第10話 午前三時のコンビニ
真帆の「作戦会議」は、本物の作戦会議だった。
土曜日、真帆が再び泊まりに来た。母が「真帆ちゃんまた来てくれたの、嬉しいわ」と喜び、弟が「また来たの」と素っ気なく言い、夕食後に二人で葵の部屋にこもった。
真帆がバッグからノートを取り出した。大学の講義用のノート。表紙にマスキングテープで「極秘」と貼ってある。
「何それ」
「作戦ノート。ルートを下見してきた」
「……は?」
「今日の昼間、あんたの家からコンビニまで歩いた。タイム計った。ルートは、二パターン」
ノートを開くと、手描きの地図があった。葵の家を起点にして、駅前のコンビニまでのルートが二本の線で描かれている。赤い線と青い線。
「赤ルートは住宅街の中を通る。距離は長いけど街灯が少ないから暗い。約900メートル、徒歩十二分。青ルートは途中から大通りに出る。距離は短いけど街灯が多い。約800メートル、徒歩十分」
「真帆……いつの間に」
「お昼ご飯のあとに散歩してくるって言って出てったでしょ。あれ」
言われてみれば、昼過ぎに真帆が一人で出かけていた。散歩にしては長いとは思ったが、まさかルートの下見をしていたとは。
「街灯の位置にチェック入れてある。あと、ここ——」赤い線の途中に×印が打ってある。「自販機。光ってるから注意。ここにも×。マンション入口のセンサーライト。人が通ると点く」
「本格的すぎない?」
「こういうの好きなの」
真帆の目が輝いている。計画を立てることそのものが楽しいのだ。実行のスリルとは別の、知的な興奮。
「あと、気温と風向き」真帆がスマホで天気予報を見せる。「今夜は曇り。気温二十四度。南風。湿度八十パーセント。雲が多いから月明かりは期待できない。つまり暗い。好条件」
「真帆」
「何」
「……ありがとう」
「お礼は成功してから」
二人で赤ルートを採用することに決めた。距離は長いが、暗い方がいい。大通りに出る青ルートは、車のヘッドライトに照らされるリスクが高すぎる。
出発は午前三時。家族の睡眠が最も深い時間帯。帰着は三時三十分を目標。三十分以内に往復する。
「服装は——あんたは裸でしょ。私は黒」
「黒?」
「サポート班だから。目立たない方がいい。黒いパーカーに黒のスウェット。ほぼ忍者」
「サポート班って何なの本当に」
「先行偵察・見張り・緊急時の囮。あと荷物持ち」
「荷物?」
「あんた手ぶらでしょ。財布もスマホも持てないでしょ。万が一のために私が持っておく」
確かに——裸にはポケットがない。今までは手ぶらで出ていた。何かあったときに連絡する手段も、身分を証明するものもない。真帆がいれば少なくともスマホは確保できる。
「あ、そうだ。もし途中で逃げなきゃいけなくなったときのために——」真帆がバッグから黒いビニール袋を出した。「これ被って」
「ゴミ袋じゃん」
「緊急用の服だよ。頭から被れば最低限——」
「ゴミ袋を緊急用の服とは呼ばない」
「じゃあ『緊急時の装い』。響きが上品になった」
「ならない」
結局、ゴミ袋は真帆のバッグの中に「保険」として入れておくことになった。使わないことを祈りながら。
計画が固まった。
あとは——実行するだけ。
◆
午前三時——。
葵の部屋の中で、二人は無言で準備をしていた。
真帆が黒いパーカーのフードを被る。黒のスウェットパンツ。黒のスニーカー。闇に溶ける出で立ち。
葵がパジャマを脱ぐ。真帆がいる前で脱ぐのは二回目だが、やはり少し気恥ずかしい。真帆は気にせず窓の外を確認している。
「曇りで、暗い。いい感じ」
一階に降りる。階段を一段ずつ。息を殺して。
玄関のドアを開けた。真帆が先に出て、左右を確認する。
「オーケー」
葵が出た。裸足がアスファルトに触れる。いつもの感触。でもいつもと違うのは——これから800メートル先まで行くということだ。
歩き出した。
真帆が二歩先を歩く。角ごとに立ち止まり、覗き込んで安全を確認し、小さく手を振る。葵がその後を歩く。
