第37話「ひしゃげた運命」
「堀田くん……うう……」
12月。
冬休みを間近に控えた病院で、堀田が意識を失ってから5日が経っていた。
けれど、彼は一向に目を覚まさない。
右腕には点滴の管がつながれ、顔には酸素マスクが装着されている。
枕元のモニターは、時折ピッ、ピッと音を立てながら、安定した心拍を刻んでいた。
君野はベッドのそばに座り、眠り続ける堀田を見つめている。
毎日この病室へ来て、彼の体温と呼吸を確かめなければ落ち着かないらしい。
学校にいる間も、その表情から不安が消えることはなかった。
「堀田くん……目、覚めるよね……」
「ええ。彼なら、きっと大丈夫よ」
桜谷は無表情のまま答えた。
連日、君野と一緒に見舞いへ来ているのには理由がある。
病室を出ると、桜谷はすぐに君野の腕を引いた。
「トイレ?」
「早くここを出ましょう。次に来るときも、必ず私を連れてきてね」
「え?うん!」
君野は素直に頷いた。
私が堀田くんをひどく心配していると思ったのだろう。
だが、そんな単純な理由ではない。
ここは、あの総合病院の脳神経外科。
綾目がいる、駅前の病院だ。
この病院を選んだのは、堀田の母親だった。
これ以上、子どもを失いたくない。
その一心で、最善の医療を受けられる場所を選んだのだろう。
だからこそ、君野くんまで堀田くんのようにしてはいけない。
「カフェに寄らない?」
「僕、今あんまりお腹減ってないんだ……」
桜谷は足を止め、振り返った。
「私に、あなたの時間がほしいの」
君野はお腹をさすっていた手を止め、真剣な表情の桜谷へ頷いた。
2人は足早に病院を出た。
冷たい冬風が、頬を撫でていく。
桜谷は深く息を吐き、スマートフォンを開いた。
少し先に見える、すっかり行きつけとなったカフェの明かりが、今は安息の地のように思えた。
2人は窓際の席に座った。
桜谷はようやく息をつき、駅前を行き交う人々を眺める。
一方、先ほどまで食欲がないと言っていた君野は、ボリュームのある料理が並ぶメニュー表をじっと見つめていた。
「食べるの?」
「……いや、何があるのかなって……」
「食べたいなら、食べていいのよ。私のことは気にしないで」
「うん……でも、堀田くんは美味しいご飯も食べられないのに、僕だけいいのかな……」
「目を覚まして君野くんが痩せこけていたら、堀田くんがまた気絶するわ」
「そっか……」
君野は納得したように何度も頷き、メニューをめくり始めた。
桜谷は、いつものアメリカンコーヒーを注文する。
「桜谷さん、砂糖なしで飲めるの?すごいね」
注文した品が届くと、君野はコーラフロートを飲みながら、熱々のチーズリゾットを手で扇いで冷ましていた。
その姿に、桜谷は思わず微笑む。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「……あのね、君野くん」
コーヒーカップから唇を離し、桜谷は静かに口を開いた。
「これは、夜に見た夢の話だと思って聞いてほしいの」
「夢の話?」
「私はずっと、君野くんと結ばれるのが運命で、それが私の人生だと思って生きてきた」
「桜谷さんは……僕のこと、好きなの?」
「ええ。大好きよ。今も」
君野は驚き、飲み込んだチーズを喉に詰まらせて咳き込んだ。
「でも、言ったでしょう。運命だと思っていたって」
桜谷は君野を見つめたまま、言葉を続ける。
「呪いのキスは、きっとそれを分からせるためにあったのかもしれない」
「呪いのキス?」
「私はあなたと、小学生の頃に薔薇色の思い出を過ごした」
桜谷は窓の外へ目を向けた。
「いつも通学路で通る公園、分かる?遊具が少なくて、どこか寂しい小さな公園」
「ああ!あるね。確かに、ちょっと寂しい感じがする」
「私が小学生になったばかりの頃、あの公園の真ん中で泣いていたの」
君野の手が止まった。
「その頃にはもう、人生が詰んでいると思っていた」
「え……」
「そんな顔をしなくていいの。所詮、昨日見た夢の話だから」
「……」
「あの公園で、1番辛かったとき」
桜谷の指先が、カップの縁をなぞる。
「あなたは泣いている私に、雑草で作った花束をくれたの」
君野は黙って話を聞いていた。
「この花は、笑顔の君に似合うと思うよって」
「僕、そんなことしてたんだ……」
「だから、あの公園を通るたびに、いろいろな思いに晒されるの」
桜谷は小さく息を吐いた。
「でも今は、それをうまく言葉にもできないし、整理もできない」
「僕……なんて言えば……」
「ううん。何も言わなくていい」
桜谷の目が、ゆっくりと潤んでいく。
「今はただ、君野くんに幸せになってほしい。それだけ」
