第25話「さくらたにさんへ」
10月。
僕は荒れた箪笥から長袖のシャツとブレザーを引っ張り出し、衣替えの準備をしていた。
桜谷さんを認識したのは、1週間前。
呪いのキスについて知ったのは、その直後だった。
それから、彼女に4回キスをされている。
僕の記憶から、桜谷さんを取り除くための儀式らしい。
けれど、彼女は今も、それが僕に効いていると思い込んでいる。
「これって、ドッキリ?」
初めてそう尋ねた時、彼女は突然キスをしてきた。
翌朝には何事もなかったように僕の「恋人」を名乗り、最初から同じ関係を作り始めた。
そのキスは、とても作業的だった。
何も言わずに唇を重ね、僕の記憶から自分を消そうとする。
どうして、そんなことを繰り返すのだろう。
ちっとも分からない。
キスをした翌朝になると、桜谷さんは何事もなかったように「恋人」だと名乗る。
そして僕も、初めて会ったふりをする。
気がつけば僕たちは、何年も同じやり取りを繰り返してきたカップルのようになっていた。
――誰か助けて!
「はうあ……!?」
僕は自分の荒い息遣いで目を覚ました。
心臓が胸の奥で乱暴に跳ね回り、冷たい汗で寝間着が肌へ張りついている。
「また……あの夢……」
夢の中で、誰かが悲痛な叫び声を上げていた。
最初は、ただ何となく怖いだけの夢だった。
けれど見るたびに、少しずつ状況が鮮明になっている。
僕は黒い何かから、必死に走って逃げていた。
覚えているのは、それだけ。
「はあ……ふう……」
心臓はまだ、太鼓のようにどくどくと胸を叩いている。
時計を見ると、午前4時だった。
「はあ……」
僕は、どうしてしまったんだろう。
数時間後。
2度寝から目を覚ましたのは、朝の7時だった。
「おはよう、君野くん」
桜谷さんは台所にいて、今日初めて会ったように、にこやかに笑った。
呪いのキスをされた翌日、彼女はいつも同じように振る舞う。
僕もそれに合わせれば、記憶が残っているとは気づかれないはずだ。
「えっと……誰だっけ?」
僕は、すっかり定例化した流れをまた演じる。
「やだ。忘れちゃった?」
桜谷さんが微笑んだ。
あ。
桜谷さん、今日から冬服なんだ。
「今日か……!」
そこまで言いかけて、僕ははっとした。
「ん? 何?」
まずい。
「今日から冬服なんだね」なんて言ったら、昨日のことを覚えているとばれてしまう。
「き……今日、唐揚げ食べたいかも!」
「唐揚げね。君野くん、大好きだものね」
「うん! 好き好き!」
よかった。
何とかごまかせたみたいだ。
自分が1番信用できないことくらい、自分自身がよく分かっている。
「あ、あの……桜谷さんって、僕の彼女なんだよね」
「ええ。そうよ」
「僕のどこが好きなの?」
「全部よ」
全部。
前日も、その前の日も、同じ答えだった。
「……うーん」
何を聞いても、返ってくる答えは変わらない。
僕は何と返せばいいのだろう。
「桜谷さんは、僕といて楽しい?」
「ええ。楽しいわ。君野くんは?」
「うん。優しいし、楽しいよ。でも、何でだろうと思って……。僕でいいのかなって……」
「……」
「ご、ごめんね。変なこと言って」
駄目だ。
余計なことを言えば、またキスをされて、最初からやり直しになる。
何か別の話題を探そう。
そう思った時には、今朝の夢について口にしていた。
「何かね、怖い夢を見たんだ。それで、ちょっと眠いんだよね」
「大丈夫?寝不足?」
「うん……。朝の4時に1度起きちゃって」
「そっか……。ねえ、君野くん。お願いがあるの」
来た。
桜谷さんは歩きながら、呪いのキスをした翌日の決まり文句を僕へ告げた。
恋人だった記憶がなくても、できる限り今までと同じように、恋人として振る舞ってほしい。
僕は素直に頷いた。
