第20話「メイドカフェ」
翌日、君野は自室のベッドへ潜り込み、薄いシーツを羽織って深く息を吐いた。
部屋を見渡せば、「混沌」という言葉がこれほど似合う場所もない。
床には読みかけの漫画や脱ぎ捨てた服、書きかけのメモが散乱していた。
昨日の観覧車での一件から、何も手につかなかったのだ。
「昨日、僕はどうしていたんだっけ……」
堀田くんは、明らかに怒っていた。
彼の話では、僕は観覧車の中で女の子とキスをしていたらしい。
けれど、遊園地での記憶は曖昧で、その子のことは何ひとつ覚えていない。
土産は手元に残っている。
確かに遊園地へ行ったはずなのに、どうしてここまで記憶が抜け落ちているのだろう。
「ぐすっ……」
君野のスマートフォンの画面へ、涙が1滴落ちた。
先ほどから何度も堀田へ連絡しているが、メッセージは既読になったまま返事がない。
朝のやり取りで、『桜谷さん』という女の子を知らないと答えたことが原因らしい。
「でも、本当に覚えてないんだ……」
さらに、昨日の写真を堀田へ送った時、こんなことを言われた。
『お前、どういうつもりだ?』
『どういうこと?』
『お前、わざと写真をトリミングして、隣にいる桜谷を消してるだろ。明らかに2人で撮った写真じゃないか。そうやって2人で俺を馬鹿にして、楽しいのか?』
堀田の怒りは、そのやり取りでますます激しくなった。
もちろん、そんなことをした覚えはない。
けれど、違和感のある写真の加工を元へ戻してみると、確かにそこには『桜谷さん』という女の子が写っていた。
「な、なんで……?」
『いい加減にしろ!バレバレなんだよ。……もういい。桜谷が好きなんだろ。なら、それでいいんだよ』
その後、君野が何度謝罪のメッセージを送っても、返事はなかった。
「うう……堀田くん……」
泣き疲れた君野は、いつの間にか眠りへ落ちていた。
「あれ?ここ、どこ?」
顔を上げると、見知らぬ通りが広がっていた。
そこは華やかな電気街だった。
ビルの壁にはアニメの女の子が大きく描かれ、夏休み中の通りは若者で賑わっている。
……僕はまた、1人でどこかまで歩いてきてしまったらしい。
隣には大きなゲームセンターがあった。
あいにく、遊べるほどのお金は持っていない。
その上の階へ目を向けると、メイドカフェの看板が掲げられていた。
「……楽しいのかな」
ぼんやりと看板を眺めていた、その時だった。
「あ、君野くんじゃない」
「え?」
雑居ビルの階段から、1人のメイドが降りてきた。
黒い生地を白いレースが縁取った、クラシックで華やかなメイド服。
ふんわりと広がる膝丈のスカートが、軽やかに揺れている。
君野は思わず、その姿へ見とれてしまう。
「……あれ?」
君野は、そのメイドの顔をまじまじと見つめた。
「私よ!美咲!メイド姿に見とれすぎて忘れた?」
「ええっ!?波田さん!?待って、ここでバイトしてるの?」
「バイトじゃないわ。叔父さんのお店なの。店を手伝って、お小遣いをもらって、高級バッグを買おうと思って!」
美咲の口元へ、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「今、人手が足りないから、君野くんも手伝ってよ」
そう言って、君野の腕を引く。
「え?僕が!?」
「衣装も着てさ。これ、可愛いでしょ?頑張ればオーナーからお礼として、1日で5000円もらえるわよ」
「5000円も!?」
昨日の遊園地でお金を使いすぎたのか、財布の中はほとんど空だった。
5000円なら、2か月分の小遣いに相当する。
「5000円……」
小さく呟いた君野の声が、美咲の悪い心をさらに刺激した。
「ゆうじゅに、何かいいものをプレゼントしたくない?自分で働いたお金で渡すプレゼントは、また格別よ!」
美咲が可愛らしく猫のポーズを取った。
なんだか楽しそうだと、君野の心が一瞬揺れる。
いいものをあげたら、機嫌を直してくれるかな……。
たった1日だけだ。
堀田くんのためだし……。
「分かった……。ちょっとだけ」
君野は美咲に腕を引かれ、薄暗い雑居ビルの奥へ入っていった。
その先には、外観からは想像もできないメルヘンな空間が広がっていた。
「お帰りなさいませ!ご主人様!お嬢様!」
2人のメイドが声を揃える。
淡いピンクと白の装飾を、柔らかな照明が温かく照らしていた。
あまりの可愛らしさに、君野は早くも逃げ出したくなった。
店内のあちこちでは、注文の品が運ばれるたび、メイドたちが声を揃える。
「おいしくなーれ、にゃんにゃん♪」
時おり笑い声や歓声が上がるのは、そのおまじないが成功した合図らしい。
なんて異空間なんだろう……。
君野の額に、妙な汗がにじんだ。
「じゃ、メイド服に着替えよっか!」
バックヤードへ入るなり、美咲は更衣室から1着のメイド服を取り出す。
君野はその言葉に、一瞬動きが止まった。
「え? 待って。お皿洗いとかじゃないの?」
「キャストに決まってるでしょ!たった2時間で5000円払うんだから、当然よ」
「えええええっ!?」
今すぐ逃げ出したかった。
だが、美咲は上機嫌で君野の身体へメイド服を当てがっている。
こんな……フリフリを!?
