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第29話「ハッピーエンド…?」


 その日の午後1時。


 僕は、桜谷さくらたにさんの家を訪れた。


 スマートフォンに届いていた3件のメッセージには、立て続けにこう書かれていた。


『話があるんだけど、時間はある?』


 どこか切羽詰まっているように感じた僕は、地図アプリで彼女の家を確認しながら向かった。


「いらっしゃい」


「こ、こんにちは」


 私服姿の桜谷さんが、玄関で僕を迎え入れてくれた。


 僕たちは絨毯の上へ座り、小さな折り畳みテーブルを挟んで向かい合った。


 甘いコーヒーとビスケットを出してもらい、僕はぼりぼりと食べる。


 桜谷さんは何も口にせず、ただその様子を見つめていた。


「……甘いココアの方がよかった?」


「ううん。甘いコーヒーも好きだよ。僕ね、小さい頃はコーヒーって、茶色くて甘い飲み物だと思ってたの」


「確かに甘いものもコーヒーって言うものね。」


「お父さんがよくブラックで飲むんだけど、『醤油飲んでるの?』って聞いたら、口からコーヒーを吹き出して笑ってた」


「ふふ。君野きみのくんらしいわね」


 そんな雑談をしながら、僕は彼女の部屋へ目を向けた。


 とても無機質な部屋だった。


 女の子らしい物はほとんどなく、家具も持ち物も少ない。


 どこを見ても、きれいに片付いていた。


 その中で目を引いたのは、出窓の一角だった。


 黒い鉢に植えられた観葉植物。


 その隣には、薄いピンク色をした陶器の天使が、透明なフィギュアケースへ入れられて飾られている。


 部屋の中で、それだけが妙に浮いていた。


「何で手紙を出したの?」


 天使の置物に見入っていると、目の前の桜谷さんが突然、真剣な声で尋ねた。


「手紙?何の?」


 僕が首を傾げると、桜谷さんはテーブルの下から1通の封筒を取り出した。


「あ!それ……!」


 僕の部屋で見つけた、薄汚れたしわしわの手紙だった。


 あれ?


 僕、そのあと、どうしたんだっけ。


「何で、桜谷さんが持ってるの?」


「今朝、ポストに入っていたのよ。あなたが出したのよね?」


 封筒には切手が貼られ、郵便局を通ったことを示す消印まで押されている。


 僕は眉間にしわを寄せた。


 そして、2日前の朝に母と交わした会話を思い出す。


『吉郎、ハンコを置いてる所いじった?』


 もちろん、その時は否定した。


 けれど、あそこには確か、切手も保管されている。


「何で……?」


 お母さんが出した?


