第38話「答え合わせ」
ここは、どこだ……。
堀田は深い海の底を漂っていた。
身体は少しも動かない。
波に揺られる昆布のように、手足を投げ出したまま沈んでいる。
慌てなければならないはずなのに、その気力さえ湧かなかった。
まぶたは重く、頭も働かない。
ただ、青と黒が溶け合う深海を漂い続ける。
君野……。
会いたいなぁ……。
俺がいなくて、寂しがって泣いてるんじゃないのか……?
でも俺、今は何もする気が起きないや……。
――堀田くん、もういいよ。
「え……?」
少女の声が、世界中に反響した。
もういいって、なんだ……?
そう思った瞬間、暗い深海へ1筋の光が差し込んだ。
午前10時。
ぼんやりとした視界の中で、白い天井の光が揺れていた。
喉が渇いている。
頭が重い。
全身に鉛を詰められたように、身体が動かなかった。
心まで沈み込み、世界だけがひどく遠い。
「……っ」
堀田はかすかに声を漏らし、指先を動かした。
枕元のモニターが変化を捉え、電子音の間隔がわずかに速くなる。
看護師がすぐにベッドへ駆け寄った。
「堀田さん。聞こえますか?」
目を開けようとする。
だが、まぶたは思うように持ち上がらない。
「先生を呼びますね」
看護師が病室を出ていく。
ほどなくして、医師と別の看護師が入ってきた。
名前を呼ばれる。
瞳へ光を当てられ、いくつか質問をされた。
あれ……。
俺、なんかヤバいことになってた……?
周囲の慌ただしさと、自分へ繋がれた医療機器を見ながら、堀田は少しずつ状況を飲み込んでいった。
同じ病院の精神科病棟では、桜谷が綾目と向き合っていた。
「言ったでしょう?」
綾目は君野くん枕を抱えたまま、楽しそうに笑う。
「あなたの言う『薔薇色の思い出』は、私が作った偽物の記憶なの」
「嘘よ……!」
桜谷は立ち上がり、声を荒らげた。
「そんなの、何の証明にもなってない!全部あなたのデタラメよ!」
「じゃあ、1つずつ答え合わせをしてあげる」
綾目は壁の時計へ目を向けた。
「面会時間、あと20分しかないから。黙って聞いてね」
口元を歪め、君野くん枕を膝へ載せる。
「るりちゃんが小さい頃にここへ入院した時、私がこの君野くん枕をあげたでしょう?」
桜谷は何も答えない。
「それに『君野くん』って名前をつけたのは、あなた」
綾目は枕の頬を撫でるように指を滑らせた。
「それから2人で、理想の君野くんを作った」
桜谷の指先が震える。
「そして私は、この子との架空の思い出をあなたの中へ植え付けた」
「……やめて」
「公園でもらった雑草の花束も、砂場でケーキを作ったことも、早口言葉で遊んだことも、ベッドの下でしたキスも……全部。どう?合ってた?」
「やめてって言ってるでしょう!」
桜谷の叫びが病室に響く。
それでも綾目はやめない。
むしろ、その反応を楽しむように笑みを深めた。
「そのおかげで、るりちゃんは理想に溺れるようになった。それが、今のあなた」
胸の前で両手を組み、うっとりと目を細める。
「いつか苦しくなって、また私のところへ戻ってくる。そう思って、ずっと待ってたの」
「……」
「でも、そっちの爆弾は不発だった」
綾目は君野くん枕を高く掲げた。
「一つだけ、かけ違えていた」
その目がゆっくり、黙っている桜谷へ戻る。
桜谷の眉間に深い皺が寄った。
「堀田くんから話を聞いて、初めて知ったの。君野くんが本当は実在していたって」
綾目は嬉しそうに笑った。
「それに、話を聞いていて思った。君野くんは、私たちが作った理想の王子様そのものだって」
「……」
「彼は、ホンモノなのよ。るりちゃんがこの枕を返しに来た理由も、それでしょう?」
桜谷は言い返せなかった。
退院前後の記憶が、まるごと抜け落ちている。
嘘だ。
そう思いたい。
なのに、自分には否定するための記憶がない。
「うふふふふ……ねえ、君野くん、何も覚えてなかったでしょう?」
綾目は畳みかける。
「もういい!!」
桜谷は耳を塞ぎ、絶叫した。
しかし綾目は、桜谷の耳元へ口を近づけ、なおも楽しげに言葉を重ねる。
