第35話「暗闇の中の選択」
帰りの電車に乗る頃には、夕方6時になっていた。
車内には、なぜか堀田と君野しかいない。
停車中の電車は扉を開けたままで、冷たい風が吹き込んでくる。
2人は優先席の近くに、肩が触れ合うほど近く並んで座っていた。
「……」
「……」
会話はない。
君野の頭に浮かぶのは、病院の前で堀田に指へ口づけられたことばかりだった。
今になって、胸がどきどきしてくる。
――指、置いておくんじゃなかったな……。
「あ、やばい」
スマートフォンを見ると、母親から何件も着信が入っていた。
きっと、かんかんに怒っている。
それでも、もう少しだけこの時間に浸っていたかった。
きっと、この先どんな豪華な旅行よりも、この瞬間を忘れることはない。
そんな風に今は思えた。
君野は黄色いリュックを抱き締める手に力を込めた。
隣の堀田が何を考えているのかは分からない。
宇宙人の洗脳は、もう解けたのだろうか。
やっぱり、あの病院にいた女の子が――。
『ドアが閉まります』
アナウンスが響き、扉が閉まった。
電車はゆっくりと動き出す。
2人の身体が同時に左へ傾き、見慣れた街並みが窓の外へ流れていった。
数分後。
「……なあ、君野」
堀田はポケットから手を抜き、リュックを握る君野の手へそっと重ねた。
温かい。
ちゃんと、人の温度だ。
君野の心臓が、また大きく鳴る。
君野も、その手へ自分の右手を重ねた。
「……俺には、可愛い弟がいたんだ」
「うん。知ってるよ。僕に似てた弟くんでしょ……」
「ああ。お前にそっくりでさ」
堀田は少しだけ笑った。
「『にんにん』って言いながら、いつも俺の後ろをついてくるんだ」
「うん……」
「……俺のせいなんだ」
堀田の肩が震えた。
苦しそうな横顔へ、君野はゆっくりと視線を向ける。
重なった手へ、堀田の涙が1滴落ちた。
「堀田くん……」
その瞬間だった。
「わっ!」
身体が強く左へ振られる。
激しい金属音を響かせながら、電車が急停止した。
「な、何?」
「急停車したな……」
電車は、暗いトンネルの中で止まった。
ほどなくして、車内アナウンスが流れる。
『次の駅で非常停止ボタンが押されました。安全確認が終わるまで、しばらく停車いたします』
事故ではないと分かり、君野は小さく胸を撫で下ろした。
しかし、堀田の表情は少しも和らがない。
重ねた手を見つめたまま、俯いている。
暗い車窓には、君野と並んで座る自分の姿が映っていた。
友が死んだ日のことを話さなければならない。
ずっと、そう思っていた。
けれど、口にしてしまえば、君野まで自分を軽蔑するかもしれない。
兄のふりをして近づいた、卑怯な人間だと。
君野の温かな手を握ったまま、堀田は震える唇を開いた。
「俺のせいで……あいつは死んだんだ」
堀田は唇を噛み締めた。
「あの日、俺はアニメが観たかった。病院へ行くのを少し遅らせたんだ」
俯いたまま、堀田の唇が震える。
「行くまでは元気だった。…なのに病院に向かっていた時に容態が急変して……着いたときには、もう……間に合わなかった」
「それは堀田くんのせいじゃないよ」
君野は重ねた手を強く握った。
「弟くんだって、そんなふうに思ってほしくないよ」
「ヒーローみたいに、すぐ駆けつけるって約束したのに……」
声が少しずつ崩れていく。
「1人で暗闇へ落ちていくの、すごく苦しかっただろうなって……」
「……」
「だから俺が……友の心を、最後に殺したんだ」
「絶対に違うよ!」
君野は遮るように叫んだ。
「僕にだって分かる!堀田くんが弟くんを、本当に大切にしてたって!」
「けど、あれは俺の怠慢だ」
堀田は苦しそうに顔を歪める。
「あのとき病院へ行くのが少し面倒だった。そんな兄貴で、幸せだったなんて言えるのかよ……」
「幸せだよ!」
君野の涙が堰を切ったようにあふれた。
「だって、今の僕が幸せだもん!」
堀田は、自分以上に泣きじゃくる君野を見て目を丸くする。
「……お前、なんでそんな当事者みたいに泣くんだよ」
「だって……」
しゃくり上げながら、君野は言葉を絞り出す。
「もし僕が死んで、天国から堀田くんを見てたら……すごく苦しいと思うから」
袖で何度涙を拭っても、次から次へとこぼれてくる。
「もう自分を責めないでって、絶対に思う……」
堀田はエナメルバッグからタオルを取り出し、君野の顔へぐいっと押し当てた。
「お前が俺より泣いて、どうすんだよ……」
「だって、堀田くんが好きなんだもん……」
その言葉に、堀田の表情が止まる。
――にんにん、大好き!
亡くなる少し前、友が口にした言葉。
俺は今、その想いをちゃんと受け止められているのだろうか。
自分を責め続けることで、
友が生きて、自分を愛してくれたことまで否定していたんじゃないのか。
停止した電車の窓の外には、冷たいコンクリートの壁だけが続いている。
暗闇の中で、自分ばかりを責め続ける。
そのせいで、今そばにある大切なものまで見失っていた。
――駄目だ。
責め続けるだけじゃ、駄目なんだ。
大切なものを蔑ろにしてまで、自分を罰し続けちゃいけない。
今、守らなければならないものは――ここにいる。
「君野……」
堀田は涙に濡れた瞳をまっすぐ見つめ、ゆっくりと顔を近づけた。
そして2人の唇が、静かに触れ合った。
『大変お待たせいたしました。安全確認が取れましたので、運転を再開いたします』
車内アナウンスが響く。
ゆっくりと電車が動き出し、暗いトンネルを抜けて次の駅へ到着した。
扉が開くと、ホームで待っていた大勢の会社員が一斉に乗り込んでくる。
その頃には2人とも何事もなかったように視線を落とし、黙って座っていた。
あっという間に車内は人で埋め尽くされる。
誰にも見えないように。
黄色いリュックの陰で。
2人は、しっかりと手を繋いでいた。