「あ、あの……あの……!」
「可愛い!ねえねえ、見て見て!」
美咲の声に反応し、ほかの女性従業員たちから歓声が上がった。
あれよあれよという間にツインテールのかつらを被せられ、「きみみちゃん」という名前まで与えられる。
「スカート、短いっ!」
君野は思わず裾を下へ引っ張った。
「ちゃんといちごの国の女の子になるのよ!」
美咲はにやにやと笑っている。
もはや逃げられないと悟った君野は、接客のやり方を学ぶことになった。
「じゃあ、きみみちゃん! 次、一緒ににゃんにゃんしに行くよ!」
「に、にゃんにゃん!?」
「さっき習ったでしょ! ほら、馬車馬のように働きなさい!」
美咲はそう、2回手を叩いた。
君野は顔を真っ赤にし、メイドたちと客のテーブルへ向かった。
すでに先輩メイドが、客の希望どおりの絵をオムライスへケチャップで描いている。
「おいしくなーれ、にゃんにゃん!」
先輩メイドの甘い声が店内に響く。
「お、おいしくなーれ……にゃん……にゃん」
君野も後に続いた。
「もっと元気よく!笑顔、笑顔!」
背後から美咲が小声で指導する。
「おいしくなーれ、にゃんにゃん!」
君野は勢いに任せて、どうにかやり切った。
その場にいた客たちから拍手が起こる。
「可愛い!」という声まで、あちこちから飛んできた。
「うん!おいしい魔法が効いてる!」
え? 本当?
嬉しい!
君野の顔にも、思わず笑みが浮かんだ。
午後1時。
「はああ……」
その頃、堀田は大きなあくびをしながら、地元の街を歩いていた。
今日は新しいスニーカーを買うため、ラフな服装で出かけていた。
「もう、わけ分かんねえ……。俺はあいつらのおもちゃなのか?」
頭の中を占めているのは、昨日のデートのことばかりだった。
まるで2人に質の悪い遊びを仕掛けられているようだった。
あれだけの1日を過ごしておきながら、全部忘れたなんて信じられない。
それでも、君野が好きでたまらない気持ちは変わらなかった。
「はあ……」
既読無視したメッセージへ、まだ返事をする気にはなれない。
その時、胸ポケットのスマートフォンがぶるぶると震えた。
画面に表示されたのは、美咲の知り合いが経営しているメイドカフェの番号だった。
連絡先から消すのを忘れていたらしい。
妙な胸騒ぎがして、堀田は電話に出た。
「はろー、ゆうじゅ!ねえ、今、君野くんがメイドカフェにいるのよ!」
「は!?なんでだよ!」
「恥ずかしいからって、前は来たがらなかったでしょ?手土産に甘いものでも買ってきて!」
「おい!君野に何したんだ――」
言い終わる前に、電話は切れた。
君野がメイドカフェ?
なんでだ?
あれほど怒っていたはずなのに、堀田は靴屋を通り過ぎ、そのまま駅へ走り出していた。
「ふふん。これで完璧」
「波田さん、誰に電話してたの?」
休憩室で、君野が美咲へ声をかけた。
「ねえ。次のお客さんが、最後にどっちとチェキを撮りたがるか勝負しない?」
「勝負?」
「それで、負けたらゆうじゅのことを諦めて!」
「僕たち、そもそも付き合ってないよ……」
君野がそう言った瞬間。
「お帰りなさいませ! ご主人様!」
メイドたちの甘い声が店内へ響き渡った。
「そろそろかな!」
足を組んでいた美咲は、嫌な笑みを浮かべながら君野の手を引っ張った。
そして、2人で正面を向いた、その瞬間。
「ひっ!」
君野は悲鳴を上げ、その場から逃げようとした。
しかし、美咲がすぐに肩と腕をがっちりとつかむ。
獲物を捕まえたように、爪を立てて離さない。
「美咲!君野は!?」
「見て見て!この子、新入り!きみみちゃんを紹介したくて!」
堀田は眉をひそめた。
目の前のメイドの胸元には、『きみみちゃん』と書かれたネームプレートがついている。
「誰だ?お前の知り合いか?」
「ほら、きみみちゃん。挨拶して。お金をもらっているんだから、しっかり仕事しなさい!」
美咲に促され、君野は震えながら、ゆっくりと顔を覆っていた手を外した。
「お、お帰りなさいませ……ご主人様……」
「ん?」
堀田は、その顔をじっと見つめた。
美咲がさりげなく君野のかつらを外す。
すると、見慣れた黄色い髪が、ぴょんと跳ねた。
「きみみ……きみ……き、君野!?」
堀田の絶叫が、メイドカフェ中へ響き渡った。
「ご主人様。ほかのご主人様やお嬢様も優雅な時間を楽しんでいますので、店内ではアリさんくらいの声量でお願いしますね?」
美咲が唇へ人差し指を当て、可愛らしく注意した。
堀田は、そのまま席へ案内された。
しかし、注文を取りに来た君野の腕をつかむなり、噛みつくような勢いで言葉をぶつける。
「お前、なんでこんなことしてるんだよ!」
「お、お小遣いが欲しくて……。それで、メイドにならないかって誘われて……」
「どうかしてるだろ!金のために女装までして!見損なったぞ!」
その様子を、美咲は離れた場所から眺めていた。
作戦どおりだと言わんばかりに、くすくすと笑っている。
「う、後ろでにゃんにゃんしてればいいって言われたから……」
「なんだよ、にゃんにゃんって!」
「こ、こう……にゃんにゃん!」
君野がアニメのような声を出し、腰をくねらせながら猫のポーズを取った。
その瞬間、堀田は口をぽかんと開けたまま、言葉を失った。
「ごめん……。ふざけたわけじゃないよ。……堀田くんは、にゃんにゃんって言われるの、好き?」
ダン!
