。これまでにも、おかしなことは何度もあったでしょう?」


「確かに……」


 堀田の脳裏に、これまでの君野の不可解な言動が蘇る。


「説明のつかないことばっかりだった……」


「あなたと君野くんを奪い合っていた時、私はそのキスを使って、あなたを陥れようとしてた」


「……」


「そして最後に、君野くんとの関係を終わらせるため、もう一度使ったの。だから彼は覚えていない」


「じゃあ、なんで今日来てくれたんだ?」


「あなたのメールがうるさかったからよ」


 桜谷はつんと顔を背けた。


 その態度に、堀田はほんの少しだけ息をつく。


 自分が送り続けたメールは、無駄ではなかった。


「じゃあ『知らない女』は……」


「たぶん私ね」


「それなら全部、辻褄が合う!」


 堀田は勢いよく身を乗り出した。


「だったら今すぐ誤解を解けば、君野を綾目から引き離せるよな!?」


「……まだ、泳がせた方がいいわ」


「泳がせるって……策はあるのかよ!」


 桜谷は何も答えず、すっと立ち上がった。


「じゃあ、帰る」


「はい!?」


 そのまま背を向け、病院の出口へ歩いていく。


「ちょ、待て!策は!?君野はどうすんだよ!」


 桜谷は振り返らなかった。


 堀田が唖然とその背中を見送っていると、


「堀田くん!!!そこにいたの!!」


 聞き覚えのある声が響いた。


 病院の入口付近で、いつもの年配の看護師が腰に手を当てている。


「もう!そんな勝手なことしてたら、本当に病室から出られなくなりますよ!」


「……すみません」


 堀田は肩を落とし、看護師に連れられて病棟へ戻ることになった。


 その途中。


 ふと、中庭の大きな木の下にあるベンチが目に入る。


「あ……」


 見覚えのある後ろ姿。


「あれ、君野……?」


 ベンチには、君野が1人の少女と並んで座っていた。


 互いに身を寄せ、親しげに話している。


 その相手は――綾目だった。


 堀田の頭に、一気に血が上る。


 俺を。


 君野を。


 あの女は、どこまで――。


「君野!!!」


 怒鳴り声が中庭へ響き渡った。


 君野と綾目だけでなく、その場にいた全員が一斉に振り返る。


「聞いてくれ!!桜谷は知らない女じゃない!!俺とお前の友達だ!!」


 堀田は息を切らしながら叫んだ。


「でも僕、その子を知らないよ……」


「違うんだ!」


 堀田は一歩踏み出す。


「お前は桜谷とキスをするたびに、あいつの記憶だけが消える呪いをかけられてたんだ!!」


 その言葉へ反応したのは、君野より先に綾目だった。


「え? 何それ。呪いのキス?」


 興味深そうに首を傾げる。


「教えて、堀田くん」


「うるさい!!さっさと君野を返せ!!」


 堀田は睨みつけた。


 綾目は肩をすくめると、君野の腕へそっと手を添える。


「君野くんから離れて。もうあなたのものじゃないわ」


「なんだと!?奪ったのはお前だろ!!」


 堀田は一気に距離を詰めようとする。


「とっとと離れろ!!」


「きゃーーー!!誰かー!!」


 綾目が大げさな悲鳴を上げた。


 すると病院入口の方から、看護師や警備員が一斉に駆け寄ってくる。


「看護師さん!」


 綾目は堀田を指差した。


「この人、ケダモノです!!大きな注射をしてあげてください!」


「お前……!!」


 前日の再現だった。


 男性看護師たちが堀田の両腕を押さえる。


「離せ!!君野!!」


「暴れないでください!」


「君野!!戻ってきてくれ!!」


 どれだけ叫んでも、その声は届かない。


 堀田は再び病棟へ連れ戻されていった。


 ようやく周囲が静かになる。


 綾目は何事もなかったかのように首を傾げ、隣の君野を見つめた。


「……ねえ、君野くん。呪いのキスって知ってる?」


「いや……分かんない」


「るりちゃんが君野くんへキスすると、君野くんの中から彼女だけが消えるって言ってたわよね」


「うん……そんなこと、あるのかな」


「じゃあ」


 綾目は少し身を寄せる。


「今、私と君野くんがキスしたら、私のことも忘れちゃうのかな?」


「……あ」


 君野は少し考えてから首を振った。


「でも僕、前に堀田くんとキスした時は何もなかったよ。ちゃんと覚えてるし」


「そうなんだ」


 綾目はさらに顔を近づける。


「ねえ、1回だけ試してみる?」


 唇が届きそうな距離。


 けれど君野は、浮かない表情のままだった。


「ごめん」


 小さく目を伏せる。


「堀田くんをあんなふうにした後だと……なんか、申し訳なくて」


「そんな言い方するんだ」


 綾目は少し頬を膨らませた。


「私のこと、世界で1番好きじゃないの?」


「好きだよ」


 君野は迷いなく答える。


「大好きだよ……」


「……そう」


 綾目は小さく微笑んだ。


「じゃあ、また来てくれる?」


「うん。また来るよ」


 2人はベンチの前で別れた。


 君野が何度も振り返りながら手を振る。


 綾目も笑顔で手を振り返し、彼の姿が見えなくなったところで、ゆっくりと手を下ろした。


 そして静かに思う。


 ――彼の、あの天使みたいな優しさは。


 枕で作られたものなんかじゃない。


 最初から、あの子自身のものなんじゃないか。


 ……そう思いたい自分がいる。


 まだ誰も、本当の価値には気づいていない宝石。


 その宝石を見つけたのは、堀田くんと瑠璃子。


 でも、手に入れるのは私。

 

「誰にも彼を、渡さないから……」




 病院入口。


 綾目からは見えない柱の陰で、1人の少女がその一部始終を見つめていた。


 桜谷だった。


「……土下座した意味、どこへ行ったのよ」


 小さく息を吐く。


「でも――」


 その瞳には、いつもの冷たい光が戻っていた。


「こんなに早く思惑どおりに進むなんて、思ってもみなかったわ」


 そう呟くと、病院を出ていく君野の背中を見つける。


 桜谷はコートの裾を(ひるがえ)し、その後を静かに追いかけた。

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