第23話「受難の誕生日前日」
その日の放課後。
桜谷は堀田と一緒に、君野の家へ向かっていた。
明日、リコーダーのテストに合格していない生徒には追試がある。
このまま合格できなければ、今学期の音楽の成績は絶望的だ。
君野は持ち帰って練習するつもりだったが、急な早退ですっかりリコーダーを忘れてしまったらしい。
そこで2人が届けることになったのだが、どちらも譲らず、結局一緒に君野の家へ向かっていた。
「今日は妙に気が合うわね」
桜谷が皮肉たっぷりに言った。
「お前ってさ、君野以外に好きなものあるのか?」
「ないわ」
「好きな色は?」
「ない」
「君野の好きなところは?」
「全部」
「そうか……」
堀田はその答えに、頬をぽりぽりとかいた。
「気が済んだ?」
桜谷は冷たい目を向ける。
「爪楊枝を食べたくらいで調子に乗らないで。私の弱みを握って、君野くんを奪おうとしても無駄よ」
「何でそうなるんだよ」
堀田は呆れたように眉を下げた。
「俺はずっと、お前が言ってた『メルヘンなものを置くような女になりたかった』って言葉が引っかかってるんだ」
「だから、あなたには関係ないって言ってるじゃない!」
「俺は、お前が好きだ」
「……何を言っているの?」
桜谷は冷淡な声で返した。
けれど、その瞳が一瞬だけ揺れたのを、堀田は見逃さなかった。
「本気だ」
堀田は1歩近づいた。
「お前は、愛を知らないだけなんだ」
「……ふざけないで」
言葉の意味は理解できる。
彼の言う「好き」は、恋愛ではない。
厄介なほど熱い性分のせいで、放っておけないと言っているだけだ。
「私は、あなたが大っ嫌い!」
桜谷は地面へ唾でも吐くように、嫌悪を込めて言い放った。
その時だった。
「ワン! ワン!」
「きゃっ!」
すぐ横の柵から、大きな黒い犬が吠えた。
桜谷はとっさに後ろへ下がる。
その瞬間、足元がふらつき、バランスを崩しかけた。
「おい、大丈夫か?」
堀田が手を伸ばす。
けれど、桜谷はその場から動けなくなっていた。
柵の向こうにいたのは、人懐っこそうなラブラドール・レトリーバーだった。
横長の柵に沿って、落ち着きなく行ったり来たりしている。
堀田は柵の隙間から手を伸ばし、その頭を撫でた。
「めちゃくちゃ可愛いぞ」
「先に行って。私、遠回りしていくから」
「もう君野の家は目の前だろ。ここ、いつも通ってるんじゃないのか?」
「昨日までは平気だったのよ……」
「昨日……ああ、なるほどな」
昨日、山で野良犬に囲まれたばかりだった。
堀田は小さく息を吐くと、突然桜谷を抱き上げた。
「何するの!」
桜谷は慌てて足をばたつかせる。
だが堀田は気にも留めず、そのまま歩き始めた。
「離しなさいよ!」
「ここを通れなきゃ、お前だって帰れないだろ!」
堀田は桜谷を軽々と抱えたまま、犬の前を通り過ぎていく。
「それに、お姫様抱っこで記憶を上書きすりゃ、犬なんかどうでもよくなるかもしれないぞ!」
「ならないわよ!」
「なあ」
堀田は柵の向こうの犬へ、愛想よく笑いかけた。
「こいつ、吠えられるのが怖いんだってさ。今度通る時は、静かに見守ってやってくれ」
犬は吠えるのをやめ、その場へおとなしく座った。
そして、2人が通り過ぎるのをじっと見送っている。
犬の姿が十分に離れたところで、堀田はようやく桜谷を地面へ下ろした。
「はあ……嫌い」
「さあ、リコーダーを届けに行くぞ」
堀田は桜谷の背中を軽く叩き、何事もなかったように歩き出した。
その背中を見つめながら、桜谷の頭には再び、あの言葉が浮かんでいた。
――本当は桜谷さんを覚えていたけど、サッカーを取った。
遊園地へ行った日。観覧車の中で君野くんははっきりそう言った。
彼は、中学校で再会した時、私を「知らない」と言った。
でも――。
私たちは、小学校の頃、あんなにラブラブだったのに。
なのに、どうしてあの時、そんな嘘がつけたの?
