第24話「最悪の誕生日」
その日の午後。
掃除の時間、君野は中央廊下で、ほうきを抱えたまま立ち尽くしていた。
「君野くん、せめて壁際へ行こう……」
桜谷は、廊下の真ん中で立ったまま眠りかけている君野へ呼びかけた。
「今日も、あまり眠れなくて……」
君野はまるで、武士が刀を胸に抱えるように、ほうきを大切そうに抱き締めている。
そのまま、ゆっくりと目を閉じてしまった。
「……」
桜谷も、効かない呪いのキスのことで連日ほとんど眠れていなかった。
もう、何事もなく明日を迎えられればいい。
君野くんが「おめでとう」と言ってくれる。
それだけでよかった。
「おい、大丈夫か?」
中央廊下を通りかかった堀田が、壁際へ移動した君野を見つけた。
「帰りの会が終わったら、少し寝かせてから帰るか」
君野を担ぎ上げる前に、堀田はその頬を両手で包んだ。
人形のように動かない顔へ近づき、額をぴたりと重ねる。
「何してるのよ。変態」
「熱を測ってんだ!」
桜谷の言葉に太い眉を跳ね上げ、堀田はむきになって言い返した。
「……うん。熱はなさそうだな」
君野の頭を、愛おしそうにわしゃわしゃと撫で回す。
そのあと、堀田は君野を抱え、桜谷の隣にある窓際の席まで運んでいった。
放課後。
眠る君野を教室で休ませていると、見回りに来た教師から、部活動をしていない生徒は校内へ残れないと告げられた。
桜谷は鞄を抱え、君野を背負った堀田と一緒に、休ませられる場所を探して校内を歩き回った。
ようやくたどり着いたのは、1階の図書室だった。
堀田が両手を塞がれたまま足で扉を押し開けると、紙と古い本の匂いが鼻をくすぐった。
3人は、受付前に並んだ長机へ向かう。
君野はナイロン製のリュックを枕代わりにし、机へ突っ伏すように寝かされた。
「家来たちがこんなに疲れてるのに、いい身分だな……」
堀田は汗を拭い、シャツの胸元をぱたぱたと動かしながら、君野の右隣へ腰を下ろした。
桜谷は左隣へ座り、乱れた君野の髪を整える。
寝不足のせいか、彼女も今にも眠ってしまいそうだった。
「お前も寝れば?」
堀田は鞄から宿題を取り出した。
「起こしてやるからさ」
「……はあ」
「お前も顔色悪いな。熱、測るか?」
その言葉に、先ほど堀田が君野と額をくっつけていた姿が浮かぶ。
桜谷はぶんぶんと首を横へ振った。
「絶対に嫌」
「嫌って何だよ」
堀田は不服そうな顔をしながら、宿題へ目を落とした。
図書室は、小声で話すことさえためらうほど静かだった。
前方の席は空いていて、窓の外を陸上部の生徒が時おり横切っていく。
遠くから響く、野球部の打球音と掛け声。
廊下の向こうからは、吹奏楽部の管楽器が途切れ途切れに聞こえていた。
桜谷は何度か瞬きを繰り返した。
もう限界だった。
君野の寝息を聞いているうちに、ゆっくりと瞼が閉じていく。
「……黙ってれば、可愛いんだけどな」
しばらくして、堀田は桜谷が完全に眠ったことを確認した。
本人に聞かれたら殺されそうな言葉を呟き、いたずらっぽく舌を出した。
しばらくして、君野が目を覚ました。
顔を上げ、まだ眠そうな目をごしごしと擦りながら、辺りをきょろきょろと見回す。
時刻は午後4時。
帰りの会が終わってから、30分ほど経っていた。
夕方の柔らかなオレンジ色が、3人を照らしている。
君野はあくびをしながら右を見た。
堀田は荷物を残したまま席を外している。
次に左を見る。
いつの間にか、桜谷の頭が自分の肩へ寄りかかっていた。
「……」
君野は、その寝顔をじっと見つめた。
このままでは頭がずり落ち、机へぶつかってしまいそうだった。
君野は枕代わりにしていたリュックを桜谷の前へ置き、力の抜けた両腕をそっとその上へ預ける。
眼鏡も静かに外してやった。
これなら少しは楽に眠れる。
君野は、きれいな水槽を覗き込む子どものように、その寝顔へ見入っていた。
髪へそっと触れてみる。
さらさらしている。
女の子の匂いがした。
不意に、堀田へお姫様抱っこされていた桜谷の姿が頭をよぎる。
胸の奥がむかむかした。
君野は桜谷の前髪やまつ毛へ、指先で優しく触れた。
「そうそう……こんな感じで、君に触ってみたかったんだ……」
ふと、そんな言葉がこぼれる。
視線が、桜谷のふっくらした唇へ落ちた。
指先で何度か唇へ触れるうちに、君野の顔もゆっくりと近づいていく。
「……はっ!」
桜谷は突然、勢いよく上半身を起こした。
「おはよう、桜谷さん」
「ようやく起きたか」
隣では、戻ってきた堀田が君野へ宿題を教えていた。
時計は午後5時を示している。
窓の外は、すっかり夕暮れに染まっていた。
桜谷は眠っている間に感じた違和感を思い出し、右手で自分の唇へ触れる。
……夢?