堀田が突然、右の拳でテーブルを叩いた。
また怒らせた。
君野の身体が強張り、店内の視線も一斉に堀田へ集まった。
「ごめんね……。堀田くんに謝りたかったんだ……。それで、お小遣いをもらって、何かいいものを渡したくて……」
「だからって、メイド服を着て働くなんて、どうかしてるだろ!ちょっと考えれば分かるだろ?」
「僕はできるの!」
君野が、泣きそうな顔で叫んだ。
「堀田くんのためなら、こんな恥ずかしい格好だってできる!堀田くんのためなら、僕は何でもする! 何でもできる……!そのためなら、紐のないバンジージャンプだって飛べるもん!」
「君野……」
泣き出しそうなほど必死な顔が、堀田の心を捕らえた。
分かってしまう。
君野の言葉に、嘘はない。
「それくらい……僕……堀田くんのこと、大好きだから……」
「……くうっ……!」
堀田は奥歯を食いしばり、押し潰すような声を漏らした。
分からないことは、まだ山ほどある。
それでも、目の前の奇想天外な天使を見ていると、そんな疑問すらどうでもよくなった。
愛おしさが、全部に勝ってしまう。
ああ、もう駄目だ。
俺は、こいつには勝てない……!
「あの……。の、飲み物を頼むと、メイドさんたちがおいしくなる魔法をかけます……」
君野はどうにか店員へ戻り、そう説明した。
「なあ。それ、お前がやってくれるんだろ?」
「僕が、堀田くんの前で?」
「ご主人様、だろ? じゃあ、アイスコーヒー」
「……はい、ご主人様」
君野は顔を真っ赤にし、メニューを抱えて奥へ引っ込んでいった。
自分の作戦が失敗しているとも知らず、美咲はさらに君野を困らせようとした。
1人でドリンクを運ばせ、そのまま「おいしくなる呪文」まで任せる。
「お、お待たせしました、ご主人様……!」
君野は銀の盆を両手で支え、こぼしそうになりながらコーヒーを運んできた。
堀田はその姿を見て、悪そうな笑みを抑えきれない。
「俺の顔は床にはないぞ。ご主人様に失礼だろ?」
「す、すみません……。コーヒーに、おいしくなる呪文をかけます……。ご主人様も、僕の言ったおまじないに続いて、掛け声をお願いします。いきますよ!」
君野はきゅっと目を閉じた。
意を決して、身体を可愛らしく左右へ揺らす。
堀田も眉をきりっと上げ、恥を捨てた。
「うみゃうみゃ!」
「うみゃうみゃ!」
「みゃんみゃん!」
「みゃんみゃん!」
「おいしいコーヒーに、なーあーれ!」
君野は両手をコーヒーへ差し出し、魔法をかけた。
「これで、おいしくなりましたよ! ご主人様!」
その言葉を聞き、堀田がコーヒーを1口飲む。
「ど、どうですか? 僕の気持ち、いっぱい入りましたか?」
「ああ。バチクソうまい」
「本当!?」
君野が笑う。
堀田も、ようやく肩の力を抜いた。
2人の間に残っていたわだかまりは、もう消えていた。
「なあ。こういう店って、最後にチェキを撮れるんだろ。いくらだ?」
「え?僕と?……うん!いっぱい楽しんでいってね!」
君野は嬉しそうに笑い、店の奥へ戻っていった。
堀田は、可愛らしいメイドの後ろ姿を目で追いながら、コーヒーをもう1口飲んだ。
先ほどのやり取りを頭の中で何度も再生しては巻き戻し、その余韻に浸っていた。




