第31話「宇宙人の襲撃」
その数日後のことだった。
「おい、堀田……?」
真後ろの席に座る藤井が、恐る恐る声をかけた。
「なんだ?」
「いや、その枕だよ。なんだよ、それ。悪ふざけか?」
「悪ふざけ?そんなわけないだろ。友だよ! 友!」
「友って……え?お前の弟だよな……?」
「そう!可愛いだろ?これからは、いつでも一緒なんだ!」
堀田は照れもなく、爽やかに笑った。
藤井の眉間の皺は深くなるばかりだった。
堀田の机の上には、白い枕が置かれている。
弟だというその枕には、黒いマジックで目と口らしき3つの丸い点が描かれているだけだった。
まるで、ボウリングの球に空いた指穴のようだ。
可愛いというより、不気味だった。
藤井は引きつった笑みを浮かべる。
「……にしては、似てないな」
「なんてこと言うんだよ。可愛いだろ?」
「あ、ああ……」
「ぐすっ……。堀田くん、おかしいの……。最近、話しかけても、ずっとああで……」
君野は自分の席からその様子を見つめ、静かに涙を流していた。
見かねた桜谷が、ポケットティッシュを差し出す。
「……バカね。本当に」
「え?バカ?」
「勝手に土足で入り込んで、あの人の罠にかかるなんて……」
桜谷は静かに唇を噛んだ。
枕に描かれた3点の顔が、まるで計算された角度で、堀田の席から自分を見つめているようだった。
綾目からの挑発にしか見えない。
その日の3時間目の休み時間。
「堀田くん……」
廊下で出会った堀田へ、君野は何度も声をかけた。
だが堀田は、枕を小脇に抱えたまま返事をしない。
周囲の生徒たちが露骨に避けていく中、君野だけは諦めずに近づいた。
「あ、あの……。僕も、その枕に触ってみてもいい?」
すると堀田は枕へ耳を寄せ、何かを聞くような仕草をする。
「……駄目だ。友は恥ずかしがり屋なんだ」
「……友くんは、何が好きなの?」
「ごめんな。こいつ、お前のこと好きじゃないみたいなんだ」
「……っ」
君野の顔が、目に見えて強張った。
とうとう堪えきれなくなったのか、涙ながらに訴える。
「その枕、宇宙人からもらったの?」
「は?」
「だって、おかしいよ! 夜中に寝ているとき、宇宙人にさらわれたんでしょ? 堀田くんの家、空に近いから狙いやすかったのかもしれない……」
「ははは!お前、面白いこと言うな!」
「僕は本気で言ってるの!お願い、堀田くん!早くそれから離れて!」
「これは枕じゃない!」
笑っていた堀田の表情が、一瞬で険しくなる。
「どこからどう見たって、友だ!」
怖い顔が眼前へ迫り、君野だけでなく、周囲の生徒たちにも緊張が走った。
「それ以上、友の悪口を言うなら、俺は容赦しない」
「お願い……。僕に話してよ……」
「うるせえな!」
牙を剥くような形相で、堀田が君野へ詰め寄る。
「やめなさい」
桜谷が現れ、堀田を鋭く睨みつけた。
「このケダモノ。君野くんから離れて」
「誰がケダモノだ!」
「……行きましょう。こんなの、相手にする必要はないわ」
桜谷はそう言って、君野の手を引いた。
しかし君野は涙ぐんだまま俯き、動こうとしない。
「傷!傷だ!」
突然、堀田が叫び声を上げた。
桜谷が君野の手を引いた拍子に、長袖のセーラー服の袖口がわずかにずれ、白い手の甲が露わになっていた。
堀田は異様なほど興奮し、枕を抱えたまま、ラグビー選手のような勢いで桜谷へ突進する。
そして、その手を強く掴んだ。
「うわっ!?」
勢いに巻き込まれ、手を繋いでいた君野は床へ放り出された。
そのまま前のめりに倒れ込む。
「君野くん!」
「ある……!傷がある!」
捕まえた昆虫を観察する学者のように、堀田は桜谷の手の甲を凝視していた。
その異様な姿に、桜谷の背中を悪寒が走る。
それよりも、君野に怪我をさせようとするなんて許せない。
「お前、ここを自分で切ったんだろ!」
「…堀田くん…」
「ここにある!ここに……!確かに、自分で刃物を使って切った傷が……!」
桜谷の白い肌には、当然そんな傷はない。
それでも堀田は、本当にそこに傷があるかのように、自分にしか見えない線を必死に指でなぞっていた。
桜谷の堪忍袋の緒が切れた。
右手を大きく振りかぶる。
「いい加減にしなさい!」
バチン!
