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第30話「侵食」


 その頃、堀田(ほった)君野(きみの)とキーホルダーを交換した日を境に、精神科病棟へ入院する少女――木南綾目きなみあやめのもとへ、何度も通うようになっていた。


 彼は今、綾目のベッドの横に置かれた丸椅子へ座っている。


 頭には白い枕をすっぽりとかぶせられていた。


 破れ目から飛び出した綿が顔中にまとわりつき、前はまったく見えない。


 このおままごとに付き合わなければ、彼女はまともに話をしてくれないのだ。


 しかし、人間はどんな状況にも慣れていくものだった。


 病院から出られない少女。


 こんな枕をかぶせられていても、彼女が笑って話してくれるなら、それでよかった。


 今日はとうとう、学校を早退してまで来てしまった。


 堀田は学校で起きたことや自分のことを、昔からの友達へ話すように綾目へ打ち明けるようになっていた。


「ホッタ! 今日もよろしくね。それで?今日は何の話をしてくれるの?」


「今日の調子は?」


「ふふ。そんなに毎日聞かなくてもいいのよ。重い病気があるわけじゃないんだから!」


 綾目はクスクスと笑った。


 2人がいくつか雑談を交わしていると、やがて話題はいつものように君野と桜谷のことへ移っていく。


「私ね、君野くんはずっと、るりちゃんの妄想の中にいる子だと思ってたの!まさか本当に実在してたなんて思わなかったなあ」


 綾目は君野に見立てた例の枕を抱き締めながら答えた。


「ねえねえ。その君野くんって、るりちゃんの理想の子?」


「そうだな……。もう、大好きでたまらないって感じだ」


「そおなんだぁ。ふふふ。じゃあ、この子ときっと同じ性格なのね! 私も会ってみたいなあ……」


 喋るたびに、破れ目から飛び出した綿が口へ入り込んでくる。


 病室の暖房が効いているせいか、枕の中は蒸し風呂のように暑かった。


 だが、途中で脱いでしまえば、この時間は終わってしまう。


 堀田が耐えていると、綾目は彼がかぶっている枕をじっと見つめ、にやりと笑った。


「……ねえ。傷痕、見つけた?」


「いや。桜谷の手には、そんな傷は……」


 以前、綾目は桜谷の日記らしきものを持ち出し、堀田へ見せた。


 そこには、桜谷が小学生だった頃、この病院へ長期間入院し、綾目と出会ったことが書かれていた。


 綾目は、その日記を今でも大切に持っている。


 自分によく似た、忘れられない少女だったのだという。


 日記の中には、桜谷が無関心な母親の気を引くため、自らの手を刃物で切ったという記述もあった。


 しかし後日確かめてみても、桜谷の手には、それらしい傷痕などどこにも見当たらなかった。


 前の見えない堀田へ向かって、綾目がベッドの上を四つん這いで近づいてくる。


「よく見てごらんなさいよ。アナタ、観察力が足りないのよ」


 堀田の身体がびくりと震えた。


 綾目が枕越しに、突然抱きついてきたのだ。


「……彼女は、ここではどんな子だった? 俺は、ずっとそれが知りたい……」


「聞きたあい?」


 綾目は堀田の耳元で、楽しそうに笑う。


「ふふ。そんなに言うなら、私もあなたのことをもっと聞きたいわ」


「俺のこと?」


「あなたが大事につけている、そのキーホルダーがとーっても気になるの」


 堀田から見えていないのをいいことに、綾目は彼のスポーティーな白いエナメルバッグから、勝手にキーホルダーを外した。


 親指と人差し指でつまみ、目の高さまで持ち上げる。


 それを、堀田の顔を覆う枕へ近づけた。


「ああ。それは君野と交換したんだ。知り合ったときに、『兄弟』の絆だって言って……」


 堀田はまた、君野との馴れ初めを詳しく語り始めた。


 君野がいじめられていたこと。


 偶然アイス屋へ行くことになった日のこと。


「じゃあ、今は寂しいんだ」


 綾目が言った。


「あなたの話を聞いていると、るりちゃんの話より、君野くんの話をしているときのほうが熱があるもの。今もほら、愛情た~っぷり!」


「いや……」


「寂しいんでしょ」


 言い切られ、堀田は黙り込んだ。


 ――あいつ、最近は桜谷につきっきりで、俺のことをないがしろにしている。


 太ももの上に置いた右手へ、爪が食い込んだ。


 続いて堀田は、兄弟キーホルダーを買った理由には、亡くなった弟の存在が関係しているのだと語った。


「ふふ……。それで、そのあなたの弟はどんな子だったの?」


「本当に、ゆうはすごく可愛いやつで……。今の君野が、そのまま5歳児になったみたいだった。いつでも、どこでも、俺のことを『にんにん』って呼ぶのが、すごく可愛くて……」


