第32話「運命共同体」
次の日は土曜日だった。
電車で朝やってきた桜谷は、駅前の大きな総合病院の前で足を止めた。
ついに、この場所へ戻ってきてしまった。
そう思うと、自然とため息が漏れる。
今日の桜谷は、黒いスラックスに白いニット姿だった。髪は高い位置で1つに結んでいる。
「えっ!?瑠璃子ちゃん!わあ、元気だった?」
受付へ入ると、懐かしい病院の匂いとともに、看護師たちの間に小さなどよめきが起こった。
笑顔で声をかけてきた30代の女性看護師へ、桜谷は愛想笑いを浮かべ、軽く会釈する。
この病院で過ごした頃の記憶は、ほとんど失われている。
それでも、ところどころの断片だけは今も鮮明に残っていた。
「綾目ちゃん、瑠璃子ちゃんのことが大好きだったから。きっと喜ぶわよ」
看護師の話によると、綾目の病室は以前と変わっていないらしい。
受付をあとにすると、桜谷は1人で病棟へ向かった。
迷うことなく、自然と足が進んでいく。
その間にも、綾目と過ごした異様な日々が、断片的に脳裏へ蘇った。
彼女が大切にしていた枕。
その中には、確か――。
「駄目」
綾目の病室の前まで来たところで、桜谷は強く首を横に振った。
思い出してはいけない。
堀田くんは、一体どこまで綾目ちゃんに話してしまったのだろう。
「はあ……」
桜谷は銀色の取っ手へ手をかけ、静かに扉を開いた。
その瞬間だった。
――私は、確かにこの病室にいた。
その感覚が、一気に蘇った。
生気のない目をした、パジャマ姿の幼い自分が、すぐ目の前に立っているような錯覚に陥る。
桜谷は病室の1番奥にある区画へ進んだ。
そこには、懐かしい少女がいた。
綾目はベッドの上で身体を起こし、枕へ寄りかかりながら窓の外を眺めていた。
「……綾目ちゃん」
「あら。誰かと思えば。いらっしゃい」
綾目は穏やかに微笑み、ベッド脇に置かれた丸椅子へ白い手を向けた。
少し大人びた姿になっても、その面影は変わらない。
桜谷は丸椅子へ腰を下ろした。
だが、最初の一言がなかなか出てこない。
「私だって、すぐに分かったの?」
ようやく桜谷が口を開いた。
「どうして学校では3つ編みにして、伊達眼鏡までかけているの?」
綾目は楽しそうに首を傾げる。
「まるで、自分の心の奥底を誰にも読まれたくないみたいね」
先制攻撃のように浴びせられた言葉に、桜谷は思わず唾を飲み込んだ。
「緊張しているの?」
綾目は媚びるように首を傾げ、にやりと笑った。
「大丈夫よ。だって、私と瑠璃子ちゃんの仲じゃない」
「……堀田くんを、どうして利用したの」
桜谷は真正面から問いかけた。
「私に会いたかったから?」
「うふふ」
綾目は楽しそうに笑う。
「瑠璃子ちゃんは、自分の意思で私に会いに来たと思っているのね」
「違うの?」
「ええ。違うわ」
綾目の微笑みが、わずかに深くなる。
「あなたは今日、この時間にここへ来るよう、私に呼び寄せられたの」
そう言うと、背後に積まれた大量の枕から1つを選び、桜谷へ差し出した。
「これを見て、るりちゃん」
白い枕には、黒い点だけで顔が描かれていた。
「この子はね、病院から抜け出せない、私の可愛い子なの」
桜谷は努めて冷静に、その枕を見つめる。
表情を変えてはいけない。
心を読まれてはいけない。
「堀田くんを、どうしてあそこまで洗脳したの?」
「あなたがここへ戻ってくる運命を、少し早めたかっただけよ」
綾目はあっさりと答えた。
「ほら。これは君野くん枕」
別の枕を抱き上げ、嬉しそうに頬を寄せる。
「この子は、私たちの理想だった。そうでしょ?」
その言葉をきっかけに、桜谷の中で閉ざされていた記憶の引き出しが1つ開いた。
君野と離れ離れになり、転校してしばらく経った頃。
単身赴任中の父親へ迷惑をかけないため、入院を長引かせようと考えた。
そのために骨折しようと、自ら高い場所から飛び降りた。
だが、そのことが周囲に知られ、骨折が治ったあと、精神科病棟へ移された。
そこで隣のベッドにいたのが、木南綾目だった。
彼女は、その頃から異様だった。
枕を片手に、病棟にいる様々な人間を自分の世界へ引き込んでいた。
――ねえ、寂しい?