「るりちゃんと君野くんは、幼馴染でも運命の相手でもない」
1語ずつ、桜谷へ突き刺すように。
「ただ席が隣だっただけの、クラスメイト」
桜谷の顔から、すっと血の気が引いた。
「何の関係もない男の子を、るりちゃんは自分の想い人にしていたの」
「あ……」
嘘だ。
そう思いたい。
綾目が自分を傷つけるために、都合よく作った話かもしれない。
それでも、君野くんが幼い頃の記憶を何1つ思い出せなかった理由だけは説明がついてしまう。
否定したいのに、否定しきれない。
私たちは、ただのクラスメイト。
ただのクラスメイト。
私たちは、ただの――
その言葉が、真っ白になった頭の中を何度も巡った。
視界が揺れる。
息が吸えない。
桜谷は胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返した。
そんな彼女を、綾目が楽しそうに抱き締める。
「面白い話。私、もっとるりちゃんのそばで聞いていたい」
綾目はそう言うと、桜谷を抱き寄せた。
頭を優しく撫でられる。
今の桜谷に、抵抗する力はなかった。
「苦しい……」
桜谷は喉元を押さえ、必死に空気を求めた。
「あら、大変。過呼吸かしら」
綾目はあっさりと身体を離し、ナースコールを押す。
廊下から駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「バーンって!派手に爆発しちゃったね!!あははははは……!!!」
綾目は無邪気な子どものように両手を広げる。
「これで、この枕を返した恨みはチャラにしてあげる!!」
看護師たちが病室へ入ってきた。
桜谷は支えられ、そのまま別室へ運ばれていく。
綾目は遠ざかる背中へ、明るく手を振った。
「これからもよろしくね、るりちゃん!」
午前11時。
「えっ!?嘘、目を覚ましたの!?」
自宅の部屋にいた君野のもとへ、堀田から連絡が届いた。
1時間ほど前に意識を取り戻したらしい。
君野は勢いよく立ち上がると、ジャケットを羽織り、財布を掴んで最寄り駅まで走った。
――堀田くん!今向かってるよ!あと40分くらい!
すぐに返信を送る。
だが、最初の1通以来、堀田から返事は来なかった。
早く会いたい……!
ちょうど快速電車がホームへ滑り込んでくる。
君野は抑えきれない喜びのまま、その車内へ飛び乗った。
検査を終えた堀田は、車椅子で病室へ戻ってきた。
昏睡していたのは6日ほど。
幸い、意識や記憶に大きな問題はなく、目立った後遺症も見つかっていない。
体力は少し落ち、頬はわずかに痩せていた。
それでも、表情はいつもの堀田へ戻りつつあった。
ただ、なぜ自分が倒れたのかだけは、まだはっきりと思い出せない。
検査へ向かう前、堀田は君野へ1通だけ連絡を送っていた。
戻ってきた今、机の上ではスマートフォンが何度も震えている。
「お、誰だ?」
画面には、君野からの返信がいくつも並んでいた。
あと40分。
あと25分。
あと15分。
まるで到着までのカウントダウンだ。
堀田の口元が緩む。
「……え!」
「どうしました?」
点滴を交換していた年配の看護師が尋ねた。
「あー……ヤバいっす。目を覚ましたって連絡したら、友達がもうこっちに向かってるみたいで」
「あら。まだ面会の許可は出ていませんよ」
看護師は困ったように腰へ手を当てる。
堀田は慌てて身を乗り出した。
「すみません!少しだけでいいんで、会わせてもらえませんか?」
「確認してきますね」
看護師は柔らかく笑い、病室を出ていった。
1を投げれば、100の愛情で返してくる。
「ほんと、そそっかしいよな……」
堀田の頬は、しばらく緩んだままだった。
「あれ?あれれ……?」
病院に到着した君野は、総合病院の中で迷子になっていた。
僕は今、どこにいるんだろう。
どうして内科へ続く廊下にいるんだろう。
長い廊下の真ん中で頭を抱えていると、
「君野くん」
聞き覚えのある声がした。
「!」
