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第36話「決断と解放」

 

 その日の夜。


 自宅へ帰った堀田(ほった)を迎えたのは、静まり返った部屋だった。


 母はまだ仕事から帰っていない。


 部屋の明かりをつけると、堀田は真っ先に亡き弟の部屋へ向かった。


 朝、母が作ったシチューを供え、いつものように可愛らしいスプーンを利き手側へ向ける。


 ここではいつも、「ごめんな」と謝っていた。


 けれど、今日からは違う。


「……ありがとな」




 午後11時には、堀田は布団へ入っていた。


 今日は、さまざまな感情が胸の中を駆け巡った。


 君野(きみの)の前であんなふうに泣き崩れた自分を思い返すと、今さら少し恥ずかしい。


 それでも、長年心につかえていたものは消えていた。


 明日には、違う世界が広がる。


 そんな晴れやかな気持ちのまま、堀田は眠りへ落ちていった。


 ――裏切り者……。


「あれ……」


 目を覚ますと、また弟の部屋にいた。


 棚に遺影はない。


 代わりに、保育園の鞄が無造作に放り投げられている。


 まだ弟が生きていた頃の部屋だ。


 窓のない、蒸し暑い部屋。


 弟へテレビを譲ってからは、この部屋でよく一緒に番組を見ていた。


「……!」


 テレビには、弟を失う直前に見ていたアニメが映っている。


 心臓が一気に早鐘(はやがね)を打った。


 立ち上がろうとしても、足が動かない。


 あぐらをかいた姿勢のまま、下半身を石膏で固められたようだった。


 必死にもがいていると、か細い声が聞こえた。


「にんにん……」


 怪獣と戦っていたヒーローの映像が途切れる。


 画面の中に、小さな男の子が現れた。


ゆう!?」


 触れたい。


 だが、いくら手を伸ばしても、テレビには届かない。


「ここ、どこ……?」


(ゆう)……!」


「僕のこと、忘れないで……」


「忘れるわけないだろ…!俺の意識がある限り、ずっとお前を想ってる!」


「でも、それはあなたが選択したことでしょ」


 その瞬間、背後から冷たい声がした。


 綾目(あやめ)だ。


 彼女は後ろから堀田へ抱きつき、ピンク色のパジャマに包まれた腕を、蛇のように首へ絡ませる。


「あなたはあのとき、アニメを選んだ。だから弟は、いつでも見られる存在になった。それだけじゃない」


 冷たい囁きが耳元を撫でた。


「ほら、見て。触れられないけれど、彼はいつまでも可愛いまま。あなたが弟に求める条件、そのものよ」


 綾目はくすくすと笑う。


「俺は、そんなこと思ってない……!」


「堀田くん……」


 今度は綾目ではない。


 暗く、悲しげな声だった。


君野(きみの)……?」


 綾目が身体を離す。


 入れ替わるように、君野が力なく堀田の背中へ倒れ込んできた。


「ほら、見て。堀田くん……僕たちの思い出のキーホルダー。これがあれば、いつまでも一緒だね……」


 君野の手首には、『弟』と書かれたキーホルダーがぶら下がっていた。


 揺れる『弟』の文字が、堀田の視界を埋め尽くす。


「……君野、俺は……」


 堀田の瞳が、大きく揺れた。





「え? 堀田くんと連絡がつかないんですか?」


 翌朝。


 ホームルームが終わった直後、担任の言葉に君野は思わず聞き返した。


 堀田の母親も仕事中で連絡がつかず、今日は学校を休んでいるのかどうかも分からないという。


 担任が教室を出ると、隣の席に座る桜谷(さくらたに)が君野の様子に気づいた。


「彼の家に行くの?」


「うん!きっと宇宙人のせいなんだ!昨日も操られるみたいに病院へ向かったし……絶対に何かあったんだよ!」


「あ、君野くん!」


 君野は荷物を抱えたまま、教室を飛び出した。


「……先生には、うまく伝えておいてあげる」


 静かになった席を見つめ、桜谷は小さくため息をついた。




 30分以上かけて、君野は堀田のマンションへやって来た。


 しかし、オートロックの前で立ち往生してしまう。


 何度部屋番号を押しても、応答はない。


 そこへ、荷物を抱えた宅配業者が現れた。


「あ、あの!」


 君野は必死に声をかける。


「僕、このマンションの住人で……引っ越してきたばかりなんです。その、とにかくトイレに行きたくて!一緒に入ってもいいですか!」


 嘘をついていることに少し罪悪感を覚えながらも、宅配業者のあとに続いて中へ入った。


 お願い……無事でいて!


 君野はエレベーターへ飛び乗り、7階のボタンを何度も押した。


 扉が開くなり、「開」ボタンで閉まりかけた扉を押し戻し、廊下へ駆け出す。


「堀田くん!堀田くん!」


 玄関を何度も叩き、インターホンを鳴らした。


 だが、返事はない。


 鍵も閉まったままだ。


 もう、ここにはいないのだろうか。


「もう……すでに……?」


 宇宙人が迫ってきている……!


