6話 守るべきもの
平日の午後。
昼休みが終わった校舎には、授業を受ける生徒たちの声が響いていた。
コツ、コツ、と規則正しく鳴る革靴の音。
案内する教頭先生の後ろを、充と百合が静かに歩いていく。
廊下の窓からは、校庭で体育の授業を受ける生徒たちの姿が見えた。
楽しそうな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
本来であれば、千尋もあの中にいるはずだった。
そう思うと、百合は胸の奥が締め付けられるような思いだった。
隣を歩く充も、表情こそ変わらないものの、その拳は静かに握り締められている。
「……こちらです」
教頭先生が足を止めた先には、『校長室』と書かれたプレートが掲げられていた。
コンコン。
教頭先生が静かに扉をノックする。
「失礼します。保護者の方がお見えになりました」
「どうぞ、お入りください」
部屋の中から落ち着いた声が返ってくる。
教頭先生が扉を開けると、校長をはじめ、担任の佐藤先生、生徒指導主事の山本先生がすでに席について待っていた。
4人の表情は、どこか硬い。
「本日は貴重なお時間をいただきありがとうございます」
充は一礼する。
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
校長も静かに頭を下げた。
「どうぞ、お掛けください」
勧められるまま、充と百合は向かい合うソファへ腰を下ろす。
教頭先生も2人の隣へ座り、校長室には重苦しい静寂が流れた。
机の上には人数分のお茶が用意されていたが、誰1人として手を伸ばそうとはしない。
しばらくの沈黙の後、校長がゆっくりと口を開く。
「本日は、お時間をいただいたにもかかわらず、このような形でお会いすることとなり、大変申し訳ございません。」
校長は深く頭を下げる。
それに続き、担任の佐藤先生、生徒指導主事の山本先生、教頭先生も頭を下げた。
「まずは今回の件につきまして、学校として確認した事実と、今後の対応についてご説明させていただきます。」
そう言うと、校長は目配せをし、山本先生が数枚の紙を机の上に置く。
「今回の件につきましては、担任からの報告を受けた後、生徒指導部を中心に事実確認を行いました。」
山本先生は資料を開き、静かに話し始める。
「千尋さんへの聞き取りに加え、クラスメイト18名への個別聞き取り、担任への聞き取り、そして保護者の皆様からご提供いただいた資料を確認しております。」
充と百合は黙って頷いた。
「その結果、千尋さんに対する継続的ないじめ行為があったことを、学校として確認いたしました。」
校長室に重い沈黙が流れる。
山本先生は言葉を選ぶように一呼吸置き、続けた。
「内容は、容姿をからかう発言や人格を否定する言動、それらを複数人で繰り返す行為です。また、一部につきましてはSNS上での書き込みも確認しております。」
資料には日時や概要が整理されている。
どれも見過ごすことのできない内容だった。
「……」
充は資料へ視線を落としたまま、静かに拳を握る。
その隣で、百合も唇をきつく結んでいた。
山本先生は2人の様子を見ながら、申し訳なさそうに頭を下げる。
「学校として、このような状況を早い段階で把握し、対応できなかったことを深く反省しております。」
山本先生の説明が終わると、充は静かに資料を閉じた。
校長室には、しばらく誰も口を開かない時間が流れる。
やがて充がゆっくりと口を開いた。
「学校側が事実を確認してくださったことには感謝しております。」
「ですが、一点だけ先にお伝えしておきたいことがあります。」
校長たちは真剣な表情で充を見つめる。
「今回の件は、息子が長期間にわたって精神的な苦痛を受けた事案だと、私たちは認識しております。」
一呼吸置き、充は続ける。
「内容次第では、警察への相談、あるいは被害届の提出も視野に入れております。」
その一言に、校長室の空気がさらに張り詰める。
担任の佐藤先生は思わず息をのみ、生徒指導主事の山本先生も表情を引き締めた。
しかし、充の口調に怒気はなかった。
「誤解しないでいただきたいのですが、私は加害生徒を罰したい一心で申し上げているわけではありません。」
「親として、息子を守るために取り得る手段を検討している。それだけです。」
百合も静かに頷く。
「もし学校だけで解決できるのであれば、それが一番です。」
「ですが、それが難しいのであれば、私たちは別の方法も考えなければなりません。」
「「……」」
校長室を重苦しい沈黙が包む。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
校長は静かに目を閉じ、一度深く息を吐く。
その隣では、担任の佐藤先生が申し訳なさそうに視線を落とし、生徒指導主事の山本先生も表情を引き締めていた。
やがて校長がゆっくりと口を開く。
「お気持ちは、ごもっともです。」
「お子様を守るために、そのようなお考えに至るのは当然のことだと、私どもも受け止めております。」
校長は一度言葉を切り、充と百合を真っ直ぐ見つめる。
「だからこそ、本日は私どもの対応について包み隠さずお話しし、ご判断いただきたいと考えております。」
校長は再び山本先生へ視線を向けた。
「山本先生、現時点での対応についてお願いします。」
「承知しました。」
山本先生は資料を1枚めくり、落ち着いた口調で説明を始める。
