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第17話「忘れたくても忘れられない」

 

 桜谷さくらたにが1階の自動販売機前へ到着した時には、堀田ほったはすでに君野きみのを抱き締めていた。


 白昼堂々、まるで恋人のように。


「……大暴発(だいぼうはつ)


 桜谷は膝に手をつき、忌々しそうに舌を鳴らした。


 しかし、すぐに止めに入ろうとはしなかった。


 外廊下と中廊下の境目に身を隠し、2人の様子をじっと見守る。


 その時、先ほどゴミ捨てへ向かった男子生徒が、大きなゴミ袋を下げて後ろから歩いてきた。


 中央廊下で堀田がキーホルダーを捨てた光景が、桜谷の脳裏をよぎる。


 次の瞬間。


 桜谷は男子生徒の手から、ゴミ袋をひったくるように奪っていた。


「おっと!?」


 突然ゴミ袋を奪われた男子生徒は、勢い余って前へ倒れかけた。


 慌てて体勢を立て直し、桜谷を見る。


 物陰へ身を隠し、ゴミ袋の結び目を必死にほどいている女子生徒の姿があった。


 男子生徒はしばらく呆然としていたが、やがて何も見なかったことにしたらしい。


 来た道を足早に戻っていった。



 桜谷がようやく袋の口を開くと、もわりと立ち上った悪臭が鼻をつんざいた。


 それでも、ためらうことなくゴミの中へ手を突っ込む。


 紙くずや食べ残しをかき分けるほど、桜谷の笑みは深くなっていった。


「あった!」


 見つけた。


 『兄』キーホルダーだ。


 桜谷はそれを宝物のように目の高さまで掲げ、口元をにたりと歪めた。


「あは……あはは……!」


 この中に、閉じ込めてやる。


 桜谷は近くの水道へ走り、キーホルダーと汚れた腕を念入りに洗った。




 数分経っても、堀田と君野はモニュメントのように抱き合ったままだった。


「堀田くん、苦しいよ……」


「悪い……力を入れすぎたな」


 堀田がようやく腕を緩める。


 少し落ち着いた君野の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。


 堀田はポケットからティッシュを取り出し、君野へ差し出す。


 君野が思い切り鼻をかんだ。


 堀田は使い終わったティッシュを自分のポケットへ押し込み、すぐに新しい1枚を渡した。


「また、仲良くしてくれる……?」


 潤んだ瞳で見上げられ、堀田の心臓が強く鷲づかみにされる。


「もちろんだ!」


 堀田は迷わず答えた。


「兄弟なんてやめたくなるくらい、お前が好きなんだよ!」


「その『好き』は、どういう好きなの?」


「それは……」


 いざ尋ねられると、堀田の勢いが止まった。


「たとえば、男と女がするような……キ、キスをするような……」


 脳裏に、【棒チョコ不可抗力キス事件】がよみがえる。


 思い出しただけで全身が熱くなり、頭の中がぐちゃぐちゃになった。


「お前と、ほら……前に口移しで、お菓子を食ってた時みたいなやつとか……」


「お菓子?」


 君野は不思議そうに首を傾げた。


「そんなこと、あったっけ……」


「俺とキスしたこと、忘れたのか!?」


「あ……桜谷さんのお土産の棒チョコのこと?」


「俺は、もっとああいうことがしたい!」


 言った。


 言ってしまった。


 しまった……!


 気持ち悪ッ!


 俺、超気持ち悪い!


