第40話「手遊び」
病院から帰宅した桜谷は、玄関の鍵を閉めると、そのままドアへ背を預けた。
力が抜けるように、ずるずると床へ座り込む。
静まり返った部屋。
ベッドも、机も、本棚も昨日と何1つ変わらない。
それなのに、世界だけが色褪せて見えた。
「……ただの、クラスメイト……」
自嘲気味に呟く。
私は、1人で思い込んでいただけだった。
喉が焼ける。
爪が掌へ食い込む。
それでも、その痛みすら感じなかった。
なぜ私は生きているの。
幸せになれないのなら、なんで生まれてきたの?
「っ……うぅ……っ」
涙が溢れ、邪魔な眼鏡を床へ叩きつけた。
母に否定された自分を、もう肯定できない。
それが苦しかった。
「っ……はぁ……」
ふらりと立ち上がる。
三つ編みの乱れた髪越しに、窓際の天使の置物と目が合った。
冬の光を浴びた、薄いピンクの天使。
堀田くんが誕生日にくれた、大切な贈り物だった。
ケースを乱暴に外し、天使を掴む。
「お前は……悪魔だったんだ」
視界がぐらりと揺れた。
「こんなものっ……!!!!」
振り上げた腕を、思いきり振り下ろす。
断末魔のような音を立て、天使は床で砕け散った。
「はぁっ……はぁ……はは……ははは……」
取り返しのつかないことをしてしまった。
でも、もういい。
「……はは」
自嘲だけが漏れる。
手の甲に鋭い痛みが走った。
見ると、砕けた破片で皮膚が浅く切れている。
この程度じゃ、足りない。
母だって、眉1つ動かさないだろう。
もっと。
もっと……。
本当に消えてしまいたいなら──。
髪を振り乱したまま机へ目を向ける。
視界の端に、筒型のペン立てへ差さったカッターが見えた。
カチ、カチ、カチ……
震える指で刃を伸ばし、左手首へそっと当てる。
涙が、また1粒こぼれた。
今度こそ。
もう2度と、
――あの時死んでおけばよかった。
そんなことを思わずに済む。
「……君野くん」
ごめんね。
ありがとう。
あなたが、大好き。
偽の記憶なのに、今は素直にそう思えた。
右手を大きく振り上げた、その時だった。
「……っ」
床へ放り投げたコートの中で、スマートフォンが震えた。
ブブッ、ブブッ――。
1度では終わらない。
また震え、また震える。
桜谷はカッターを握ったまま動きを止めた。
……うるさい。
鳴り止まない通知音が、思考を乱していく。
やがて力が抜け、カッターが床へ落ちた。
……誰?
般若のような形相でコートを掴み、スマートフォンを乱暴に引き抜く。
通知は15件を超えていた。
「……今日の夕飯、なに食う?」
消え入りそうな声で、通知に表示された文面を読み上げる。
ロックを解除すると、君野くんからの心配そうなメッセージと、それとは別に大量のメールが届いていた。
「……堀田くん」
どうやら、メールはすべて堀田くんかららしい。
最初の1通には、綾目ちゃんへ個人情報を話してしまったことへの長い謝罪が綴られていた。
そこからは私を気遣う内容が続き、5通目を過ぎた頃から少しずつ文章が雑になっていく。
15通目は――
――(´;ω;`)〈連絡くれよぉ……もう「空メール」だけでもいいから……
それだけだった。
桜谷は思わず瞬きを繰り返す。
最初の真面目な謝罪との落差が激しすぎて、呆れるしかなかった。
その間にも、新しいメールが届く。
――なあ、今日の夕飯何食べる?寒いからあったかくして寝るんだぞ。寝る前にはミルクココアがいいぞ!
なぜミルクココアがいいのかという解説画像まで添付されている。
この人、どれだけ暇なの……
「……そういえば、今日……何、食べよう……」
さっきまで胸を支配していた衝動は、いつの間にか消えていた。
翌日。
「こんにちは!」
約束通り、君野は綾目の病室を訪れた。
「あっ!君野くん!」
綾目はベッドの上から嬉しそうに手を振り、君野をベッド脇の丸椅子へ招く。
「ねえ、手土産はないの?」
「あっ!何か持ってくればよかったね……ごめんね。気が利かなくて」
「じゃあ今度、私にぴったりな本を持ってきてよ」
「わかった!何か持ってくるよ。綾目ちゃんはどんな本が好きなの?」
「君野くんの部屋の本棚にある本がいい」
「え?」
「あなたが1番面白いと思う本」
「うん!わかった!」
君野は素直に頷いた。
綾目はそんな彼をじっと見つめる。
やがて口角を上げると、ぱっと表情を明るくした。
「ね!遊ぼ!手遊びしよ!」
「うん!何するの?」
「手を重ねて、1番下の人が1番上の手を叩くやつ!」
「どうやるの?」
「あら、最近の子は知らないの?」
綾目は病室のテーブルを引き寄せ、自分の右手を置いた。
「君野くんはその上に手を置いて」
「こう?」
「そうそう」
君野が右手、その上へ左手を重ねる。
4枚の手が重なった。
綾目はいたずらっぽく笑うと、1番下の右手を素早く引き抜いた。
パチン!