 いや、そんなわけがない。


 僕は、どの切手を貼れば手紙を送れるのかも、手紙1通の料金も知らないのに。


「ねえ。読んで」


「これ、字が汚くて、途中までしか読めないんだ」


「いいわ。そこまでで」


 桜谷さんは静かに目を閉じた。


 僕は手紙を開き、読める部分だけを声に出した。


「桜谷さんへ。転校して悲しいよ。たった3か月しかいられなかったね。楽しかったよ……」


 読み終えると、桜谷さんはその言葉を味わうように、ゆっくりと2回頷いた。


 そして、呪文でも唱えるように、すらすらと続きを口にする。


「もっとお友達になりたかった。僕、ずっと応援しているから。手紙の返事を待っているね。もっとお話ししよう。だから、これからもいっぱい手紙をやり取りしよう?」


 桜谷さんは、滲んだ手紙の続きを読み上げるように語った。


「え?字が滲んでるのに、読めたの……?」


「ねえ。どうして、今になって出したの?」


「分からない。でも、この手紙は僕の部屋の押し入れにあった段ボールの中へ入ってたんだ」


 僕は手紙へ目を落とした。


「桜谷さんとの過去を知りたくなったんだ。どうして、こんなに好きな気持ちと罪悪感が、ずっと胸の中に残ってるんだろうって……」


「そう。だから、呪いのキスが効いているふりをしていたのね」


「ご、ごめん……」


 僕は俯き、頭をかいた。


 彼女の鋭い視線に耐えきれず、弱い声で続ける。


「でも、手紙を出した覚えは、本当にないんだ」


「その手紙を読んだ時、何も思わなかった?」


「うん。特に、これといっては何も……」


 その言葉を聞くと、桜谷さんはテーブルへ肘をつき、深く考え込んだ。


 その背後に――。


 また、あの真っ黒な影が立っていた。


 水滴を逆さにしたような、足のない黒い塊。


 それが、僕を見下ろしている。


 目も、鼻も、口もない。


 それでも、見られていると分かる。


 心の中で悲鳴を上げながら、僕は桜谷さんに悟られないよう、必死に平静を装った。


「……疑問に思うことが、たくさんあるの」


 桜谷さんが、静かに口を開いた。


「私たちは友達じゃない」


 桜谷さんは、まっすぐ僕を見つめた。


「私が覚えている薔薇色の記憶では、私はあなたと付き合っていた。ベッドの下でキスもしたの」


「……」


「当時の君野くんが、どんな気持ちでこの手紙を書いたのか知りたいの」


「……ごめん。全然思い出せない。事故のせいで、昔の記憶がないんだ」


「そう」


 彼女は1度、目を伏せた。


「あなたを突き飛ばしたのは、私よ」


「え……?」


「サッカー選手になるはずだったあなたの未来も、私が奪ったの」


 僕の表情が固まる。


「どうして……そんなことしたの……?」


「君野くんが、私を知らないと言ったから」


 桜谷さんの声は淡々としていた。


「一緒にあの公園で遊んだことも、恋人同士だったことも私は覚えている。でも、あなたは全部知らないと言った」


「そんな、ことで……?」


「ええ。そんなことで、私はあなたを突き飛ばした」


 桜谷さんは、自分を嘲るようにわずかに口元を歪めた。


「でも、キッチンのガラステーブルへ落ちる直前、あなたは言ったの。私に……『好きだよ』って」


 僕は眉間にしわを寄せたまま、首を横へ振ることしかできなかった。


 本当なら、怒るべきなのに。


 僕の夢も、希望も、彼女が奪った。


 悔しい。


 悲しい。


 それなのに――。


 胸の中で何本もの糸が絡まり、ぐちゃぐちゃになっている。


「……桜谷さんは、どうしてそこまで僕を好きなの?」


「あなたが、私のすべてだったから」


「……」


「後悔しているの」


「え?」


「今のあなたの好意は、何度もキスをして、記憶を消してきた私の洗脳の結果よ」


 桜谷さんは、自分を罰するように続けた。


「もう、あなたの本当の気持ちは分からないの」


「洗脳って……」


「私は弱かった。事故に遭って、ガラスと血まみれになったあなたへキスをした」


 桜谷さんの声が震える。


「そうしたら、呪いのキスが生まれた。きっとそう……それが私の大罪」


 大粒の涙が、彼女の目からこぼれ落ちた。


「そんな、こと……」


「だから、あなたを守るより、私のそばへ閉じ込めたい気持ちが勝ってしまった」


「…」


「君野くんを想えば想うほど、私たちは前に進めない。あなたを助けたい気持ちさえ、私の執着なのかもしれない。もう、何が本当の愛なのか分からないのよ……」


 一度言葉を詰まらせ、涙を拭う。


 君野は、その言葉を受け止めきれないというような表情で口を開いた。


「桜谷さん……。僕ね、ここ数日、桜谷さんは悪い魔女なんじゃないかって思ってたんだ」


「……」


「僕の夢を奪ったことは、許されないことだと思う」


 彼女の肩が、小さく震えた。


「でもね」


 僕も目に涙を浮かべながら、必死に言葉を探した。


「記憶を消され続けて分かったのは、桜谷さんの愛だった。それだけは、本当なんだ」


「……」


「今も分からないよ。こんな話をされたら、許せないはずなのに。でも、学校で一緒に過ごした時間は幸せだった。僕は今、それでも一緒にいてくれる桜谷さんが好きだと思ってる」