最初の200メートルは住宅街。知っている道だ。ブロック一周のときに歩いた道。足裏が覚えている地形。マンホールの蓋の位置。ここは、もうホームグラウンドだ。
300メートル。知らない道に入る。
足裏の地図が、白紙になった。アスファルトの質感が微妙に違う。古い舗装と新しい舗装の境目がある。道幅が少し狭くなる。生垣が道路に張り出していて、葉先が裸の腕をかすめた。反射的に身を引く。植物の葉の感触が、暗闘の中で不意に肌に触れる驚き。葉先が腕の産毛をくすぐった。産毛が葉の接近を肌より先に感知していた。身体のセンサーが全開になっている。
真帆がノートに印をつけた自販機の前を通過する。自販機の光が——明るい。煌々と白い光を放っている。深夜の住宅街で、自販機は小さな太陽だ。
「走って」
真帆が小声で言った。自販機の前の五メートルを小走りで通過する。葵の裸の身体が白い光の中を横切る。一秒、二秒。胸が走りの振動で上下に揺れる。臀部の筋肉が交互に動くのが、光の中で一瞬だけ可視化される。 光の範囲を抜ける。暗闇に戻る。
胸の奥がドクンと鳴った。たった二秒の光浴だったが、その二秒間、自分の身体が完全に可視化されていた。誰かがこの瞬間に窓から外を見ていたら——白い光の中を走る裸の女が見えたはずだ。
500メートル。住宅街の端に来た。ここから先は道が広くなる。大通りではないが、片側一車線の道路に出る。街灯が増える。
真帆が振り返った。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
大丈夫ではなかった。心臓が喉の位置にある。でも足は動いている。
600メートル。遠くにコンビニの光が見えてきた。蛍光灯の白い光。ガラス張りの店内。深夜の住宅街に浮かぶ、不夜城。
街灯の光が強くなっている。等間隔に並んだ街灯が、道路を途切れ途切れに照らしている。光の円の中を通過するたびに、裸の身体が照らされる。光が身体の前面を舐めていく。胸のふくらみが光を受けて丸い影を腹に落とす。腹の面が白く浮かび上がり、臍のくぼみだけが小さな穴のように暗い。
光と闇の縞模様の中を裸で歩いている。 光の円を出れば、暗闘に紛れる。照らされて、隠れて、照らされて、隠れて。
700メートル。コンビニが近い。光が道路にまで漏れている。
車のエンジン音がした。
反射的に体を縮めた。真帆が葵の腕を掴んで、道路脇のブロック塀の影に引き込んだ。二人で塀にへばりつく。
真帆の黒い服と、葵の裸の肌。暗闘の中で、真帆は影に溶けている。葵は——肌の白さが暗闘に浮く。塀のコンクリートが裸の背中に押し当たる。冷たくてざらついた表面が、肩甲骨と臀部にくっきりと感触を残す。
車が通過した。タクシーだった。客は乗っていない。空車の表示が光りながら通り過ぎた。
呼吸を整えた。真帆がまだ葵の腕を掴んでいる。その手の温度が——温かかった。
コンビニの前に着いた。
駐車場の端。照明の光がぎりぎり届かない位置。そこから、ガラス越しに店内が見えた。
深夜バイトの男性が一人。レジカウンターの中にいる。二十代前半。無表情。スマホを見ている。客はいない。店内の蛍光灯が、商品棚を白く照らしている。おにぎり、パン、飲み物。商品が整然と並んでいる。
「入る?」
真帆が小声で聞いた。
「入らない」
即答だった。入れるわけがない。自動ドアが開いた瞬間に丸見えだ。防犯カメラに映る。店員が見る。それは——冒険ではなく、犯罪だ。明確に、言い逃れのしようがなく。
「だよね」真帆は笑った。「でもここまで来たね」
ここまで来た。
自宅から800メートル。裸で。裸足で。深夜の住宅街を抜けて、コンビニの前に立っている。蛍光灯の光がぎりぎり届かない暗がりに、裸で立っている。
葵はコンビニのガラスに近づいた。自動ドアのセンサーのギリギリ範囲外。ショーウインドウ代わりに新商品のポスターが貼ってある。