 堀田の肩が震える。


 声はたちまち嗚咽へ変わった。


 誰かにここまで話すつもりなど、一度もなかった。


 それなのに、綾目の優しい言葉へ導かれるように、口が勝手に動いていく。


「俺……死に目に会えなくて、後悔してる……」


「へえ。どうして会えなかったの?」


「俺も、まだ小学生だったから……。その日、夕方からやってるアニメが観たかったんだ。だから母親に、病院へ行くのをあと30分待ってくれって言って……」


 堀田は震える息を吐いた。


「その間に友の容体が急変した。俺が病院に着いたときには、もう意識が戻らない状態で……」


「それを、自分が悪いと思ってるの?」


「どんなときも、苦しいときには駆けつけるって……。ヒーローバッジを渡したのに……」


「辛かったわね」


 綾目の声は、どこまでも優しかった。


「誰にも打ち明けていない胸の内を、教えてくれてありがとう……」


 堀田は静かに頷いた。


 どうして、こんなことまで話してしまったのだろう。


 ――俺は、自分から話したのか。


 それとも、話させられたのか。


「病室にいる私になら、いくらでも話していいのよ」


 綾目はそう言いながら、堀田の手をぎゅっと握った。


「私には誰かへ言いふらすこともできないし、外へ連絡する手段もない。ここは、あなたの心のオアシスよ」


 枕越しに、頭を撫でられているのが分かった。


 やがて、カチャカチャと何かを探る音がする。


 綾目はペンを手に取ると、堀田がかぶる白い枕へ、簡単な顔を描き始めた。


「ようこそ、妖精の国へ」


 枕に、歪んだ目と口が生まれていく。


「私は、その国の女王様。堀田の帰る場所は、ここなの」


 綾目は堀田から枕を外し、彼の前へ差し出した。


「ほら見て。弟くん、ここにいるわ……」


 髪は乱れ、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。


 だが堀田は、そんなことなどお構いなしに、差し出された枕を強く抱き締めた。


「それ、あげる」


 綾目が囁く。


「あなたの弟よ。四六時中、肌身離さず持っているのよ……」



 その直後、看護師が30分の面会時間が終了したことを告げにやってきた。


 あまりにも短すぎる時間だった。


 白い枕を片手に病室を出る。


 見慣れた病棟の廊下を歩く。


 白い壁。


 等間隔に並ぶ病室の扉。


 行き交う看護師。


 そのはずだった。


 歩いていた。


 どこまでも。


 ただ、歩いて――。


 気づけば堀田は、自宅にある弟の部屋へ立っていた。


「……さっきまで、どこにいた?」


 自分の声だけが、静まり返った部屋へ落ちる。


 堀田は、ぬいぐるみとお菓子に囲まれた写真立ての中の弟へ目を奪われた。


 棚の前には、弟が生前大好きだったスイーツが供えられている。


 堀田が毎日買ってきて、封を開け、弟の利き手側へスプーンを置いているのだ。


「ごめんな……。不甲斐ない兄ちゃんで……」


 きっと友は、ずっと苦しくて、怖くて、寂しくて。


 俺に会いたかったはずなのに。


 毎日手を合わせても、後悔は薄れない。


 心は、少しずつ重くなるばかりだった。


「ごめんな……。俺が、代わってやりたかった……」


 目の前の仏壇へ語りかけた、その時だった。


「大丈夫」


 背後から、女の声がした。


「あなたは、何にも悪くない……」


 堀田が振り返る。


 真後ろに、病院のパジャマを着た綾目が立っていた。


 綾目は穏やかな微笑みを浮かべたまま、驚きで動けない堀田へゆっくりと近づいてくる。


 そして、静かにその手を伸ばした。






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