第26話「黒い悪夢の化物」
「誰か助けて!!」
君野は、何もない暗闇の中を必死に走っていた。
それでも、この夢が昨日と同じ結末へ向かっていることだけは分かっていた。
背後から忍び寄る黒い煙が、獣のように形を変えながら迫ってくる。
煙の中では、君野の喉元を狙うように鋭い牙がちらついていた。
足元はぬかるみ、冷たい風が皮膚を切り裂くように吹き付ける。
ズモオオオオオオオオオオオ――。
地響きのような唸り声に、内臓まで震えた。
やめて。
来ないで……!!
視界の端に、黒い影が映った。
裂けた口だけが、瞬く間に視界いっぱいへ広がる。
「うわああああっ!?」
その瞬間、世界が真っ白に弾けた。
君野はベッドの上で跳ね起きる。
「はっ……はあ……はあ……」
すぐに夢だったと悟り、添い寝していたスマートフォンの画面をつけた。
「4時……」
また早朝の4時だった。
冬の近い早朝。
真っ暗な部屋に浮かぶ画面の光が、強く目を刺した。
「何で……こっちを見てるの……」
汗を拭った手で、布団を強く握り締めた。
本当に怖かった。
深呼吸を繰り返し、寒さから逃げるように布団へ潜り込む。
何も見なかったことにしよう。
そう思ううちに意識がまどろみ、再び眠りへ落ちていった。
その日の早朝。
堀田は朝練へ向かう生徒に会うため、午前6時に学校へ来ていた。
待ち合わせ場所は、普段まったく縁のない1年5組の教室だった。
「何?話って」
まだ誰もいない教室で、ジャージ姿の短髪の男子生徒と堀田が向き合う。
「うちのクラスに君野吉郎っているだろ? お前、小学1年の頃、君野と同じクラスだったか?」
「……ああ。そうだったかな」
男子生徒は首を傾げた。
「そこに桜谷がいたのは覚えてるか?」
「桜谷? 桜谷って、どこの?」
「うちの2組の桜谷瑠璃子。眼鏡で三つ編みの。いろんなやつの話だと、小1の頃に数か月だけいたらしいんだ」
「ごめん。さすがに小1の時に短い間しかいなかった子なんて、覚えてない」
「だよな……。呼び出して悪かった」
堀田が教室を出ようとした、その時だった。
「キミノ……サクラタニ……」
男子生徒が、2人の名前を何度も小さく呟き始める。
堀田が不思議そうに見ていると、彼は眉間へしわを寄せた。
目を閉じて何かを思い出そうとしたあと、急に顔を上げる。
「何か……その名前、俺の知り合いがよく呟いてたかもしれない」
「えっ!?」
「ええと……。ちょっと、あとでまた連絡する」
一筋の希望がつながり、堀田の太い眉が大きく動いた。
2人はその場で連絡先を交換した。
他人の過去を勝手に調べ回っていいのか。
迷いはあった。
それでも、君野の曖昧な記憶を、幼児退行や記憶障害という言葉だけで片付けることはできなかった。
事故で失われた過去には桜谷がいる。
2人の関係が歪んだ原因も、そこにあるのかもしれない。
だが、数か月かけて集まった話は、どれも曖昧だった。
小学校の頃、君野は桜谷という女の子と同じクラスだったらしい。
隣の席に一時期いた気がする。
問題児だったような気もする。
すべて「気がする」だけで、確かな情報は1つもなかった。
それに、誰へ聞いても、アルバムや集合写真、思い出の品の中に桜谷の姿は残っていなかった。
まるで煙か、幻のようだ。
「うーん……」
堀田は自分の教室へ戻ると、席に座って腕を組んだ。
その1時間後。
「君野くん、今日はいつにも増して眠そうね」
「うん……。また変な夢を見たの」
冬の気配が近づく秋空の下、桜谷と君野は並んで通学路を歩いていた。
君野の沈んだ声を聞き、桜谷がその顔を覗き込む。
「ちゃんとご飯は食べられてる?」
「うん……。むしろ食欲はあるよ。昨日も大きなポテトチップス、1袋食べちゃったし」
「ふふ。じゃあ、何だろうね。怖いものでも見た?」
「怖いもの……」
君野が桜谷の顔を見た、その時だった。
「!」
「どうしたの?」
「……う、ううん」
君野の心臓が大きく跳ね上がった。
目を見開いたまま、桜谷から視線を外せない。
正確には、彼女の背後から目を離せなかった。
夢で見た黒い煙が、ぴったりと張り付いていた。
水滴を逆さにしたような、足のない化け物。
高さは2メートルほどあり、全身が光を吸い込むような漆黒に染まっていた。
一目で、この世のものではないと分かる。
まさか。
僕が夢で見ていたものは、桜谷さんを襲うつもりなの?
