第22話「私を忘れられない彼」
「吉郎、制服にパンくずがいっぱい落ちてる」
君野がパジャマから制服へ着替えると、彼の母は軽くため息をついた。
椅子へ座った眠そうな君野のズボンを、ぱしぱしとはたく。
君野は気にも留めず、大きなあくびをすると、トースターからもう1枚パンを取り出した。
桜谷は、終始微笑みながらその姿を見つめていた。
油断すると、君野を追う視線がポップコーンのようにあちこちへ跳ねてしまう。
なぜ?
どうして?
その言葉が、心の中で何度も弾け続けている。
――壊れてしまったみたいに。
「……行ってらっしゃい!」
君野の母に見送られ、2人は快晴の秋空の下、並んで家を出た。
「はああ……眠い。僕、今日寝不足で、変な夢を見たんだ」
「変な夢?」
「うん。覚えてないけど、なんとなく怖かった。だから、いつもより早く起きちゃったんだ……」
「ふうん……」
「……」
会話が続かない。
リセットできない。
つまり、君野くんにどう接したらいいのか分からない……!
今の私はまるで、彼の家へ置かれている観葉植物みたい。
ただ隣にいるだけで、何を話せばいいのかも分からない。
桜谷は、やるせなさと吐き気を催すような居心地の悪さを感じていた。
「へへ! 桜谷さんの誕生日、楽しみ! おいしいケーキ、食べられるんだろうなあ!」
洋菓子店の前を通り過ぎた直後、君野はくるりと1回転して笑った。
正直、ケーキなんてどうでもいい。
誕生日を取るか。
キスを取るか。
同じ問いが、頭の中で何度も繰り返される。
でも、誕生日は――。
それは、幼い頃の大切な記憶だった。
彼と出会ってから、わずか3か月で転校が決まった頃。
誕生日というものを知らなかった私に、君野くんが初めて教えてくれた。
今ではもうなくなってしまった、あの公園の砂場。
そこで作った砂のケーキと、枝のろうそく。
あの時間が、どれほど私を救ってくれたか。
今でも忘れられない。
でも――。
桜谷は結局、君野が好きなケーキランキングを楽しそうに語る姿を、ただ見守ることしかできなかった。
学校。
桜谷がトイレから教室へ戻ると、相変わらず君野の席には、くっつき虫のような堀田がいた。
桜谷と目が合うと、堀田は片手を上げ、いつもどおりに挨拶してくる。
「よ。足、大丈夫か?」
「ええ。見てのとおりよ」
「お前、昨日言ってた記憶を消すビンタ、嘘だったのかよ。こいつ、覚えてるじゃねえか」
一瞬、何のことかと考えた。
そういえば昨日、堀田の目の前で君野くんの頬を叩いたのだった。
本当なら、忘れているはずなのに……。
桜谷は不貞腐れたように机へ肘をつき、そっぽを向いた。
「……調子が悪い時もあるのよ」
「でも、あのビンタがあったからね!」
君野が無邪気な笑顔を浮かべる。
「僕、しっかりしなきゃって思ったんだ!気合いが入ったんだよ!」
桜谷をかばっているわけではない。
ただ純粋に、いい方向へ解釈しているだけらしい。
「闘魂注入ってやつか? はは! プロレスラーみたいだなお前!」
桜谷は鋭い目で堀田を睨んだ。
呪いのキスが効かないのだから、君野くんの前で余計なことを言わないでほしい。
「……なんか元気ないな」
いつもの毒気がない桜谷を見て、堀田は首を傾げた。
「お前、やっぱ足が痛いのか?」
「大丈夫よ。痛くないわ」
「もしかして、熱でもあるのか?」
「心配しないで、堀田くん。本当に大丈夫だから」
すると堀田は君野の机から離れ、桜谷の前へ立った。
そして、彼女と視線を合わせるように、床へ片膝をつく。
「何よ」
「大丈夫だ」
堀田は小麦色の顔に白い歯を輝かせた。
「……何も怖くない」
はあ?
何も分かっていないくせに、何を言っているの?
けれど、今は君野くんの前だから……。
桜谷は何も言い返さず、無理やり上品な微笑みを浮かべた。
その後も、ひたすら慎ましい少女を演じながら、朝の時間を過ごした。
4時間目の数学。
「桜谷さん、これ何だと思う?」
「え?」
君野は自分の筆箱から、謎の真っ黒な丸い物体を取り出した。
正体は、汚れきった消しゴムだった。
片付けがまったくできない彼の筆箱は、放っておくとすぐ荒れ果てる。
そういえば今日、まだ1度も整理してあげていない……。
「け、消しゴム?」
「違うよ!恐竜の化石!」
君野はそれを顔の横へ寄せ、にかっと笑った。
いつもなら適当にあしらえる。
けれど今は、何と返せばいいのか分からない。
「パカーン!見て見て!化石から恐竜のウンチ!」
君野が消しゴムを2つに割る。
中へ詰め込まれていた短いシャープペンシルの芯が大量にこぼれ、彼の手は真っ黒になった。
君野はそれを見て、またけたけたと笑う。
何が面白いの?