「まず、千尋さんへの加害行為が確認された生徒につきましては、全員に個別で事情聴取を行いました。」
「また、本日中に加害生徒の保護者へ連絡を行い、順次面談を実施する予定です。」
充と百合は黙って耳を傾ける。
「現時点では、関係生徒に対し、千尋さんへの接触を一切禁止しております。」
「加えて、クラス全体の再調査を進めており、同様の被害を受けている生徒がいないかについても確認を行っております。」
山本先生は一度資料を閉じ、2人へ向き直った。
「今回の件は、生徒間のトラブルとして処理するつもりはありません。」
「継続的ないじめ事案として学校全体で対応し、再発防止も含めて取り組んでまいります。」
校長が静かに言葉を引き継ぐ。
「また、このあと臨時の職員会議を開き、教職員全体で情報を共有いたします。」
「今回の件を一部の教員だけの問題とせず、学校全体の問題として対応する方針です。」
「さらに、教育委員会へも本件を報告し、ご指導を仰ぐ予定としております。」
その言葉を最後に、再び重苦しい沈黙が訪れた。
百合は静かに資料を机へ置いた。
「お話は分かりました。」
その声は穏やかだった。
だが、その瞳は真っ直ぐ校長たちを見据えている。
「ですが、一つ気になることがあります。」
校長が静かに頷く。
「はい。」
「ここまでのお話を伺っていて、加害生徒への対応については理解いたしました。」
百合は一度言葉を区切る。
「ですが――」
「千尋についてのお話が、一つもありませんでした。」
校長室に静寂が落ちる。
百合は穏やかな口調のまま続けた。
「私たちが一番知りたいのは、加害生徒をどうするかではありません。」
「息子が、これから安心して学校へ通えるのか。」
「学校は、そのために何をしてくださるのでしょうか。」
その一言に、校長たちは言葉を失った。
校長は静かに目を伏せた。
「……ご指摘のとおりです。」
短い言葉だった。
しかし、その一言には自らの至らなさを認める重みがあった。
「私どもは、加害生徒への対応を優先してご説明してしまいました。」
「ですが、本来最も優先すべきは、千尋さんご本人の安全と安心です。」
校長は真っ直ぐ充と百合を見つめる。
「大変申し訳ございません。」
再び深く頭を下げた。
山本先生も資料を開き直し、口を開く。
「千尋さんへの対応につきましては、本人の意思を最優先に進めたいと考えております。」
「現時点では無理に登校を促すことはいたしません。」
「心身の状態が落ち着くまでは、ご家庭と連携を取りながら学習面の支援も行います。」
担任の佐藤先生も続ける。
「プリントや課題は私が責任を持ってお届けします。必要であればオンラインで学習のフォローも行います。」
山本先生は続けた。
「また、千尋さんが登校を希望された際には、教職員が校内での見守りを行います。」
「状況によっては別室で過ごせる環境も準備いたします。」
「クラスで過ごすことに不安がある場合には、段階的な復帰方法も含めて、ご本人と相談しながら進めていく予定です。」
充は静かに頷いた。
「ありがとうございます。」
「そのようなお考えを伺えたことは安心いたしました。」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「ですが、一つ確認させてください。」
「はい。」
校長が頷く。
「今お話しいただいた内容は、学校としてのご提案ですよね。」
「では――」
「千尋本人の意思は、どのように確認される予定でしょうか。」
校長たちは互いに視線を交わした。
充は続ける。
「息子は、今は学校そのものに恐怖を感じています。」
「私たち親が『行きなさい』と言うことも、学校が『戻ってきてください』と言うことも、今は簡単にはできません。」
「だからこそ、本人が『もう一度学校へ行ってみよう』と思える環境を作ることが何より重要だと考えています。」
百合も優しく言葉を添えた。
「私たちは、無理に復学させたいわけではありません。」
「千尋が安心して『行ける』と思える日まで、一緒に寄り添っていただけますか。」
校長はゆっくりと頭を下げた。
「必ず、千尋さんが安心して学校生活を送れる環境を整えます。」
「どうか、私どもにもその機会をいただけないでしょうか。」
充と百合は顔を見合わせる。
そして充が静かに口を開いた。
「……分かりました。」
「私たちも、学校を信じたいと思います。」
百合も小さく頷く。
「ですが、一つだけ約束してください。」
校長たちは真っ直ぐ2人を見つめる
「もう二度と、あの子が『自分が悪い』と思うようなことだけは、絶対にさせないでください。」
校長は力強く頷いた。
「お約束いたします。」
それ以上の言葉はなかった。
校長室を後にした充と百合は、静かな廊下を並んで歩く。
窓の外では、授業を終えた生徒たちの笑い声が響いていた。
百合はぽつりと呟く。
「……あの子、頑張りすぎちゃったのね。」
充は歩みを止めることなく、小さく答えた。
「ああ。」
「だから今度は、俺たち大人が頑張る番だ。」
百合は夫の横顔を見つめ、静かに頷いた。
「あの子は、1人じゃないもの。」
夕日が長い廊下を茜色に染めていく。
その光の先には、まだ多くの課題が待っている。
それでも2人の心に迷いはなかった。
どんなことがあっても、今度は親である自分たちが、必ず千尋を守り抜く。
その決意だけは、誰にも揺るがされることはなかった。