「だから、それはキスを繰り返した洗脳なの。あなたは、私に『覚えてない』と言った罪悪感で、私を好きだと思い込んでいるだけ……」


 桜谷さんは、自分を罰するように続ける。


「もう、あなたの本当の気持ちは分からないの」


「洗脳って……」


「今は、壊れていくあなたを止めたいと思ってる。でも、そのためにあなたのそばにいる時間を、私は幸せだと感じてしまった。」


 桜谷さんの声が震える。


「あなたを助けたい気持ちまで、私の執着なのかもしれない。もう何が本当の愛なのか、分からないのよ……」


 大粒の涙が、彼女の目からこぼれ落ちた。


「桜谷さん……。僕ね、ここ数日、桜谷さんは悪い魔女なんじゃないかって思ってたんだ」


「……」


「僕の夢を奪ったことは、許されないことだと思う」


 彼女の肩が、小さく震えた。


「でもね」


 僕も目に涙を浮かべながら、必死に言葉を探した。


「記憶を消され続けて分かったのは、桜谷さんの愛だった。それだけは、本当なんだ」


「……」


「今も分からないよ。こんな話をされたら、許せないはずなのに。でも、学校で一緒に過ごした時間は幸せだった。僕は今、こんなに強く桜谷さんが好きだと思ってる」


「だから、それはキスを繰り返した洗脳なの。それか、あなたの罪悪感由来の好きなのよ…」


「違う……!」


 思わず声が大きくなった。


「違う、違うよ……! ねえ、僕はここにいるよ。こっちを見てよ……」


「……ごめんね」


 桜谷さんは俯いた。


「寂しかったの。私、弱かったの……」


 再び、涙が溢れる。


 次の瞬間、僕の唇は、彼女の震える唇へ触れていた。


 外では、いつの間にか雨が降り始めていた。


 そのことに気づいたのは、部屋の中に2人の息遣いだけが満ちたあとだった。


 唇が離れる。


 僕たちは揃って視線を落とし、目を合わせられなかった。


 あれほど呪いのキスで唇を重ねてきたはずなのに。


 今は、互いの顔を見ることさえできない。


「小さい頃の、寂しくて孤独な気持ちに負けてしまったの」


 桜谷さんが、小さな声で話し始める。


「あなたにもう1度会えたら、全部帳消しにできると思ってた。でも、元に戻れないのが怖くて……あなたを突き飛ばした」


「ううん……。ごめんね」


 僕は首を横へ振った。


「桜谷さんへ冷たくしたのは、僕だ。本当にごめんね……」


 僕たちは手をつないだ。


 夢の中の僕が伝えたかった言葉を、代わりに吐き出しているようだった。


 こんな記憶、本当にあったのかな。


 それでも、涙が止まらない。


 桜谷さんは何度も首を横へ振り、声を震わせた。


「でも、分からないのよ……。君野くんが、どうして私を好きなのか」


「……」


「過去のことも思い出せないあなたが、どうして……。何も分からない」


「桜谷さんが大好きだよ」


 僕は彼女の手を、強く握った。


「ねえ。あと何回言えば、僕の声は届く?」


 自分でも情けなくなるほど、声が震えていた。


 その顔を見つめていた僕の視線が、ふと彼女の背後へ移る。


 先ほどまで黒い影が立っていた場所。


 そこには、黒いワンピースを着た、髪の長い少女がいた。


 無表情のまま、ただこちらを見つめている。


 冷たい眼差しから、僕は目を離せなかった。


 その時、桜谷さんの声が耳へ届く。


「私は、君野くんの幸せを望んでる……」


「……」


「でも、今あなたと一緒にいる理由は、君野くんがおかしくなるのを止めるためだけ」


 彼女は、自分の唇へ触れた。


「このキスは、そういうものなの。あなたとは一緒にいてはいけないっていう、訂正印」


「……桜谷さん」


「私はあなたをぐちゃぐちゃにした。もう何も見えないの。何が真実で、何が嘘なのかも……」


 桜谷さんは涙で濡れた目を伏せる。


「信じたら、また私1人だけが覚えている物語になるの……」


 彼女を助けたい。


 でも、どうしたらいい?


