5話 なりたい私
平日の昼下がり。
本来であれば、今頃は学校で昼休みを過ごしている時間だ。
中庭の隅で、誰とも話すことなく1人でお弁当を食べ、ゆっくりと時間を過ごしていたはず。
だけど今日は違う。
『今日は学校を休みなさい』
お父さんが、そう言ってくれたからだ。
リビングには静かな時間だけが流れていた。
テレビもついていない。
聞こえてくるのは、壁掛け時計の針が時を刻む音だけ。
ソファに腰掛けたまま、僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。
今頃、お父さんとお母さんは学校で先生と話をしているはずだ。
どんな話になっているんだろう。
先生は、ちゃんと話を聞いてくれるのかな。
これから僕は、学校へ戻れるんだろうか。
クラスのみんなは、どんな顔をするんだろう。
考えれば考えるほど、不安ばかりが頭をよぎる。
「……はぁ」
小さく息を吐いた、その時だった。
「千尋ー!」
2階から聞き慣れた声が聞こえてくる。
「暇だったらちょっとおいでー!」
真由お姉ちゃんだ。
少しだけ緊張していた心が、不思議と軽くなる。
「う、うん!」
返事をして立ち上がると、僕は2階へ向かった。
今日は学校を休んでいる。
だけど、家族は誰1人として僕を責めなかった。
むしろ、僕のために動いてくれている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
コンコン。
「お姉ちゃん、入るよ」
「どうぞー!」
扉を開けると、柔らかな昼の日差しが差し込む真由姉ちゃんの部屋が、僕を迎えてくれた。
「そこのソファに座っていいよ!」
そう言われ、僕は紫色のビーズクッションに腰を下ろす。
ゆっくりと身体が沈み込み、まるで自分の体に合わせて形を変えていくようだ。
その優しい柔らかさは、不安で張り詰めていた心まで包み込んでくれるような気がした。
「ふふっ」
僕を見た真由姉ちゃんが、小さく笑みをこぼした。
「どう?」
「え?」
「座り心地」
「……すごく気持ちいい」
身体を少し動かすたびに、ビーズクッションがゆっくりと形を変えて僕を支えてくれる。
「でしょ?」
真由姉ちゃんはどこか得意げに笑う。
「仕事で煮詰まったときは、いつもここで休憩してるんだ」
「だから"人をダメにするクッション"って呼んでる」
「確かに……」
思わず苦笑いが漏れる。
このまま寝転がったら、本当に動けなくなってしまいそうだ。
「これ最近買ったんだけど、お気に入りなんだー!」
「そうなんだ」
「危険だよ?」
「危険?」
「うん。一度座ると立ちたくなくなるから」
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
確かに、この座り心地なら納得だ。
部屋には穏やかな空気が流れ、さっきまで胸の中を占めていた不安も、少しずつ薄れていく。
そんな僕を見て、真由姉ちゃんは満足そうに頷いた。
「よしっ」
そう言うと、デスクチェアへ座り直し、パソコンと液晶ペンタブレットの電源を入れる。
モニターには真っ白なキャンバスが表示され、真由姉ちゃんはペンを手に取った。
その姿は、さっきまでのお姉ちゃんではなく、仕事中のイラストレーターそのものだった。
「じゃあ、本題に入ろっか」
「う、うん」
少しだけ背筋を伸ばす。
真由姉ちゃんは優しく微笑みながら僕を見つめる。
「千尋がどんなVTuberになりたいのか、一緒に考えていこう」
「イメージでもいいし、『こんな雰囲気が好き』でも大丈夫」
「私が全部形にしてみせるから」
その言葉に、不思議と「大丈夫かもしれない」という気持ちが湧いてくる。
真由姉ちゃんはペン先をキャンバスに軽く添えた。
「じゃあ最初の質問」
「千尋は、どんな女の子になってみたい?」
突然の質問に、思わず言葉を失う。
「えっと……」
頭の中で考えてみる。
でも、すぐには答えが出てこなかった。
「ご、ごめん……」
「全然思い浮かばなくて……」
すると真由姉ちゃんは優しく笑った。
「謝らなくていいよ」
「むしろ、それが普通だから」
「え?」
「イラストを依頼してくる人でも、『こんな感じで!』って最初から全部決まってる人なんてほとんどいないよ」
そう言いながら、真由姉ちゃんはペンをくるりと回す。
「だから、私たちは質問しながらイメージを形にしていくの」
「好きなもの、可愛いと思うもの、憧れているもの――そういうのを少しずつ集めていけば、自然とその人だけのデザインになっていくんだよ」
「そういうものなんだ……」
「そういうもの」
真由姉ちゃんは笑顔のまま頷く。
「だから安心して」
「正解なんてないから」
その言葉を聞いて、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
「じゃあ、本当に簡単なところから聞くね」
真由姉ちゃんは真っ白なキャンバスに丸を1つ描いた。