――るりちゃんは、綾目のものだよ。
そう囁かれ、まだ綺麗だった頃の君野くん枕を渡された。
そこから先の記憶は、ほとんど残っていない。
「ねえ、君野くんは元気?」
綾目の声で、桜谷の意識は現実へ引き戻された。
「写真を見たけれど、可愛い男の子ね!」
「ええ……」
「堀田くんが言っていたわ。あなたと彼は、ラブラブなんですって」
綾目は嬉しそうに身を乗り出す。
「ねえ、馴れ初めを教えてよ。確か、小学生の頃からだったわよね?」
「……小学1年生の頃、公園で出会ったの」
桜谷は淡々と答えた。
「君野くんと恋人同士だった頃は、薔薇色の思い出よ。私はその頃……とても、ヒステリックになっていた。……でも、彼は私だけの王子様だった」
綾目の反応を見る限り、堀田は事故や呪いのキスのことまでは話していないらしい。
綾目は、にんまりと笑った。
そして、何かを欲しがるような目で、桜谷の両手をぎゅっと握る。
「私とあなたは、そういう運命だから……」
突然、綾目は桜谷へ抱きついた。
だが桜谷は、眉1つ動かさない。
「私はもう、ここには戻らないと決めたの」
冷たい声で、はっきりと告げる。
「またお見舞いに来るかどうかは、私が決めることよ」
「そうかなあ?」
綾目は桜谷の肩へ顎を乗せたまま、不気味に笑った。
「私は、そうは思わないわ……。ふふ。ねえ、聞いて瑠璃子ちゃん」
彼女はそう言うと、桜谷の聞きたいことなど気にも留めず、病院での出来事を一方的に話し続けた。
それからしばらく、面会終了を告げる声が響いた。
病院を出た桜谷は、最寄り駅近くのカフェへ入った。
1人でテーブル席に腰を下ろし、気だるそうにため息をつく。
窓から差し込む日差しと、人々の話し声。
無機質な病院から解放されたことに、桜谷は心の底から安堵した。
ようやく、綾目の監視下から逃れられたような気がした。
ミルクだけを入れたホットコーヒーが、カップを持つたび静かに揺れる。
「……」
桜谷は静かに考えた。
私たちが本当に運命共同体なのだとしたら。
自分の考えの中には、幼い頃に彼女から植え付けられたものもあるのかもしれない。
綾目は、まるで鏡だった。
少し前の自分を見ているようで、寒気がした。
――私が欲しいものは、あの人も欲しがる。
その可能性を考えた瞬間、指先から体温が消えていくようだった。
その帰り道。
桜谷は、堀田のことで心を痛めている君野の家を訪れた。
「きゃー!瑠璃子ちゃん!久しぶり!」
玄関へ出てきた君野の母親は、熱心なファンのような甲高い声を上げ、そのまま桜谷を抱きしめた。
この人の抱擁は、どうしてこんなにも温かいのだろう。
「よかったあ。お母さん、心配しちゃった。元気だった?」
「大袈裟ですよ。元気でした」
桜谷は、わずかに微笑む。
君野の母親は、自分が知らなかった無償の愛を教えてくれた人だった。
本当の母親のように感じたことさえある。
桜谷も、ずっと気にかけていた。
手土産として持ってきた和菓子を渡すと、君野の母親は早速それを皿へ移した。
盆の上には、オレンジジュースの入ったコップと、おはぎが2つずつ並べられる。
「吉郎!瑠璃子ちゃんが来たわよ!」
君野の母親は階段の下から、彼の部屋へ声をかけた。
桜谷は盆を持って2階へ上がり、部屋の前で待つ。
すると中から、慌ただしく動き回る音が聞こえた。
やがて鍵が、がちゃりと開く。
だが、本人は一向に出てこない。
「……入るね」
桜谷はドアノブを下げた。
部屋へ入った瞬間、その場で立ち尽くした。
室内は荒れ放題だった。
足元には、踏めば滑って転びそうなほどプリントが散らばっている。
本や漫画、ゲーム機、使ったティッシュ、菓子袋、空のペットボトル。
様々な物が無秩序に床を埋め尽くしていた。
まるで、彼の筆箱の中身を、そのまま部屋いっぱいにぶちまけたようだった。
本人は壁際の窓の下にあるベッドへ腰掛けている。
カーテンは閉め切られていたが、午後2時の日差しが隙間から細く差し込んでいた。
「君野くん……?」
君野は、桜谷が着ているものに似た厚手のクリーム色のセーターを着ていた。
その裾を頭まで引き上げ、巨大なネックウォーマーのように顔を隠している。
頭頂部からは黄色い髪だけが、くるんと飛び出していた。
まるで芽を出したばかりの植物のよう。
その姿のまま、微動だにしない。
あまりに痛々しい様子に、桜谷は一瞬言葉を失った。
それでも床の隙間を探しながら盆を抱え、君野のもとまで進む。
窓際の出っ張りへ盆を置くと、頭まで被っていたセーターを、そっと下ろした。
そこから現れたのは、泣き疲れて頬を赤くした君野の顔だった。
「……大丈夫?」
「うん」
「おはぎ、食べる?」
桜谷は、おはぎを1つ手渡そうとした。
しかし君野は受け取らず、代わりに甘えるように口を開く。
桜谷は何も言わず、おはぎを口元へ運んだ。
君野はそれにかぶりつき、ゆっくりともぐもぐと食べる。
「おいしい?」
桜谷が尋ねると、君野は1度だけ頷いた。
「……もっと、食べさせて」
潤んだ瞳を向けられ、桜谷の胸が高鳴る。
やはり、愛おしくてたまらない。
心臓が、喜ぶ犬の尻尾のように激しく脈打っていた。
思えば、堀田くんと君野くんを奪い合っていたせいで、彼には常に2人分の愛情が注がれていた。
今、その愛情をためていたタンクは空になっている。
「好きになっちゃう……」
「え?」
「僕、桜谷さんが優しすぎて、好きになっちゃう……」
君野は不安そうに見上げた。
「いい?」
「……いいわよ」
桜谷は静かに答える。
「好きになっても。寂しいんでしょ」
その言葉を聞いた途端、君野の瞳から涙が溢れた。
桜谷が両腕を広げる。
君野は身を預けるように、彼女の胸へ飛び込んだ。
「あったかい……」
君野は再び目を潤ませ、そう呟く。
今だけでもいい。
彼が少しでも元気になるのなら、それでいい。
桜谷は遠くを見つめながら、君野の頭を何度も優しく撫でた。