君野の顔から血の気が引いた。
「どうしたの?何か、見えないものでも見えてる?」
桜谷は君野の視線を追い、自分の背後を振り返った。
「ううん……。何でもない……」
彼女には見えていない。
周囲を歩く人々も、誰1人として反応していなかった。
「……僕の頭が、怖い夢のせいでおかしくなっちゃったのかな……」
「お化けの話?大丈夫よ、君野くん。お化けなんて怖くないわ」
「そうなの?でも、部屋に立ってたら怖くない?お風呂とか、怖くて髪も洗えないよ」
「ふふ。所詮、1度死んだ人たちよ。生きている人間の方が、よっぽど怖いわ」
君野も、その言葉へ小さく頷く。
もう1度、彼女の背後を確認する。
そこには、もう何もいなかった。
よかった。
やっぱり見間違いだったんだ。
君野は胸を撫で下ろした。
「堀田くんと、キーホルダーを交換したのね」
桜谷が君野のリュックをじっと見つめた。
「うん!お互いの物を持っていた方が、思い合えるからだって」
「本当に魔法のキーホルダーね。この中へ、あなたを閉じ込めておけるんだから」
「それって、どういう意味?」
「あなたには、ずっと弟のままでいてほしいって意味よ。そのキーホルダーを大切にするのは、幼いままの君野くんが好きだから。彼はずっと、その関係でいたいの」
「それって……いい意味なの?」
「いい意味じゃないの?」
「う……うーん……」
君野は戸惑った表情を浮かべた。
桜谷はそれを分かっていながら、さらに棘を刺すように言葉を続ける。
「弟というフィルターがなければ、友達にすら思えないの。その関係を、もっと強くしたいと思っているのよ」
「……」
君野は、それ以上聞きたくないというように黙り込んだ。
堀田くんが、君野くんを好きでたまらないのは伝わってくる。
でも、「兄弟」という決まりがあれば、君野くんはずっと今の場所にいる。
2人は互いを思い合いながら、勝手に均衡を保っている。
本当に強固な絆。
堀田くんが意気地なしでよかった。
「行きましょう」
桜谷は、落ち込んだ君野の手を握った。
つないだ手は冷たい。
その冷たさが、凍り切った自分の心のようだと桜谷は感じた。
数日後。
「堀田!」
2時間目の休み時間。
堀田は、先日の陸上部の男子生徒に廊下で呼び止められた。
「おお。どうした?」
「例の話、進んだ。直接会って話したいなら、そいつの家族へつないでもいいけど」
「何で家族?」
「ああ。今、そいつ病院にいるんだ。面会には家族の許可が必要なんだよ。今はスマホも使えない状態だし。どうする?」
「頼む」
「……1つ、注意しておく」
「ん?」
「そこ、精神科なんだ。それに、その人が本当に桜谷を知ってるかは分からない。よくその名前を呟いてるってだけだ」
「ああ。それでもいい。その家族に許可を取ってくれないか?」
「分かった。まあ、ちょっと癖の強いやつだけど……。家族には、俺の友達だって伝えておくよ。その方が話も早いだろうし」
男子生徒はそう言って、爽やかに笑った。
同じ頃。
君野は、1人で学校の廊下を歩いていた。
背後から、何かがついてくる気配を感じている。
「気のせいだよ……」
寝不足だから。
頭が疲れているだけ。
そう言い聞かせ、恐怖へ蓋をした。
その時、廊下の端で黒い影が動いた。
「……いや、違う。僕が寝不足だから、頭がちょっと変なんだ……」
君野は早足になり、目的の教室へ急ぐ。
自分の知っている言葉を並べ、恐怖へ蓋をし続けた。
やがて教室へ到着する。
背後を振り返っても、そこには何もいなかった。
「……いない。よかった」
君野は安堵の息を吐いた。
その瞬間、頭の中へ何かが引っかかった。
「あれ……。僕、何か大事なものを忘れてるような……」
何だっけ。
しばらく考えたが、答えは出なかった。
「忘れちゃった……」
忘れてしまうくらいなら、きっと大したことではない。
君野はそう考え、賑やかな教室へ戻っていった。
彼が忘れた大切なものは――
荒れた自室の勉強机で、積み重なった本の下にひっそりと埋もれていた。