強烈な平手打ちが、堀田の左頬へ叩き込まれた。
堀田はその衝撃で床へ倒れ込む。
周囲から小さな悲鳴が上がり、誰もが息を呑んだ。
桜谷は倒れた堀田へ歩み寄ると、その胸ぐらを掴んだ。
鬼の形相で顔を近づける。
「あなた、勝手に自分から頭を突っ込んで、こうなったんでしょ!」
吐き捨てるような冷たい声だった。
「こんな枕を見せつけて、『助けてください』?ふざけないで……!」
まるで、床へガムを吐き捨てるような言い方だった。
「お前は……傷をつけたのか……?」
堀田は涙を流しながら、それでも震える声で問いかける。
「……ああ、もう!」
桜谷の脳裏に、あの日の綾目の言葉が蘇った。
――裏切り者。
――でもね、るりちゃんは、またここに戻ってくるの。
“君野くん枕”を返しに、病院へ行った日のことだ。
一向に病院から抜け出せない彼女が、退院して外の世界と関わるようになった私へ、恨めしそうに告げた言葉だった。
今でも忘れられない。
「桜谷さん……」
床へ座り込んだまま、君野が桜谷の両手を掴んだ。
まるで命乞いをするように、涙を流している。
「僕、堀田くんを助けたい……。どうなってもいいから、助けてあげたいんだ……」
「……」
このままでは、芋づる式に君野まで、あの病院へ辿り着くかもしれない。
「……分かった。私が、なんとかしてあげる」
「え?なんとかできるの?」
「……分からない。でも今は、それしか方法がないのかもしれない」
「僕にできることはある?」
「ないわ」
きっぱりと言われ、君野は黙り込んだ。
その後も、堀田は枕に依存し続けた。
授業中はもちろん、体育の時間でさえ、運命共同体のように抱えている。
教師たちも次第に呆れ、とうとう注意すらしなくなっていった。
昼休み。
君野は堀田の隣の席へ移動し、一緒に昼食を食べていた。
堀田は枕を机の上に置き、見つめ合いながらおにぎりを頬張っている。
誰も、彼の隣には座りたがらなかった。
「ねえ、堀田くん。今日の体育、楽しかった?」
「なあ、友。今日はお前の好きなクリームシチューにしような。コーンをたっぷり入れた、お前の好きな甘いシチュー。でも、ニンジンの好き嫌いは駄目だぞ?」
君野の何気ない問いかけには、返事すらしない。
仕方なく、君野は枕について尋ねた。
「堀田くん。どうして弟くんにそこまで執着するの?教えて」
「当たり前だろ。可愛くて、愛おしいんだ。俺には友だけいればいい」
「僕には、そう見えないよ……。だって、それは弟くんじゃない……」
「また文句を言うのか?」
「……ごめん。でも僕は、これくらい言えるほど、堀田くんのことを知ってるよ……」
堀田はその言葉を無視するように、楽しそうに枕へ話しかけ続ける。
それでも君野は、めげずに言葉を続けた。
「僕、思うの……。本当に弟くんを想っている堀田くんだったら、僕を無視しないって……。だって堀田くんは、すごく優しくて、格好よくて……」
「さっきから、うるさいな!」
痺れを切らした堀田は、君野の机に置かれていた弁当箱を腕で振り払った。
まだ中身の残っていた弁当が、床へ無残にぶちまけられる。
教室が静まり返った。
周囲の生徒たちは険しい表情で、その光景を見つめている。
「いいの!ごめんね!気にしないで!」
――お願いだから、堀田くんをそんな目で見ないで。
そう訴えるように、君野は慌てて床へ落ちた弁当を拾い始めた。
「大丈夫?」
そこへ桜谷が駆けつけ、一緒に床を拭く。
「ありがとう。桜谷さんって、優しいんだね……」
「誰にでも親切なだけよ……。まだ彼にちょっかいを出すつもり?」
「え? ああ、うん……。僕の大切な人だから……」