でも、やっぱり分からない。
そして彼女のルーティンは、まだ続く。
次に向かったのは、近所の公園だった。
「幼い頃、あなたは私の王子様だったの。ほら、見て。この公園」
僕たちは幼い頃、この公園で出会ったらしい。
黒いセーラー服を着た桜谷さんは、やり直しの朝はいつも、ここで楽しそうにその思い出を語る。
よほど大切な記憶なのだろう。
『大丈夫? この花は、笑顔の君に似合うと思うよ』
泣いていた彼女へ雑草の花束を差し出し、僕はそんな台詞を言ったらしい。
覚えてもいないのに、聞いているだけで恥ずかしくなった。
でも、その記憶を今まで1度も思い出せたことはない。
「何も思わない?」
「……うん」
「一緒に夜空を見た記憶も? ツルツル山の上で、とってもきれいなオリオン座を見たのよ」
「そうなんだ……。それって、どんな遊具なの?」
そう尋ねると、桜谷さんは目を丸くした。
「……あなたから質問するなんて珍しいわね。これも日頃の成果かしら」
「日頃の成果?」
「ううん。何でもない」
日頃の成果って、何だろう。
僕は今まで、彼女に何をされてきたんだろう。
もしかすると、本当に魔女なのかもしれない。
「行きましょう」
「うん」
それでも僕は、何も知らないふりをしたまま、彼女と一緒にいたいと思った。
もっと知りたい。
それが、悪い魔法だったとしても。
――彼女を助けたい?
「え?」
不意に頭へ浮かんだ言葉に、自分で驚いた。
助ける?
助けるって、何から?
「遅刻しちゃうわ。行きましょう」
「……うん」
僕たちは並んで、少し早足で学校へ向かった。
「おう!おはよう!」
「あ、堀田くん!おはよう!」
教室へ入った途端、堀田くんが両腕を広げて飛びついてきた。
「ぎゅー!」
「ぎゅー!」
僕も反射的に抱き返す。
それを見た桜谷さんは、露骨に怪訝そうな顔をした。
「よう。おはよ!」
「……おはよう」
堀田くんの挨拶へ小さく返し、桜谷さんは1人で自分の席へ向かっていった。
「何か、しおらしくなっちまったな」
「そうなの?」
「ああ。誕生日以来、牙が抜けたっていうか……」
「そ、そうだね……」
その誕生日のことも、以前の桜谷さんがどんな人だったのかも、僕は何ひとつ覚えていない。
きっと、今までは本当に呪いのキスが効いていたのだ。
けれど、桜谷さんとは恋人らしく振る舞うと約束している。
だから堀田くんにも、以前のことを忘れているとは言えない。
「堀田くんは、桜谷さんの過去について何か知ってる?」
「知らないな」
堀田くんは腕を組んだ。
「あいつのことを知ってる人間自体、ほとんどいないだろ。俺が知ってるのも、お前が話してくれたことくらいだ」
「僕、何か話したっけ……?」
「図書室で桜谷が寝てた時、あいつの家庭環境について話しただろ」
堀田くんは、僕の反応を怪しむこともなく続ける。
「親に愛されずに育って、小さい頃にお前が初めて誕生日を祝ってやったって。だから俺も、あいつにプレゼントを買おうと思ったんだしさ」
「そうだったんだ……」
そんな大切な話まで、僕は忘れていた。
胸の奥に、言葉では表せない重さが沈んでいく。
「な、なあ、君野」
「何?」
「1つ、提案があるんだけどさ……」
堀田くんは後頭部をぽりぽりとかきながら、照れくさそうに目を逸らした。
「兄弟キーホルダー、交換しないか?」
「交換?」
僕が首を傾げると、堀田くんは慌てて言葉を足した。
「いや、ほら……。何ていうか、その方がお互いのことを思い合える気がしてさ……」
「うん! いいよ。僕も、その方がいいと思う!」
僕は早速、リュックについていた『弟』のキーホルダーを外し、堀田くんへ渡した。
堀田くんも同じように、エナメル製のスポーツバッグから『兄』のキーホルダーを外す。
僕の手には『兄』。
