第9話 原付
真帆が帰った翌日の夜。
葵は一人で庭に出て、空を見上げていた。静かな住宅街。共犯者がいた時間と、一人に戻った時間。身体がまだ覚えている。公園の滑り台の金属の冷たさ。臀部が剥がれるときのキュッという音。真帆の声。
一人に戻ると、感覚の密度が上がる。会話がない分、肌が拾う情報が鮮明になる。
庭のフェンス越しに、駐車場が見えた。父の車が停めてある。その横に——弟の原付。
陸の原付バイク。十六歳の誕生日に免許を取って、中古で買ったホンダのスーパーカブ。バイトの移動に使っている。鍵は——玄関の鍵掛けに他の鍵と一緒にぶら下がっている。
葵も免許は持っている。大学に入る直前、春休みに取った。実家にいたとき、陸のカブを何度か借りて近所を走ったことがある。操作は覚えている。
原付で——。
その発想が浮かんだ瞬間、頭の中で何かがスパークした。
歩く速度の裸と、走る速度の裸は別物だった。原付の速度は——約三十キロ。
やめておけ。
理性が警告する。歩くのとは危険の次元が違う。原付は公道を走る。事故を起こしたら。停車を求められたら。
やめておけ。
三日間、やめておいた。
四日目の夜。午前二時。
玄関の鍵掛けから、私は裸で原付の鍵を取った。
門を出る。駐車場で、原付の横に立つ。ヘルメットは——シート下の収納に入っている。取り出して被ると、ヘルメットの内装が頭に密着する。あごひもを締める。
裸でヘルメットだけ被っている。
その姿を客観的に想像して、一瞬だけ笑いそうになった。頭だけ守って身体は全部むき出し。安全意識の偏りが著しい。
鍵を差す。エンジンはここではかけない。家族に聞こえないように、駐車場から十分離れてからかける。キュルル、とセルモーターが回り、エンジンが目覚める。排気音が住宅街に響く。小さな音だが、深夜の静寂の中では大きく聞こえる。
サドルに座った。
合皮のシートが裸の臀部に直接触れる。ひんやりしていて、夜露で少し湿っている。太ももの内側がシートの両サイドに密着する。
アクセルを回して動き出す。
——風が、来た。
歩くときの風とも、走るときの風とも、まるで違った。
原付が加速する。十キロ、二十キロ、三十キロ。住宅街の道路を走る。何も纏わぬ肌にとっては——暴風だった。
全身に正面から風が当たっている。その風が、何も遮るもののない身体の全面に衝突している。
胸に風が当たる。胸のふくらみが風を受けて、その表面を風が上下に分かれて流れていく。腹に風が当たる。腹の曲面が風を受けて、臍のくぼみに乱流が生まれている。
腕はハンドルを握っている。風が腕の内側を通り抜けていく。脇の下に風が入り込む。普段は閉じている場所に風が流れ込んでいく。
全身の産毛が——倒されている。
歩くときの産毛は風の方向を教えてくれた。走るときの産毛は風圧で肌に張りついた。原付の速度の風は、産毛を完全に押し倒している。毛の存在がわからないほど、風が肌を制圧していた。
角を曲がった。住宅街を抜けて、少し広い道に出る。車通りのない深夜の片側一車線。街灯が等間隔に並んでいる。
街灯の下を通過するたびに、素肌がオレンジ色の光に照らされる。歩くときとは残像の長さが違う。光の中を通過すると、一瞬だけ照らされて、すぐに暗闇に戻る。明滅。裸の身体がストロボのように光っては消えていく。
カーブがある。裸の身体が遠心力を受ける。胸が、腹が、外側に引っ張られる。太ももがシートを挟み込む。臀部がシートの上で滑りそうになる。汗で合皮がぬるっとしている。
直線に戻って、加速する。
開放感が——爆発していた。
自分が風そのものになっている。胸が。腹が。太ももが。それぞれの形状に応じて風が流れ、乱れ、渦を巻いている。それは——速度が上がるほど大きくなる。
住宅街の南側の坂を下っていく。丘陵から平地に向かって緩やかに下る道。エンジンを切って、惰性で下る。エンジン音が消えると、風の音だけが残る。
風が耳元を通過していく音。自分の身体が風切り音を出している。
小さな橋を渡る。橋の上は風の吹き方が変わる。河川敷からの上昇気流が裸の身体の下側を掬い上げる。臀部の下から風が入り込む。太ももの内側を風が通り抜ける。
信号がある。赤だ。
止まった。
エンジンのアイドリングの振動が、シートを通じて臀部に伝わっている。低い振動。裸の身体がバイクの心臓の鼓動を直接感じている。
信号待ちの間、ふと横を見た。
店のシャッターに自分が映っている。金属のシャッターに、ぼんやりとした反射。ヘルメットを被った、裸の人間。原付にまたがっている。
信号が青に変わった。発進する。
住宅街に戻る帰り道。角を曲がって、自宅の前の通りに入る。
家の門が見えた。
原付を停めてエンジンを切る。静寂が戻る。
駐車場に原付を入れて、シートから降りる。臀部がシートから剥がれるとき——滑り台のときと同じような音がした。合皮に汗で張りついた肌が剥がれる音。
ヘルメットを外す。髪が湿っている。ヘルメットの中は暑かった。頭だけが汗だくで、身体は風で乾いている。頭と身体の温度差。
鍵掛けに原付の鍵を戻す。
二階に上がって、自室に倒れ込んだ。
身体が——まだ風を覚えている。全身に当たった風。体のそれぞれの場所で風の記憶が残っている。肌の表面が、まだ風が通過した道筋を覚えている。
スマホが光った。真帆からのメッセージ。
『今週の土曜ね! コンビニ作戦の準備してるからね!!! 』
返信を打とうとして、やめた。今夜のことは真帆にも言えない。原付は——さすがに度を越えている。公道で裸で運転。免許不携帯以前の問題だ。いや、全部以前の問題なのだが。
——ちなみに免許証は、裸にはポケットがないのでどこにも持っていなかった。検問に遭ったらどうするつもりだったのか。「免許証を忘れました」の前に「服を忘れました」の説明が必要になる。
裸に免許不携帯。交通違反の切符を切る前に、警官が状況の異常さに対処しなければならない。想像するだけで胃が縮む。が、今さら考えても仕方ない。
枕に顔を埋めた。
原付の振動がまだ身体に残っている。低い振動。走行中の細かい振動。路面の凹凸がサスペンションを通じて伝わってくる振動。すべてを、裸の身体が直接受け止めていた。
もう一度やるか——と考えて、首を横に振った。一回だけだ。一回で十分だ。あの感覚を知れた。それでいい。
原付の鍵は、もう借りない。
——たぶん。
目を閉じた。風の記憶が、まだ肌の上を流れていた。