「ん? どうしたの?」
君野は、何もしていないと言わんばかりに、いつもと変わらない顔をしていた。
「君野く――」
「さあ、帰るか」
堀田の声に遮られた。
その直後、君野がアラームのように声を張り上げる。
「僕、今日プレゼントを買うつもりだった!」
「いいのよ。気持ちだけで。君野くんの笑顔があれば、それでいいわ」
「桜谷さん……」
桜谷は笑顔を浮かべた。
けれど、胸の奥では焦りが広がっていく。
唇に残る、この感触は何?
……気のせい。
眠っている間に、自分の指が触れただけ。
そう思い込もうとしても、背中を冷たいものが走った。
それでも桜谷は、最後まで笑顔を崩さなかった。
そして翌日。
桜谷は13歳の誕生日を迎えた。
「あ、えっと……誰ですか?」
廊下で朝の挨拶をした瞬間、君野は戸惑った顔でそう言った。
その反応を見た瞬間、桜谷は力が抜けるように床へ崩れ落ちた。
「君野、お前……!」
スクールバッグごと廊下へ崩れた桜谷を見て、堀田は何が起きたのか分からないまま君野へ詰め寄る。
「今日、桜谷の誕生日だろ!? 数日前から、その話で俺たち盛り上がってただろ!」
「えっ……ごめんなさい。本当に分からなくて……」
君野は眉を八の字にし、首を横へ振った。
「ぐすっ……」
「さ、桜谷……?」
泣いている。
あの桜谷が…!?
堀田の胸を、鈍い衝撃が貫いた。
「うう……ぐすっ……」
桜谷は声を殺して泣いていた。
今にも過呼吸を起こしそうだった。
何が起きているのか分からない。
それでも堀田は、戸惑う君野と、崩れ落ちた桜谷を見比べる。
「とりあえず、ここを離れよう。君野、お前は教室へ戻っていてくれ……」
心配そうに見つめる君野を残し、堀田は桜谷の手を取った。
肩を抱き、人のいない廊下の奥、美術室の前まで連れていく。
「ふーっ……ふーっ……」
「落ち着いて。深呼吸しろ。過呼吸にならないようにな……」
堀田は桜谷の背中を擦りながら、一緒にゆっくりと呼吸を整えた。
こればかりは仕方がない。
ただ、タイミングが悪すぎた。
誰も悪くない。
そう思いながらも、堀田の胸はやるせなさでいっぱいだった。
「あっ!」
突然、堀田の太い眉が大きく動いた。
彼は教室へ向かって走り出す。
すぐに戻ってきた堀田の手には、小さな洒落たショッピングバッグがあった。
その中から、ピンク色の箱を取り出す。
「誕生日、おめでとう」
「え……?」
「これ、やるよ……」
堀田が包装を外す。
中から現れたのは、陶器でできた天使の置物だった。
ピンクと白のグラデーション。
羽を広げた丸い顔の天使。
けれど、その顔には目も鼻も口もない。
メルヘンな雰囲気を漂わせる、顔のない置物だった。
「わざわざ……買ってきたの……?」
「友情の証だ。さすがに遊園地で見たやつほど華やかじゃないけど……。たまたま似たようなのを見つけたから、ついでにな!」
桜谷は天使の置物を両手で受け取った。
泣き腫らした瞳が、うっとりと輝く。
その横顔に、堀田も思わず見入ってしまった。
「……ありがとう」
「お、おう! 昨日、閉店ぎりぎりに行った甲斐があったな……」
「わざわざ図書室の帰りに?」
「家に着いたのが夜8時になって、さすがに親に怒られた」
「本当に馬鹿ね」
「馬鹿って何だよ!」
堀田はほっと息をついた。
桜谷に、いつもの調子が少しだけ戻ってきた。
「ケーキも買ってきたんだ。だから昼は3人で食べよう。どんな気持ちでも、君野を迎えてやろうな」
「……ええ。分かってる……」
桜谷は下唇を強く噛み締めた。
一度は止まったはずの涙が、再びぼろぼろとこぼれ落ちる。
その日の帰り道。
君野と桜谷は、2人きりで歩いていた。
桜谷は無表情のまま、コンクリートの継ぎ目をじっと見つめている。
「……ケーキ、おいしかったね」
「ええ、そうね」
君野は何度も口を開きかけた。