何も覚えていない君野には、どう返せばいいのか分からないのだろう。
困り果てたように、桜谷を見つめていた。
桜谷は少しだけ俯き、それから顔を上げる。
「……堀田くんと幸せでいてね」
「桜谷さん!」
桜谷は席を立った。
その横顔から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
代金をテーブルへ置き、そのまま店を出ていった。
君野も追いかけようと立ち上がった。
だが、追いついたところで何を言えばいいのか。
言葉が浮かばない。
彼女は、僕のことが好きだった。
それなのに、何度も堀田くんの見舞いにまでついてきてくれていた。
――これは、夜に見た夢の話だと思って聞いてほしいの。
その言葉が、君野を席へ押し戻した。
焦点の合わない目で、テーブルの縁を見つめる。
やがて、1粒の涙が頬を伝った。
「あれ……なんで……」
理由は分からない。
それでも今、胸の奥で何かが終わった。
まるで、長い長い恋に別れを告げたようだった。
冷めたリゾットが、ひどく飲み込みづらかった。
翌日。
桜谷は綾目の病室へ向かっていた。
堀田が意識を失ってから、6日目。
あの日以来、初めて彼女のもとを訪れる。
黒のタートルネックにデニムを合わせ、脱いだコートを腕に掛けたまま、病院の中を歩いていた。
今日ここへ来た理由は、ただ1つ。
キーホルダーを壊した2人。
そのきっかけは、綾目にあるはずだ。
そして、堀田が目を覚まさない理由も。
確かめなければ、前へ進めない。
受付を抜け、病室の前に立つ。
冷たい銀色の取っ手を握った瞬間、腹の奥がきりりと痛んだ。
それでも桜谷は、静かにドアを横へ引いた。
「あら、るりちゃん。いらっしゃい!」
病室の奥。
カーテンも閉めずにいる綾目は、薄汚れた君野くん枕を抱き締めていた。
頬をすり寄せ、愛おしそうに撫でている。
「覚えてる?るりちゃんが最後にこの病院へ来た日」
そう言いながら、綾目はベッド脇の丸椅子を指差した。
桜谷は黙って腰を下ろす。
「……ええ。覚えてるわ。久しぶりね」
その瞬間だった。
綾目は桜谷のコートをひったくるように奪い、そのまま君野くん枕と一緒に抱き寄せた。
まだ体温の残るコートへ鼻を埋め、満足そうに目を細める。
「ふふ……。あの枕を返しに来た日も、こうして久しぶりを味わったんだよねぇ…」
彼女の言う「久しぶり」は、1週間ぶりのことではない。
もっと昔の記憶を指している。
「あなたが退院してしばらく…。久しぶりに来てくれたと思ったら、この枕を返しに来た。……あのときは、理由を教えてくれなかったわね」
「そうだったかしら。あまり覚えてないわ」
綾目はくすくすと笑った。
君野くん枕とコートをぎゅっと抱き締めたまま、桜谷を見つめる。
「返しに来た理由、自分でも分からないの? 1人で電車に乗って来たって話してたのに」
「……あなたの支配と、完全に決別したかったのよ」
「それなのに、わざわざ私に会いに来るなんて変じゃない?」
綾目は楽しそうに首を傾げた。
「また影響を受けるのが怖いはずなのに。……ねえ、さっきから瞬き、多いよ?」
射抜くような視線に、桜谷の喉が小さく鳴る。
「それとも、本当に覚えてなくて、自分の記憶に矛盾を感じてる、とか?」
無邪気な子どものように、綾目が顔を覗き込んでくる。
その姿を見た瞬間、桜谷の脳裏へ1つの記憶が蘇った。
――裏切り者。
――でも瑠璃子ちゃんは、るりちゃんは私のお人形さんだから、戻って来るに決まってるわ。
確か…小学5年生の時だった
枕を返しに来た、あの日。
彼女にそう囁かれた。
「裏切り者」
今度は、現実の綾目が低く呟いた。
まるで、桜谷の心の中を読んだかのように。
「……あの頃のるりちゃんには、新しくすがりたい相手ができたんだよね」
「新しく……?私には、昔から君野くんしかいないわ」
桜谷は俯いたまま、小さく答えた。
「そう。本物を見つけたの」
綾目は嬉しそうに笑った。
「偶然、この枕と同じ理想の君野くんをね」
桜谷は眉をひそめた。
「何が言いたいの……?」
「私ね、堀田くんが来るまで知らなかったの」
綾目は桜谷をまっすぐ見据える。
「君野くんが、本当に実在していたなんて」
桜谷の肩が小さく震えた。
「あなたが適当に口にした『君野くん』って名前で、一緒に枕を理想の王子様に仕立て上げて遊んだでしょう?」
「……やめて」
思わず立ち上がる。
それ以上だけは、開けてはいけない引き出しだった。
綾目は楽しそうに微笑んだ。
「薔薇色の思い出――」
その声だけが、静かな病室に響く。
「もし、あれが全部、私が植え付けた記憶だったとしたら?」
綾目はいたずらっ子のように答えた。