全然分からない。
けれど、新たな発見もあった。
今までは記憶が消えると思っていたから、彼の仕草を1つ1つ、きちんと見ていなかったのだ。
君野くんの表情は、100万通りある。
口をへの字にしたり。
アヒルのように唇を尖らせたり。
前歯を全部見せる、不思議な笑い方をしたり。
そのどれもが、以前よりずっと魅力的に感じられた。
どうして今まで、気付かなかったのだろう。
「君野くん。両手、パーにして」
桜谷はポケットからティッシュを取り出し、君野の両手を優しく拭いてやる。
汚れを拭き終えると、今度は自分の消しゴムを包装ごとカッターで真っ二つに切った。
そして、まだ白く角の残っている下半分を君野へ差し出す。
「その消しゴムは、もう手を汚すだけだから捨てた方がいいわ」
君野は一連の動きを見つめながら、目をぱちぱちさせていた。
「どうしたの?」
「僕……何でこんな大事なこと、忘れてたんだろうって思って……」
「どういう意味?」
「う、ううん……。消しゴムありがとう!大切に使うね!」
昼休み。
「ええ!? 病院行くのか? そんな話、聞いてないぞ?」
いつものように椅子と弁当を君野の席まで持ってきた堀田は、驚きの声を上げた。
「うん。今、廊下を見たらお母さんが来てた」
君野の母は、定期検診のため今日は早退すると、朝から本人へ伝えていたらしい。
ただし君野は、それを覚えていなかった。
「朝のうちに聞いときゃ、心の準備ができてたのに……」
君野が教室を出ると、堀田は急に元気をなくした。
そのまま君野の椅子へ座り、残された温もりを味わうように、上半身をべったり机へくっつける。
「俺、どうやって午後を過ごせばいいんだよ……」
「自分の席に戻ったら?」
「見たら分かるだろ。俺の机、いつの間にかほかのやつが使ってんだよ」
「知らないわよ」
2人の間に、気まずい空気が流れる。
すると堀田は、君野の机の引き出しからノートや教科書、筆箱まで取り出し、その中身をすべて机の上へ広げ始めた。
「ちょっと!私がきれいにしたんだけど。勝手に触らないで」
「何だ、この消しゴム。小さすぎるだろ。俺の消しゴムの方が消しやすいぞ」
「それ!さっき私が彼にあげたの。私のだから、大切に使ってくれてるの!」
「見ろよ。すっごく消しづらそうだ」
「……ムカつく」
「お。いつもの調子が戻ってきたな。やっぱり午前中、何か思い詰めてたのか?」
「……」
「誕生日ってさ、普通は家族で祝うイベントだろ。お前が妙に楽しみにしてるから、もしかして愛情不足なのかなって思ってさ」
「あなたはカウンセラー?」
「いや。暴力を振るうのも、そのせいなのかなって。君野は天然だからいい方に解釈するけど、俺はお前の心の問題だと思うぞ」
「はあ……」
「この弁当だって、いつも誰が作ってんだ? 自分か?」
「ええ、そうよ。だからこの中には毒が仕込んであるの」
「毒?」
「あなたを黙らせるための毒。そんなに土足で人のプライバシーへ踏み込みたいなら、これを全部食べなさいよ」
桜谷はそう言って、弁当箱へ残っていた食べかけのサンドイッチを堀田へ差し出した。
「毒なんて入ってるわけないだろ」
堀田は何のためらいもなく、サンドイッチを口へ入れた。
すると、パンの中の硬い感触に眉をひそめた。
何だ、これ?
堀田が桜谷の弁当箱へ目を落とす。
肉団子とキュウリを刺していたはずの爪楊枝がなくなっていた。
驚く堀田の顔を見て、桜谷はにやりと笑った。
「私は変人なんでしょ。だったら郷に入っては郷に従えよ。私と同じ物を食べられないなら、二度と話しかけてこないで」
こいつ……。
しかし堀田は、吐き出すどころか咀嚼する気満々だった。
口の中から爪楊枝を噛み砕く音が聞こえる。
そして、そのまま喉を大きく動かした。
「何で食べるのよ!ばっちいわね!」
「これで、お前のことを何でも知ることができるんだろ?」
堀田は得意げな顔を桜谷の目の前へ近づけた。
「あなたに変えられるものも、できることも、何もないわ。次は何を入れるか分からないわよ」
「俺は噛み砕いてみせる。お前のためにな」
「勝手にしなさいよ!そうやって寄生虫みたいに中から搾り取って、私を抜け殻にでもしたいの!?結婚詐欺師みたいに、愛でも人質に取る気なんでしょ!」
「好き勝手言えばいい。けど、俺はお前は悪くないと思ってる。何か、その不器用なところが可愛いって思えてきたし」
「かっ……!」
可愛い!?
何でそう思うの!?
あまりにも言葉が通じなさすぎて、だんだん恐怖すら感じてきた。
「それ、もういらないから全部食べて!残飯を残したくないの!」
桜谷はそのまま席を立ち、逃げるように教室を出ていった。
「……まあ、いつもの毒があるってことは、元気な証拠なんだよな……」
堀田はそう呟いた。
そして桜谷の食べかけの弁当を平らげながら、君野の筆箱を黙々と片付け始めた。