けれど、言葉が続かない。
眉は申し訳なさそうに下がったままだった。
いつもの近所の公園へ差しかかった時だった。
突然、君野は公園の中へ走り出した。
中央で立ち止まると、地面の砂を足で蹴り集め始める。
生気を失った桜谷が見守る中、砂は少しずつ小さな山になっていった。
手のひらで覆えるほどの、小さな小山。
君野はそれを素手で丁寧に整える。
再び忙しそうに走り出すと、今度はマッチ棒ほどの枝を1本見つけてきた。
それを小山の頂上へ刺す。
「誕生日、おめでとう!」
「!」
桜谷は目を見開き、息を呑んだ。
それは、幼い頃に君野が作ってくれた砂のケーキだった。
2人だけの、大切な思い出。
けれど、これだけで過去を思い出したとは言えない。
冷たい雨の中で、一瞬だけ傘を差し出されたようなものだった。
それだけでは、凍え切った心を温めることはできない。
「今できそうなこと、何かないかなって思って……。明日には絶対、プレゼントを持ってくるよ!」
「……もういらない」
「え……?」
「思い出になるくらいなら、いらない」
桜谷は般若のような顔で、ずかずかと公園へ入っていった。
そして、砂のケーキを勢いよく蹴り飛ばす。
「うわっ!」
「神様はいじわるね。私のことが、よっぽど嫌いみたい」
「……本当に……大事な日を台無しにして、ごめんなさい……」
「もういいの。分かった。ごめんなさい」
桜谷は震える声で言った。
「もう希望なんていらない。二度と浮かれたりなんかしない……」
「ごめんね……。ごめんね……。僕、本当に、ごめんなさい……」
君野は眉を八の字にしたまま、桜谷のそばで立ち尽くしている。
彼のせいではない。
分かっている。
だから、神様を呪う。
彼を作ったことじゃない。
私を生んだことを、恨んでいる。
「桜谷さん……?」
君野が顔を覗き込んだ瞬間、その唇へ桜谷のキスが飛んできた。
リセマラをするように。
すでに、いつもの作業へ戻っていた。
「……さよなら」
桜谷はそう言うと、君野の頬を右手で叩いた。
乾いた音が、公園へ響く。
君野は放心したように頬を押さえ、瞳へ涙を溜めたまま、公園から走り去っていく。
1人残された桜谷の頬を、秋の冷たい風が撫でた。
流れる涙を、すぐに乾かそうとする。
この涙も、明日にはなかったことになる。
そう。
またいつもの、未来のない日々が始まる。
自分の部屋へ戻ると、静寂が耳を圧迫するようにのしかかってきた。
桜谷は黒いスクールバッグを肩から落とす。
振り返ることもなく、その場で扉にもたれかかり、床へ座り込んだ。
カーテンも開けていない、真っ暗な部屋。
桜谷は胸をかきむしるように、爪を立てる。
「だって……数日間は、本当の恋人だったんだもの……」
次の瞬間、目の前の洋服箪笥をなぎ倒していた。
中身をまき散らし、何度も蹴りを入れる。
自分のものとは思えない叫び声が、喉から溢れた。
教科書も、文房具入れも、ドライヤーも、椅子も。
目につくものすべてを壁へ投げ付け、引き倒す。
「どうして!!!!!!」
気が付けば、両手の爪はぼろぼろだった。
足はびりびりと痛み、腫れた手の甲からは血が流れている。
「はは……はは。そっか……そっか……」
桜谷は乾いた声で笑った。
「全部、間違いだったってことなんだ……」
分かっていた。
呪いのキスは、君野くんと出会ったこと自体が間違いだったと、ずっと私へ突き付けている。
彼の運命の人は、もう目の前にいるのだから。
「あははは……はは……。ああああああああ、もう!!」
これは天罰なのだろうか。
だとしても、あまりにもひどい。
このままでは、彼のことすら幸せにできない。
「……私、何で生きてるの……?」
明日になれば、どうせまた好きになるのに。
悲鳴にもならない声は、誰にも届かないまま、床の溝へ吸い込まれていった。