「千尋は、可愛い女の子と綺麗な女の子だったら、どっちが好き?」
「えっ?」
「自分がなるなら、どっちを目指したい?」
そう聞かれて、僕は少しだけ考え込む。
テレビや動画で見た女の子たちの姿が、頭の中に次々と浮かんでは消えていく。
「僕は……」
僕は小さく息を吸い込み、ゆっくりと答えた。
「可愛い女の子......かな」
「OKー!」
真由姉ちゃんはそう言うと、液晶ペンタブレットの上をペンが軽快に走り始めた。
真っ白だったキャンバスに、丸や線が少しずつ増えていく。
「じゃあ次!」
「う、うん」
「その"可愛い"って、千尋の中ではどんなイメージ?」
「イメージ?」
「そうそう」
真由姉ちゃんは僕の方を見て笑う。
「人によって"可愛い"って全然違うからね」
「小動物みたいな可愛さを想像する人もいれば、お姫様みたいな可愛さを思い浮かべる人もいるし」
「アイドルみたいな可愛さって人もいる」
「なるほど……」
確かに、一言で可愛いと言ってもいろいろある。
「例えば、芸能人でもアニメでもVTuberでもいいよ」
「『この子かわいいな』って思った子とかいる?」
突然そう聞かれ、頭の中に何人かの姿が浮かぶ。
「えっと……」
僕は少し考えながら口を開いた。
「優しそうで……」
「見てると自然と笑顔になれるような子、かな」
その言葉を聞いた真由姉ちゃんは、嬉しそうに微笑んだ。
「うん、その一言だけでも十分なヒントだよ」
さらさらとペンが走り、キャンバスの上に描かれたラフの輪郭が少しずつ形になっていく。
「じゃあ最後に、モチーフにしたいものとか"こういうのがいい"っていうのはある?」
「モチーフ……」
僕は少し考え込む。
動物や花。
宝石や星。
いろいろ頭に浮かぶけど、どれもしっくりこない。
「うーん……」
真由姉ちゃんは急かすことなく、僕が答えるのを待ってくれていた。
ふと、机の上に置かれた液晶ペンタブレットへ視線が向く。
真っ白なキャンバス。
その白さを見ているうちに、ある景色が頭に浮かんだ。
静かに降り積もる雪。
どこまでも白くて、澄んだ景色。
「……雪、かな」
その言葉を聞いた真由姉ちゃんの目が少しだけ輝く。
「雪?」
「うん。なんとなくだけど……白くて、ふわっとした感じが好きなんだ」
「なるほどね」
真由姉ちゃんは嬉しそうに頷き、ペンを走らせる。
「それ、すごくいいヒントかも」
真由姉ちゃんのペンが止まることなく走り続ける。
「雪って聞くと、冷たいイメージを持つ人もいるけど、私は違うんだよね」
「違うの?」
「うん」
真由姉ちゃんはモニターへ視線を向けたまま頷く。
「静かに降ってきて、町全体を真っ白に包み込むでしょ?」
「嫌なものも、悲しいことも、一度だけ隠してくれるような……そんな優しさがあると思うんだ」
「……」
その言葉を聞いて、自然と雪景色が頭に浮かぶ。
冬休みに家族みんなで眺めた雪。
音まで吸い込まれたような静かな朝。
白く染まった景色は、どこか安心できるものだった。
「確かに……」
「それに千尋のイメージにも合ってる気がする」
「えっ?」
思わず聞き返す。
「優しくて、人を傷つけるより、自分が我慢しちゃうタイプ。」
「そんな千尋だからこそ、雪みたいな優しい雰囲気が似合うと思うんだ」
思いもよらない言葉に、少しだけ照れくさくなる。
「そ、そんなことないよ……」
「あるある」
真由姉ちゃんは笑いながら、さらさらとペンを動かす。
「大体イメージは固まったし、あとは完成してからのお楽しみね」
そう言って、真由姉ちゃんは意地悪そうな笑みを浮かべた。
「えぇー……」
思わず頬を膨らませる。
「そんな可愛い顔したってダメー!」
「ちょっとだけ!」
「ダメー!」
「ラフだけでも!」
「それもダメー!」
真由姉ちゃんはくるりと液晶ペンタブレットを自分の方へ向け、画面を見えないように隠してしまう。
「あっ!」
思わず身を乗り出すけど、時すでに遅し。
「完成するまでのお楽しみ!」
「絶対その方が感動するから!」
「むぅ……」
納得できずに唇を尖らせると、真由姉ちゃんは楽しそうに笑った。
「その顔、本当に可愛いね」
「からかわないでよ……」
「ごめんごめん。でも、その反応が面白くて」
悪びれる様子もなく笑う真由姉ちゃんを見ていると、僕までつられて笑ってしまう。
さっきまで胸を締め付けていた不安は、いつの間にかどこかへ消えていた。
「じゃあ私は仕上げに入るから」
「完成したら呼ぶね」
「うん!」
真由姉ちゃんは再びモニターへ向き直り、ペンを走らせ始める。
その横顔は、いつもの優しいお姉ちゃんではなく、仕事に集中するプロのイラストレーターそのものだった。
邪魔をしないよう、僕は静かに立ち上がる。
部屋を出る直前、もう一度だけ振り返った。
真っ白だったキャンバスには、いつの間にか少女の輪郭が描かれ始めていた。
その姿はまだ完成していない。
だけど、不思議と胸が高鳴った。
どんな子が生まれるんだろう。
その答えを知る日が、今から待ち遠しかった。