「……君野!」


 内心で悶絶する自分を押し殺し、堀田は震える声で君野の名前を呼んだ。


 ――触れたい。


 押さえ込んでいた気持ちが、胸の奥で一気に膨らんでいく。


 あの時のように。


 今度は、もっと自然に。


 堀田は君野の唇へ視線を落とした。


 君野は逃げない。


 堀田はゆっくりと、顔を近づけていく。


 あと少しで、唇が触れる。


 その時だった。



「堀田くん。大事な物、見つかったわ」


「!」


 2人の唇が触れる寸前で、堀田は振り返った。


 真後ろには、『兄』キーホルダーを切り札のように掲げた桜谷が立っていた。


 口元には、隠す気もない笑みが浮かんでいる。


「それ、どうしたんだよ……!」


「これ、君野くんとの大事な物でしょう?」


 桜谷はキーホルダーを軽く揺らした。


「落としたら駄目じゃない」


「いや、違うんだ、桜谷」


「いいのよ」


 桜谷は堀田の言葉を遮る。


「ねえ、堀田くんは君野くんの公式お兄ちゃんだもの」


 堀田の制止など、最初から聞く気はないようだった。


 桜谷は突然、君野の二の腕をがっしりとつかむ。


 そのまま額が触れそうなほど顔を近づけ、同意を迫った。


「そうでしょう、君野くん?」


「え……」


 君野はその圧に押され、首を縦に振るしかなかった。


「堀田くんって、詐欺師なの?」


「さ、詐欺師!?」


「自分の寂しさを埋めるために、『弟』なんて言葉で近づいただけ」


 桜谷は冷たく言い放つ。


「相手の気持ちをごまかして、自分にとって都合のいい居場所を作っている。美咲さんと同じね」


「ち、違う……」


「違わないわ」


 桜谷は間髪を入れずに続けた。


「関係に名前をつけて、逃げているだけ。責任も取らず、曖昧な立場のまま触れてる」


 吐き捨てるような声だった。


「君野くんを、自分の寂しさと欲を埋める道具にしているのよ」


「あのな……」


「最低ね」


 桜谷は目を細める。


「本当に気持ち悪い」


「いや……」


「変態詐欺師」


 その言葉に、堀田は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。


 口を開けたまま固まる堀田へ、桜谷は今度は子どもを諭す母親のような目を向ける。


「肝に銘じるのよ、堀田くん」


 『兄』キーホルダーを、堀田の手へ押しつけた。


「満月の夜にまたケダモノになっても、これがあれば大丈夫」


 そして、その手を両手でぎゅっと包み込む。


「絶対に離してはいけないわ」


 俺は、君野にビンタしたこいつより、ひどいことをしているのか……?


 君野も何も言わず、俯いていた。


 その場の空気は最悪だった。


「戻りましょう。次は移動授業よ」


 桜谷はそう言って、手を2度叩く。


 そのまま悠然と歩き去っていった。


 堀田には、その背中が、敵将の首を持ち帰る将軍のように見えた。




 放課後。


 堀田は体育館の隅へ座り、バスケ部の試合をぼんやりと眺めていた。


「俺の気持ちは……兄弟愛の暴走だったのか?」


 朝のニュースで見た、弱い相手へつけ込む男の事件が頭をよぎる。


 俺も、あんな奴らと同じなのか。


「変態……詐欺師……」


 ビ――――ッ!


 けたたましいブザー音が鳴り響いた。


 目の前のコートでは、勝利したチームがハイタッチを交わして喜んでいる。


 似たような光景が、記憶の奥からよみがえった。


 堀田の目から、1筋の涙がすっと流れる。


 この涙は、何なんだろう。


 悔しいのか。


 悲しいのか。


 それとも、ただ怖いのか。


 堀田は『兄』キーホルダーを強く握り締めた。


 どうしたらいい。


 俺は――。


 これを、またつけるべきなのか。


 夕暮れが校舎を赤く染める中、周囲の喧騒だけが遠ざかっていった。





 次の日。


 火曜日の朝、堀田ほった君野きみのは下駄箱の前で鉢合わせた。


「おはよう! 堀田くん!」


「お、おう。おはよう。桜谷さくらたには?」


「さっき先生に呼ばれていったよ。今日の朝の放送で標語の受賞インタビューをするって言われて、連れていかれちゃった」


「そうなのか」


 堀田は君野のリュックへ目を向けた。


 そこには、まだ『弟』キーホルダーがついている。


「なあ、君野。あのさ……」


「あれ? 『兄』キーホルダーは!? もしかして、落としちゃったの?」


「え? いや、落としてはない。ほら」


 堀田はズボンのポケットから『兄』キーホルダーを取り出した。


 相当迷った末に、今日もつけられず、ポケットへ入れてきたのだ。


「なんでつけてないの? 壊れちゃった?」


「いや……昨日、あんなことがあったからさ。申し訳ないっていうか……」


「昨日って、何?」


「はあああああ!!?」


 間の抜けた大声が下駄箱に響き、周囲の生徒たちが一斉に振り返った。


「ま、マジで言ってんの……?」


「マジだよ~」


 君野はにこにこと笑っている。


 まるで時間が数日前へ巻き戻ったようだった。


 あれほど悩んでいたことが、あっけなく消えてしまう。


 堀田は深く息を吐いた。


 またやり直せる。


 そう安堵する一方で、その忘却につけ込みたい自分もいた。


「あ、そうだ! 僕、トイレに行きたかったんだ! 行ってくる!」


「あ、おい!」


 君野は慌ただしく男子トイレへ走っていった。


「……なんだ。また記憶が飛んだのか……」


 でも、これは本当に喜んでいいことなのか?


「堀田くーん! ねえ、何してるのー?」


「げっ!」


 君野をトイレの入口で待とうとした、その時だった。


 美咲みさきと取り巻きたちに囲まれ、堀田はその場で足止めされてしまう。




「ぐすっ……ううっ……」


 その頃、男子トイレの個室から、すすり泣く声が漏れていた。


 君野はリュックを抱えたまま、便器の前へしゃがみ込み、小さく肩を震わせている。


「……これでいいんだ」


 昨日のことを、忘れたふりをした。


 そうしなければ、彼の前で普通に笑えないと思ったからだ。


 「どうして……」


 堀田くんを好きになると、こんなにも罪悪感でいっぱいになるんだろう。


 君野はリュックについた『弟』キーホルダーをぎゅっと握り締めた。


 細い指が、小さく震える。


「大好きだよ……堀田くん……」


 壁へ寄りかかったまま、君野は誰にも聞こえないよう声を殺して泣き続けた。



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