顔を上げると、白いコートを着た桜谷が立っていた。
別室でしばらく休み、ようやく帰れる状態になったらしい。
ただ、目元は泣き腫らしたように赤い。
「桜谷さん!桜谷さんも堀田くんのお見舞い?」
「ううん。別件よ」
「そうなんだ!あのね、さっき堀田くんが目を覚ましたんだって!一緒に会いに行かない?」
「脳神経外科は2階の反対側の建物よ」
「あ、そうなの?じゃあ一緒に行こうよ!堀田くんも喜ぶよ!」
「……」
桜谷は返事をしない。
目を伏せたまま、肩を小さく震わせていた。
「どうしたの?」
「……ごめんね」
「え?」
「巻き込んで、ごめんなさい」
「何の話?僕、桜谷さんに迷惑なんてかけられてないよ」
「あなたは運命の相手なんかじゃなかった」
掠れた声だった。
「何の関係もない、ただの被害者だった」
「お願い。ちゃんと僕に話して」
君野は彼女を落ち着かせようと、少し身をかがめた。
その瞬間だった。
「ん……!?」
桜谷の唇が、君野の唇へ重なった。
君野は目を見開く。
思考が止まる。
なぜ、僕は今キスされたんだろう。
判を押したような、ほんの短い口づけだった。
数秒後、桜谷は静かに離れる。
君野は自分の唇へ手を当てた。
柔らかな感触だけが、まだ残っている。
終わったはずの気持ちへ、小さな疑問が落ちた。
「……さよなら」
桜谷は震える声で言った。
「こんな卑怯な形で、ごめんなさい」
「どうして?なんで何も教えてくれないの?」
桜谷は答えない。
そのまま背を向け、足早に歩き出した。
「待って!」
君野は咄嗟に追いかける。
けれど、何を言えばいいのか分からない。
「僕たち、また仲良くできるよね!?」
引き止めたくて、必死に言葉を投げる。
「あ……カフェのお釣りも、ちゃんと返すから!」
桜谷の背中は角を曲がり、見えなくなった。
卑怯って何だろう。
被害者って何だろう。
どうして桜谷さんは、1人で全部抱え込んでいるんだろう。
その時、ジャケットのポケットが震えた。
「あ……堀田くん」
画面に表示された名前を見て、君野はここへ来た目的を思い出す。
電話へ出ると、迷子になっていたことを話した。
電話の向こうで堀田が吹き出すように笑う。
正式な面会許可はまだ出ていない。
ただ今回は特別に、短い挨拶だけなら許されたという。
君野は足早に脳神経外科へ向かった。
「堀田くん!」
「おー!」
病室へ入ると、堀田が両腕を広げた。
まだ点滴に繋がれた姿は痛々しい。
それでも君野はためらわず、その胸へ飛び込む。
二人は強く抱き締め合った。
「すごく薬の匂いする!」
「一言目がそれかよ!」
堀田は笑いながら、君野の首元へ顔を寄せる。
「あー……これこれ。君野の匂いがする」
知らない病室。
知らない匂い。
知らない音。
目覚めてから張り詰めていた心が、ようやくほどけていく。
「よかった……」
君野の声が震える。
「本当に、よかった……!」
「今日は特別ですからね」
年配の看護師が、やんわりと二人の再会へ割って入った。
「まだ正式な面会許可は出ていません。次からは必ず確認してください」
名残惜しそうに、二人はゆっくり身体を離す。
「じゃあね……」
「じゃあな」
君野は何度も振り返りながら病室をあとにした。
唇に残っていた桜谷の感触は、もう消えていた。
その頃。
君野が先ほど降りた駅のホームに、桜谷は1人で座っていた。
冷たい風が足元を吹き抜ける。
ぼんやりと線路を眺めていると、病室近くで耳にした二人の笑い声が蘇った。
再会を喜ぶ声。
そこに、自分の居場所はなかった。
もう、よく分かってしまった。
遠くから電車が近づいてくる。
金属の擦れる音とともに、車両がホームへ滑り込んだ。
桜谷は立ち上がる。
気づけば、また涙が頬を伝っていた。
この涙は、失恋のせいなのか。
偽物かもしれない思い出を失ったせいなのか。
もう、自分でも分からない。
温かな車内へ乗り込み、端の席へ腰を下ろす。
背もたれへ身体を預け、静かに目を閉じた。
電車は病院のある街を離れ、ゆっくりと走り出した。




