表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/44

第28話「手紙」

 

 翌日の祝日。


 君野(きみの)は、いつもの夢を見ていた。


 無限に広がる真っ白な空間。


 その中で、あの黒い化け物に追い回されている。


「うわあっ!?」


 恐ろしく長く伸びた舌が、君野の背中を小突いた。


 その勢いで前へ倒れ込む。


 すぐに上半身だけを起こし、地面を這うように後ずさった。


 気球ほどもある巨大な化け物が、たった1つの大きな目で君野を見下ろしている。


 尖った牙が並ぶ口から、再び舌が飛び出した。


 食べられる――。


 その瞬間だった。


桜谷(さくらたに)さん!!」


 気付けば、その名前を叫んでいた。


 舌の動きが止まる。


 引っ込むのではなく、君野の身体へそっと触れ、そのまますりすりと撫で始めた。


「……え?」


 黒い化け物から、深い悲しみが流れ込んでくる。


 じわじわと胸の奥へ染み込み、胸を締め付けた。


「あの時は、ごめんね……」


 理由も分からないまま、言葉が口からこぼれた。


 それは君野自身の謝罪のはずなのに、別の誰かの贖罪まで重なっているようだった。


 胸を押し潰すほど、強い感情だった。


「あとね……僕が好きだってこと、伝わってほしいの……」


 そう呟いた時、君野はゆっくりと目を覚ました。


「……」


 見慣れた自室の天井が目に入る。


 ここが安全な世界だと分かるまで、少し時間がかかった。


 静かな朝だった。


 窓の外から、小鳥のさえずりが久しぶりにはっきり聞こえる。


 君野は胸へ手を当てた。


「何で……こんな気持ちになるんだろう……」


 胸が苦しい。


 動悸とは違う。


 喉の奥が強く締め付けられ、涙が次々と溢れてくる。


 身体を起こすこともできないまま、パジャマの袖で涙を拭った。


「本当に、あの黒い影は……桜谷さんなのかな……?」


 本人に聞いてみたい。


 でも、「化け物かもしれない」なんて失礼すぎる。


「……」


 君野はぼさぼさの頭をかきながら、スマートフォンの画面を見る。


 午前11時。


 一瞬、寝坊したと焦った。


 だが、すぐに今日は祝日だったと思い出す。


「ん?」


 スマートフォンが短く振動した。


 画面には、


 ――桜谷さん メッセージ3件――


 と表示されていた。




 その2時間前。


 午前9時。


 父親と2人で暮らす桜谷は、ネギや卵の入った買い物袋を肩から下げ、近所のスーパーから帰宅した。


 玄関前のポストへ手を入れる。


 中には大量のチラシばかりで、重要そうな郵便物は見当たらない。


 桜谷はまとめてつかみ、そのまま家へ入った。


「……」


 家の冷蔵庫は、父親の物と桜谷の物で置き場所が分かれている。


 上段には缶ビール。


 その隣には、桜谷が手作りしたつまみが並んでいた。


 台所には、父親が朝食に使った食器が、洗われないまま放置されている。


「……もう」


 なぜ、大の男が皿1枚洗えないのだろう。


 桜谷は買い物袋を下ろし、ガラス製のキッチンテーブルへチラシを広げた。


 請求書や重要なお知らせが混ざっていないか、1枚ずつ選別していく。


 その時だった。


 チラシの中に、1通の古びた手紙を見つけた。


 封筒はぼろぼろで、赤茶色の染みが広がっている。


 どこか不気味だった。


「何、これ……」


 表には、文字を覚えたばかりの子どもが書いたような字が並んでいた。


「さくらたにさんへ……?」


 誰かのいたずらだろうか。


 そう思いながら封を開く。


 中には、1枚の紙が折り畳まれていた。


 すべて、ひらがなで書かれている。


『さくらたにさんへ


 てんこうしてかなしいよ


 たったさんかげつしかいれなかったね


 たのしかったよ』


「これ……」


 その瞬間。


 頭の中で花火が弾けるように、封じ込めていた記憶が一気に蘇った。


 桜谷は手紙を握ったまま、動けなくなる。


 少し黄ばんだ紙に並ぶ幼い文字。


 それが君野くんの字だと分かったのは、差出人の名前が書かれていたからではない。


 名前など、どこにもない。


 きっと書き忘れたのだろう。


 手紙の内容は覚えていなかった。


 けれど、その文字を見た瞬間、あの事故の日の記憶が鮮明に蘇った。


「桜谷さんへ。転校して悲しいよ。たった3か月しかいられなかったね。楽しかったよ……」


 震える声で、君野くんは手紙を読んだ。


「見て。こんなふうに書いてたんだよ。続きも読んでみるね」



 4月。


 入学式の日。


 サッカーに夢中だった君野くんは、駆け寄って「久しぶり」と笑った私を見て言った。


「知らない」と。


 私のことも、2人の過去も、全部。


 胸の奥が、すっと冷たくなったのを覚えている。


 けれど、そのあと彼が怪我をしたことで、ようやく近くにいられるようになった。


 少しずつ言葉を交わせるようにもなった。


 ――これなら、元に戻れる。


 そう思った。


 でも、怪我が治った途端。


 彼は何事もなかったように、またサッカーへ戻ろうとした。


 嫌……。


 また私を、なかったことにするの?


 あの母親みたいに、私を透明人間にしないでよ…


 私たちの薔薇色の記憶。


 これさえ思い出せば、君野くんは私から離れない。


 サッカーへ戻る前日。


 私は君野くんを家へ招いた。


「これが、最後だから……」


 そう言うと、納得してきてくれた。

 そして、震える手で、彼はこの手紙を読んでくれた。


 文字は、きちんと読めていた。


 それなのに――。


 読み上げた内容は、私が信じていた薔薇色の記憶と、1つも一致しなかった。


 そして彼は、穏やかに笑って言った。


「明日から、またサッカー頑張るね」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が真っ白になった。


 どうして……?


 どうして私を、みんな愛してくれないの……?


「……違う……。あなたはサッカーに戻りたくて、嘘をついているのよ……」


「え?」


「そうよ!! あなたはサッカーしか見えてないの!!私はちゃんと覚えているのに!!」


「違うよ!」


「違わない!!!」


 君野くんは慌てたように何かを説明している。


 でも、その声はもう頭へ入ってこなかった。


 私が信じてきた薔薇色の記憶は。


 君野くんにとっては、サッカーより軽いものだった。


 もう、何も届かなかった。


 君野くんが1歩近付いてくる。


 私はそれを振り払った。


 彼がもう1度、私の腕をつかんだ。


 その瞬間。


 私は彼を突き飛ばしていた。


 身体が大きく後ろへ傾く。


 2階の窓。


 砕け散るガラス。


 赤く染まる地面。


 その直前。


 彼の口が、確かに動いた。


「……好きだよ」


 ……どうして。


 どうしてそれを、今さら。


「今さら、思い出すの……」


 桜谷の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