君野は床へ落ちたおかずを拾いながら、笑った。
「だから今度から、お弁当は片手で食べられるものにするんだ! そうすれば、もうこんなことにはならないよ!」
「……」
その健気さに、桜谷は深いため息をついた。
呆れたように目を閉じ、小さく首を振る。
放課後。
堀田は枕を抱え、風のような勢いで1人帰ってしまった。
「君野くん。一緒に帰りましょ」
「うん!ありがとう……」
君野はにこりと笑った。
2人で並んで学校を出る。
堀田くんの隣にいた彼と、一緒に下校するのは久しぶりだった。
帰り道、桜谷は君野を元気づけようと、彼が好きそうな話題を選んで話した。
しかし、話題が尽きると、君野はすぐ堀田のことを口にした。
「堀田くんは、どうして学校を早退してまで病院へ行ってたと思う?」
堰き止めていたものが溢れるように、言葉が続く。
「僕、そこに秘密があるんじゃないかって思うんだ。病院へ行くようになってから、おかしくなったから」
「……その病院で会っていた相手のことは知っているの?」
「ううん。女の子だってことだけ……。その子が宇宙人だったのかな……」
君野は今にも泣きそうな顔で、本気でそう言った。
だが、間違ってはいない。
桜谷は心の中でそう思った。
「僕、絶対に操られてると思う。あれは、堀田くんの意思じゃない……」
「私もそう思うわ」
「なら、枕を壊せばいいかな!?」
「……壊すだけでは駄目なの」
桜谷は少し考えてから答えた。
「心を操られるだけの理由があったのよ。堀田くんは弟に対して、何か未練や懺悔を抱えているのかもしれない」
「未練や懺悔……? なんだろう……」
「あなたを弟として見ていたくらいだもの。相当なブラコンだったのね」
「え……。それ、桜谷さんが見ても分かる?」
君野が驚いたように顔を上げる。
「ええ。堀田くんは、君野くんを自分に都合のいい弟として見ている」
「……」
「あなたたちが恋人未満なのは、そのせいよ。大事なところで踏み出せない。何かが邪魔をしているの」
「じゃあ、桜谷さん……。堀田くんは、どうして僕と兄弟キーホルダーを交換したと思う?」
「君野くんは、どう思うの?」
「僕は……」
君野は視線を落とした。
「もしかしたら、弟の壁を越えようとしてくれたのかなって、一瞬思ったよ。でも……そうはならなかったから」
「それだけ苦しいのよ」
桜谷は静かに言った。
「失うと思うと、怖くなって弱腰になっているだけ」
「そっか……」
「でも、君野くんは宇宙人に絶対関わっちゃ駄目よ」
「どうして?」
「勝てないから」
「……うん」
「堀田くんの心の弱さを見つけてあげるの。そうすれば、彼は元に戻るはずよ」
「……うん。分かった。やってみるよ」
君野はそう言って微笑んだ。
帰宅した桜谷は、自分の部屋にいた。
手の中には、堀田からもらった天使の置物がある。
「助けてあげてなんて、言うつもりなかったのに……」
君野に、あんな話をするつもりもなかった。
家へ帰ったら、この置物さえ壊してしまおうと思っていた。
桜谷は、じっと左手の甲を見つめる。
そこにはもう、深い傷は残っていない。
それでも、傷をつけた日のことも、刃物で皮膚を裂いた瞬間のことも、今なお鮮明に覚えていた。
あのときの寂しさを思い出し、ふと窓辺へ目を向ける。
そのたびに、この天使の置物は胸の中に湧き上がる不安を打ち消してくれていた。
堀田のあの暑苦しさが、
――そんなこと、気にするな。
そう言ってくれているような気がしたからだ。
「……っ」
桜谷は震える手でスマートフォンを手に取る。
インターネットで検索し、画面に表示された番号を見つめた。
それは、あの病院の電話番号だった。