 胸の奥が、冷たく締めつけられる。


 君野は黄色いリュックから、『兄』のキーホルダーを取り出した。


 そうだ。


 僕たちは、これで繋がっている。


「……本当に、そうかな」


 胸を強い違和感がよぎった。


 昨日のキスが、その考えを否定している。


 弟で居続ける選択。


 それは、堀田くんが「僕」を選んだことにはならない。


 君野は透明なプラスチックの表面を、じっと見つめた。


 このキーホルダーを持っている限り、2人はずっと兄と弟のままなのかもしれない。


 ――パキッ。


 小さな音が響いた。


「あ……」


 気づけば、君野はキーホルダーの端へ爪を深く食い込ませていた。


 透明な表面に、細い亀裂が走っている。


 後悔が胸を刺した。


 けれど同時に、これでいいという思いも湧き上がる。


 このまま、弟の代わりではいられない。


 堀田に選んでほしいのは、『兄』と書かれた自分ではない。


 君野吉郎きみのよしろうという、1人の人間だ。



「……僕は、僕だよ」


 でも…


 震える声で呟き、君野はもう1度、キーホルダーへ力を込めた。





 動ける……動けるぞ……!


 一方、堀田はその場で立ち上がった。


 足にまとわりついていた重りが、魔法でも解けたように消えていく。


 もう綾目の姿はどこにもない。


 だが、状況は変わらなかった。


 テレビの向こうには弟。


 背後には君野。


 どちらを見ればいいのか分からず、堀田は何度も視線をさまよわせた。


 すると君野が、潤んだ瞳で問いかける。


「……ねえ堀田くん、僕のこと好き?」


「ああ!好きだ。他の誰よりも!」


「にんにん……寂しいよ……」


 今度はテレビの中の弟の声が心を揺さぶる。


「見て。僕たちの証だよ……」


 君野の手のひらには、「弟」と書かれたキーホルダーがあった。


「僕は弟くんの代わりでいい……。このキーホルダーみたいに、ずっと寄り添っていよう?」


 そう言って、君野は堀田の手へそっとキーホルダーを握らせる。


 だが、それを見つめる瞳には拭いきれない疑念が宿っていた。


「……本当に、そうか?」


「どうしてそんなこと言うの?」


「君野は、もうそんなこと言わない気がしたんだ……」


 堀田はキーホルダーの表面へ親指の爪を立てる。


「あいつのおかげで思い出せたんだ。俺がゆうを、友が俺をちゃんと愛してたってこと」


「じゃあ、僕の言ってることも伝わってるよね?そんな酷いこと言わないでよ……!」


「ああ、伝わってるさ」


 堀田は力を緩めない。


 キシキシと音を立てるキーホルダーへ、さらに力を込める。


 ついに親指がプラスチックへ食い込み、中にある弟の達筆な文字へ触れた。


「だから、もうやめよう。中途半端な関係……」


 キーホルダーはひしゃげ、砕けながら床へ落ちた。


 砕けた破片が白い絨毯へ散らばる。


 目の前の君野は顔を伏せたまま、悔しそうに下唇を噛み締めていた。


 その時だった。




 ドンドンドン!!


 ドンドンドン!!!


「なんだ!?」


 堀田の心臓が跳ね上がる。


 誰かが必死に玄関のドアを叩いている。


 誰だ……?


 部屋中へ激しい音が響き渡る。


「にんにん……」


 まだ弟はテレビの中にいる。


 堀田の足が、一瞬止まった。


 ……いや、違う。


 これは全部、俺が作り出した幻想だ。


 そう教えてくれたのは君野だった。


 だから――


 ――行こう。俺の居場所は、あっちだ。


 胸が激しく脈打つ。


 身体は鉛のように重かった。


 それでも堀田は歩き出した。


「堀田くん!!」


「にんにん……また僕のこと置いていくの……?」


 ――いや、いい。


 堀田は迷いなくドアノブを握った。


 


ガチャッ。




「うわっ!!?」


 突然ドアが開き、君野は慌てて身を引いた。


 間一髪で避けた次の瞬間、中から堀田が倒れ込んでくる。


 君野は反射的にその身体を受け止めた。


 勢いのまま廊下の壁へぶつかり、2人そろって尻もちをつく。


「いたた……堀田くん!?堀田くん!!」


 堀田は部屋着のまま、君野へ覆いかぶさるように気を失っていた。


「堀田くん!!どうしたの!?堀田くん!!」


 死んじゃった?


 もう遅かった――?


 一瞬で顔から血の気が引く。


 だが、落ち着いて様子をうかがうと、呼吸は規則正しく、顔色も悪くない。


 ただ、静かに眠っているだけだった。


「よかった……間に合ったんだ……! 本当によかったぁ……っ」


 安心した途端、涙があふれた。


 君野は眠る堀田を強く抱きしめる。


「あれ……?」


 ふと親指を見ると、皮膚が裂け、まだ新しい血がにじんでいた。


 その指には、輪だけになったキーホルダーの金具とチェーンが引っ掛かっている。


 君野は息をのんだ。


「堀田くん……僕と同じタイミングで……」


 君野は震える指で、その金具をそっと握り締めた。


 堀田もまた、キーホルダーを壊した。


 その事実を理解した瞬間、声にならない嗚咽が漏れる。


 涙は止まらなかった。


「……愛してる。僕も、大好きだよ」


 君野は堀田をそっと抱き寄せる。


 まるで二度と離さないと誓うように、何よりも愛おしそうに。

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