「痛っ!」
君野は慌てて左手を押さえる。
「あはは!こうやって遊ぶの!」
「なるほど……」
「叩かれる前に逃げるのよ。じゃあ本番!」
二人はもう1度手を重ねた。
今度は君野も警戒している。
綾目の指先が少し動くだけで、反射的に手を引っ込めてしまった。
「あー、フェイントに引っかかった」
「えっ」
「それ3回までね。3回やったらデコピン!」
「えぇっ!?怖い!」
君野は本気で怯えた顔をする。
綾目は思わず吹き出した。
君野がフェイントに慣れ始め、気を抜いた、その瞬間――
パチン!
「いたっ!」
「君野くんの負け!」
「あー!」
「私、強いでしょ?」
「うん。やり慣れてるの?」
「スマホ持ってないから、こういう遊びばっかりしてたの」
綾目は笑いながら手を差し出す。
「じゃあ次は君野くんが下!」
「うん!」
君野はテーブルへ手を置き、真剣な顔で綾目の動きを見つめた。
間合いを測るように目だけが動く。
「きゃっ!」
君野が動いた。
綾目は慌てて手を引く。
「あっ、叩けなかった」
「ねえ」
綾目はじっと君野を見る。
「今、わざとでしょ?」
「あ……」
「私の手、叩かなかったよね?」
「あ、バレちゃった?」
「どうして?」
君野は少し困ったように笑う。
「楽しいよ。でも、女の子の手を叩くのは、なんだか嫌で……」
「んふっ」
思わず笑みがこぼれた。
男の子なんて、乱暴なもの。
小さい頃から、人を傷つけることを覚えている。
なのに彼には、それがまるでない。
人を傷つける発想そのものが存在しないようだった。
「じゃあ次は指相撲!」
「いいよ!」
「君野くんが負けたら、私にキスね」
「えっ!?キス!?」
「それくらい本気でやってってこと!大丈夫、恋人には秘密にするから」
「う、うん……」
露骨に困った顔をする。
やっぱり堀田くんのことを考えているんだ。
女の子を叩けない優しさと、堀田くんへの想い。
さて、どっちが勝つのかな。
2人は握手をするように手を組み、親指を立てた。
「せーの!」
綾目の合図で、指相撲が始まる。
すると君野は、さっきまでとは打って変わって真剣な表情になった。
親指を押さえられてもすぐに跳ね返し、綾目の親指をしっかりと押さえ込む。
……ふうん。
やっぱり純粋。
私の親指を挟んでも、力任せに押しつけようとはしない。
爪を立てることもしない。
3カウント目で、綾目は、わざと負けた。
「僕の勝ち!」
君野は嬉しそうに笑う。
すると綾目は、露骨に肩を落として俯いた。
「ど、どうしたの?」
「そんなに私とキスするの嫌だったんだって思って……。ブスでごめんね……」
「え?」
君野は慌てて首を振る。
「綾目ちゃんはすごく可愛いよ!」
「……」
「ピンクのパジャマも似合ってるし、白くて、お姫様みたい!」
あまりにも真っ直ぐだった。
綾目は思わず顔を上げる。
まるで、絵本から抜け出してきた王子様みたい。
この子は、防御に徹することはできても、人を傷つけることができない。
無垢で、天然で、どこかおかしな子。
……これか。
これが、あの2人を狂わせているんだ。
「ねえ、君野くん」
「なに?」
「なんで、そんなに笑っていられるの?」
君野は少し照れくさそうに笑った。
「えへへ。本当にそう思ったからだよ」
あの枕の中で作り上げた理想像。
それが、そのまま人になったみたいだった。
――私、この子がほしい。
「そういうこと、堀田くんや桜谷さんにも、いつも言ってるんでしょ?ほんと現金なんだから」
「桜谷さんって誰?」
「……誰?」
綾目は思わず素で聞き返した。
桜谷と話していた時でさえ出さなかったような、大きな声が病室に響く。
「綾目ちゃんのお友達?」
君野は不思議そうに首を傾げる。
綾目は目を丸くしたまま、しばらく言葉を失っていた。
……忘れた?
心の奥が、ぞくりと震えた。
もしかしたら、この子は瑠璃子が残していった兵器なのかもしれない。
……いや。
それでもいい。
だから、この子は私の前に現れた。
そう考える方が、辻褄が合う。
彼の可愛らしい瞳が、少しずつ私の理性を奪っていく。
綾目は笑みを浮かべたまま、瞳だけを細めた。
……面白い。
やっぱり君野くん、あなたが欲しい。