堀田くんの手には『弟』。
今までとは反対になった文字を見つめると、不思議な気持ちになった。
「これからは、僕がお兄ちゃんだね!」
「何でそうなるんだよ!」
「だって、『兄』って書いてあるもん」
「文字を交換しただけだ! 立場まで交換した覚えはないぞ!」
堀田くんはそう言いながらも、嬉しそうに笑っていた。
その顔を見ていると、僕の胸の奥まで温かくなる。
僕たちは交換したキーホルダーを見せ合い、まるで恋人同士みたいに笑った。
その日の学校でも、僕はいつものように桜谷さんへ当たり障りなく接した。
授業中に消しゴムを貸してもらい、昼休みには一緒に弁当を食べた。
彼女が話す思い出にも、初めて聞くような顔で頷いた。
そのおかげか、その日は記憶を消すためのキスをされずに済んだ。
けれど、安心はできない。
僕が少しでも不自然な反応をすれば、桜谷さんはまた僕の記憶を消そうとするかもしれない。
学校から帰ると、僕はすぐに自分の部屋の押し入れを探り始めた。
本当に幼い頃、この近所の公園で桜谷さんと一緒に遊んでいたのなら、何か痕跡が残っているはずだ。
「あー、これ、僕の?」
押し入れの奥から引っ張り出した段ボール箱には、幼稚園や小学生時代のアルバムが詰め込まれていた。
画用紙へ描いた絵。
学校の連絡帳。
折り紙や、名前の書かれた工作。
いろいろな物が残っている。
それなのに、どれを見ても、自分でも驚くほど何も思い出せなかった。
「そうだ。僕、そもそも昔の記憶がないんだった……」
それでも、アルバムのどこかには桜谷さんが写っているかもしれない。
僕は膝の上へアルバムを置き、写真を1枚ずつ確認した。
幼稚園の遠足。
運動会。
小学校の入学式。
教室で撮られた集合写真。
どの写真にも、桜谷さんの姿はなかった。
「いない……?」
小学校の卒業アルバムまで調べたが、やはり見つからない。
本当に桜谷さんは、僕と幼い頃を過ごしたのだろうか。
彼女が話していたことは、全部作り話なのではないか。
そんな疑いが、一瞬だけ胸をよぎった。
「あれ?」
アルバムを閉じ、段ボール箱の底へ積み重なった紙を探る。
その下に、1通の古い手紙が眠っていた。
「さくらたにさんへ……!」
封筒の表には、子どもの字でそう書かれている。
ほかの思い出の品に残っていた文字と見比べても、僕の字で間違いなさそうだった。
指先が、わずかに震えた。
僕は封を開けた。
可愛らしい模様の封筒から、1枚の手紙が出てくる。
そこには、こう書かれていた。
『さくらたにさんへ
てんこうしてかなしいよ
たった3かげつしかいれなかったね
たのしかったよ』
「このあとは……何て書いてあるんだろう。もう読めないや……」
文字は滲み、続きを読むことはできなかった。
桜谷さんは、途中で転校してしまったらしい。
だから、アルバムにも残っていないのだろう。
これだけ部屋をひっくり返しても、見つかった手掛かりはこの手紙だけだった。
「じゃあ、この気持ちは……誰のもの…?」
僕は小さくため息をつく。
――あいつは親に愛されない子どもで、お前が初めて誕生日を祝ってやったって言ってたぞ。
昼間の堀田くんの言葉が頭へ浮かぶ。
公園。
雑草の花束。
ツルツル山。
手紙は届かず、差し戻されたから、今もここへ残っている。
封筒を裏返すと、切手は貼られておらず、料金不足を知らせる紙がそのまま残っていた。
この手紙を、どうしよう。
桜谷さんへ見せる?
でも、事故の記憶を呼び起こして傷つけてしまったら。
それに、また記憶を消されたら、僕は永遠に真実へたどり着けない。
この謎を解くまでは――。
呪いのキスが効いていないことを、桜谷さんへ知られるわけにはいかない。
僕は手紙の埃を軽く払い、勉強机の上へそっと置いた。