「……好きだよ」


 どうにかしてあげたい。


 その衝動に突き動かされ、僕はもう1度、桜谷さんの唇へキスをした。


 僕の唇が触れた瞬間、彼女の目が大きく開く。


 張り詰めていた表情が、少しだけほどけた。


 頬から、涙が1粒こぼれ落ちる。


 僕は桜谷さんの小さな身体を、背中ごと強く抱き締めた。


「もう、私を忘れないで……。そう言ってもいいの?」


「うん……。大丈夫。僕が守ってあげる」


 僕たちは濡れた頬を擦り寄せ、互いの温度を確かめ合った。


 桜谷さんの涙が、僕の胸へ染みていく。


 これが、桜谷さんの中に抱え込まれていたものなのだと思った。


 


その日の夜。


 僕はベッドに横たわり、昼間のキスを思い出していた。


「もう何も怖くないよ。大丈夫。大丈夫だから……」


 きっと、これで終わる。


 桜谷さんと和解できた。


 呪いのキスは、もう終わったんだ。


 やがて眠りへ落ちると、夢の中には昼間見た黒い影がいた。


 鋭い牙。


 1つの大きな目。


 姿は何も変わっていない。


 それでも、僕の心にはもう恐怖がなかった。


「こっちへおいで」


 僕は手を伸ばした。


 過去の恐ろしい事故が、断片的な記憶の中で、こんな化け物の姿へ歪んでいたに違いない。


「桜谷さん。明日から、ちゃんとした恋人同士だね。ねえ――」


 言い終わるより早く。


 大きく裂けた口が、僕の腕へ噛み付いた。


「――っ!」


 悲鳴を上げる間もなく、身体が引きずられる。


 激しい痛みよりも先に、あの日の感覚が蘇った。


 落ちていく身体。


 砕けるガラスの音。


 全身へ突き刺さる、冷たい痛み。


 同じだ。


 あの時と、何も変わっていない。


 全身に激痛が走る。


 僕は暗闇の奥へ引きずり込まれた。


 声を出すこともできないまま、そのまま意識を手放した。


 翌朝。


 桜谷は通学路の、いつもの場所で立ち止まっていた。


 今日は君野の家まで迎えには行かない。


 それが、新しい1日を始めるための小さな決意だった。


「……来た」


 足音が近付くにつれ、心臓が速くなる。


 怖さと期待が、区別できないまま胸の中へ溜まっていく。


 桜谷は胸へ手を当て、ゆっくりと息を整えた。


「おはよう、君野くん」


 その声に、君野が足を止める。


 桜谷を見つめ、少しだけ眉をひそめた。


 何かを思い出そうとしている。


 けれど、掴めない。


 そんな表情だった。


「……えっと、誰だっけ?」


 その瞬間、強い風が2人の間を吹き抜けた。


 枯れ葉が1枚、静かに地面へ落ちる。


「私、桜谷瑠璃子」


 桜谷は、震えそうになる声を抑えた。


「あなたの隣の席で……彼女なの」


「ええ? 彼女?」


 君野は驚いた顔をした。


「僕、彼女いたの? 知らなかったよ」


 困ったように笑う。


 その瞳は、驚くほど澄んでいた。


 ――悪夢から、解放された。


 その事実だけは、桜谷を救った。


「全然覚えてなくてごめんね。でも、嬉しい。一緒に学校へ行こう!」


 君野は明るく笑い、歩き出す。


 桜谷も、その隣へ並んだ。


 頬を伝う涙を、拭おうとはしなかった。


「寒いね」


「……ええ。寒いわね」


 涙が頬を伝う。


 それでも桜谷は前を向き続けた。


 君野が、自分の涙に気付かないことを祈りながら。




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