どうして、サッカーなんかを選んだの?
それなのに、彼は何度忘れても、また私を好きになる。
「……好き? いや……」
私への罪悪感……?
彼は、本当に私を好きなの?
それとも、傷つけた罪悪感に突き動かされているだけ?
もう、分からない。
呪いは解けたのか。
それとも、今から始まったのか。
それでも、私の考えは変わらない。
幼い頃の彼だけを見続けることが、自分の存在意義を保つ唯一の方法だから。
「あれ?まだ帰ってきてないみたいだな」
いつの間にか、堀田が君野の家のインターホンを押していた。
けれど、返事はない。
2人はリコーダーをポストへ入れ、そのことを書いた紙を玄関の扉へ貼り、解散することにした。
「じゃあな。また犬が怖くなったら呼んでもいいからな」
「こんな記憶、すぐにでも消してやるわ」
悪態をつく桜谷に、堀田は無邪気に笑った。
……本当に迷惑な人。
人の卑屈な心を、もっと惨めにする天才ね。
「またな!」
そんな桜谷の偏屈な気持ちとは裏腹に、堀田は凛々しい眉を上げ、颯爽と帰っていった。
翌朝。
「おはよう、君野くん」
桜谷はいつもより早く家を出て、駅前の歩道を歩いていた君野へ声をかけた。
「……おはよう」
「どうしたの? 体調悪いの?」
「ううん……」
君野は目に見えて落ち込んだまま、首を横へ振った。
泣きそうな顔をしているのに、唇をきゅっと閉じ、理由を話そうとしない。
どうしたのかしら。
「……大きな病気が見つかったとか?」
「……昨日、見ちゃったんだ」
「何を?」
「車で帰ってきた時、桜谷さんが堀田くんにお姫様抱っこされてるところ……」
「それが、どうかしたの?」
桜谷はあえて淡々と答えた。
けれど、胸の奥が不意に跳ねる。
「……どうして?」
君野の問いかけに、さらに鼓動が速くなった。
「……嫉妬してるの?」
桜谷が問い返すと、君野は一瞬黙り込んだ。
あどけない大きな瞳が、涙で潤んでいる。
頬も、かすかに赤くなっていた。
「僕が男らしくないから……。おんぶも、お姫様抱っこも、とっさにできないし……」
君野は言いにくそうに視線を伏せる。
「あ、あのね、桜谷さん……」
「な、何?」
「……ちゅーしたい」
「え?」
「僕の彼女なんでしょ?」
君野は首を傾げ、甘えるようにねだった。
その仕草を見ているだけで、自分の唇までむずむずしてくる。
「……触りたい。ちゃんと、僕の彼女なんだって思いたい」
なぜ?
ここ数日、何もできなかったのに。
一体、何がどうなっているの?
「だ、駄目じゃないけど……」
桜谷は混乱しながらも、跳ね上がる心臓を抑え、努めて冷静に答えた。
「こんなところでするの、恥ずかしい?」
「……」
「じゃあ、桜谷さんの誕生日にしてもいい?」
「何で、キスしたいなんて思ったの?」
「……可愛いからだよ」
かっ……!
思わず声が出そうになり、桜谷は咳払いでごまかした。
顔が一気に熱くなる。
唾が変なところへ入ったことにして、何度も小さく咳をした。
「わ、分かったわ……。明日の私の誕生日に、キスしましょう」
「本当?やった!」
君野はその場で2回、ぴょんぴょんと跳ねた。
「私のこと、そんなに好き?」
「うん!好き!」
「堀田くんよりも?」
「うーん……。明日、ちゅーしたら、もっと分かるかも!」
君野はにこっと笑って、ごまかした。
「……これって……」
これって。
こんなもの、知らない。
知らないはずなのに――。
どうして、こんなに嬉しいの?
もし、これが本当なら。
もう、リセットの日々に戻らなくていいの?
桜谷はその時、初めて自分の本音を聞いた気がした。
教室へ入ってからも、君野は露骨な罠を仕掛けてきた。
「ねえ、桜谷さん。しりとりしよう」
「え? うん。いいわよ」
「マンボウ」
「う……うなぎ」
「銀行」
「う? うーん……牛」
「資料!」
「また、う……?」
桜谷が困っていると、君野の視線に気づいた。
先ほどからずっと、「う」と言うたびに、桜谷の唇をじっと見つめている。
「……何か、顔についてる?」
「ううん!『う』だよ?」
「う……宇宙」
「ちゅう!ネズミ!ちゅー!ちゅー!」
「……君野くん。明日まで待ってね」
「うん、分かってる!」
「明日はキスをする日じゃなくて、私の誕生日なのよ」
桜谷は表面上、困ったような顔をしてみせた。
「とても大切な日なの。君野くんが、そう教えてくれたのよ」
「僕が?そんな思い出……」
「事故で覚えていないだけ」
桜谷は静かに続けた。
「小学生の頃、私、君野くんに祝ってもらうまで、誕生日というものを知らなかったの」
「え?そうだったの?」
「……母は、父が出張している間に浮気していたわ。その間、私は邪魔者扱いされていたから」
「そうなの?それは、ひどいね……」
「昔の話よ」
桜谷は小さく目を伏せた。
「そんな私にね、君野くんが小学生の時に、誕生日のお祝いとして砂のケーキを作ってくれたの。公園の砂場で」
「じゃあさ!」
君野が目を輝かせる。
「明日もそれをやろうよ!砂のケーキ!」
「え?本当に?」
「うん!誕生日は楽しいものだって、いつお祝いしても思えるように!」
「そうね……」
桜谷の胸の奥へ、じんわりと温かいものが広がっていく。
「すごく、嬉しい」
長い間、氷のように固まっていた心の中へ、小さな灯りがともったようだった。
「泣いてる!?」
君野は桜谷の涙にぎょっとした。
慌ててポケットの中を探る。
だが出てきたのは、未使用なのにボロボロになったティッシュだけだった。
「これは駄目だ……」
「大丈夫よ……ありがとう」
桜谷は自分のハンカチで目元を拭った。
神様。
ここまでさせておいて、当日、彼の記憶を消すつもり?
そんなことをしたら、私、あなたの首をへし折りに行くわ。
桜谷は、ハンカチを強く握り締めた。
午前中の体育。
今は短距離走をひたすら繰り返す、陸上の授業だった。
君野と堀田は、列の後ろの方へ前後に並んでいる。
「君野、桜谷の誕生日プレゼント考えてるか?」
「うん、考えたよ……!」
「そうか。なら安心だな」
「堀田くんも渡すの?」
「いや、俺は……。もらっても喜ばないだろ」
「そうなの? 絶対喜ぶよ!」
「そうかあ? どう考えても、それはないと思うけどな……」
堀田は頭をかいた。
昨日、桜谷と一緒に帰ったことで、彼女も普通の人間なのだと思い知らされた。
そのせいか、絶対に渡すことはないと思っていた気持ちが、少しだけ揺らぐ。
「んー……。まあ、やめとく」
「えー!」
「俺がプレゼントして、あいつが喜ぶとしたら、お前を渡すくらいだろ」
「えへへ! 僕を箱に入れたら完璧かな!」
「そのままラッピングだな! ほら、よくあるだろ。『私がプレゼントだよ』って、ラブラブのバカップルがやるやつ」
「それやろうかな! 堀田くん、僕を包んでよ!」
「嫌だ!」
「えー。いい案だと思ったのに!」
「俺が許さないしな!」
「何で?」
だって、俺が欲しいから。
――とは、言えない堀田だった。