ガラスに手を当てた。
冷たい。店内の冷房がガラスの内側を冷やしていて、外から触れるとひんやりしている。掌全体がガラスに密着する。指の跡が結露に残る。
もう半歩近づいた。胸がガラスに触れそうになる距離。ガラスの向こうは明るい店内。ガラスのこちら側は暗い駐車場。もし店員がこちらを見たら——ガラスに張り付いた裸の人間が見えるだろうか。いや、外が暗くて見えないはず。——たぶん。
ガラスから離れた。掌の跡が、ガラスにうっすり残っていた。
「私、買ってくる」
「え」
「アイス。喉渇かない? 汗かいてるよ、あんた」
言われて気づいた。全身に汗の膜が張っている。緊張の汗。歩いた汗。八月の夜気の湿度。
真帆が駐車場を横切ってコンビニに入っていった。自動ドアが開く音がする。店内のBGMが一瞬だけ外に漏れる。ポップス。深夜のコンビニで流れる、誰に向けたのかわからない音楽。
葵は一人で暗がりに立っていた。
コンビニのガラス越しに、真帆がアイスのコーナーに向かっているのが見える。冷凍ケースを覗き込んで選んでいる。
——長い。
早く決めてくれ——。葵は心の中で叫んだ。一人でコンビニの前に裸で立っている時間が一秒ごとに引き伸ばされていく。
真帆が店内にいるということは、自分には「サポート班」がいないということだ。今、誰かが来たら——。
真帆がアイスのケースの前でしゃがみ込んだ。何かを比較している。二つのアイスを手に取って見比べて、片方を戻して、また別のを取って。
葵は暗闇の中で全裸のまま小刻みに足踏みしていた。裸の女が深夜のコンビニの前で足踏みをしている。
店員が顔を上げた。
レジの奥から、ガラス越しに外を見た。葵の心臓が止まりかけた。でも——死角にいる。街灯の光の外。コンビニの内側から外の暗闘を見ても、人の輪郭は見えないはずだ。ガラスは光を反射する。中から外は見えにくい。
店員の視線が離れた。スマホに戻る。
真帆がレジに向かった。アイスを二つ持っている。会計して袋に入れる。
真帆が戻ってきた。コンビニの袋を持って。
「おまたせ。チョコミントとバニラ、どっちがいい」
「どっちでもいい。早くここから離れたい」
「せっかくだから食べてこうよ。ここで」
「ここで?」
「駐車場の端。あの自販機の影。座れそう」
自販機の横に、配電盤を囲むフェンスがあった。その影なら、コンビニの店内からは見えない。真帆がフェンスの横に座り、葵もしゃがみ込んだ。アスファルトが臀部に冷たい。
アイスを受け取った。チョコミント。袋から出して、齧る。
冷たい。甘い。ミントの清涼感が口の中に広がる。汗で火照った身体に、アイスの冷たさが沁みる。
裸でコンビニの駐車場の端に座って、アイスを食べている。
異様な光景のはずだった。でも真帆が隣にいて、同じアイスを食べていると——異様さの中にも日常が滲む。二人の大学生がアイスを食べている。片方が裸なだけで。
「記録つけとこ」
真帆がアイスを咥えたままノートを取り出した。スマホで照らして、暗闘の中で何かを書いている。
「何書いてるの」
「記録。日時。気温。風向き。ルート。遭遇人数ゼロ。車一台。スリル度——五段階でいくつ?」
「……四」
「四ね。所要時間、片道十四分。帰りの分も入れて——」
「真帆、几帳面すぎない?」
「データは大事。次の参考になる」
次。当然のように「次」がある前提で記録をつけている。
アイスを食べ終えた。棒だけになった。ゴミは真帆がコンビニの袋に入れた。
「帰ろうか」
「うん」
帰り道は来た道を逆に辿った。距離は同じ800メートル。でも帰り道はいつも短く感じる。行きの緊張が解けて、身体が弛緩している。足裏が慣れた道を辿っていく。
700メートル。600メートル。コンビニが見えなくなる。
500メートル。住宅街の端。
300メートル。自販機の横を通る。
自宅の門が見えたとき、葵は息を吐いた。長い、長い息だった。
「コンビニ作戦」
門をくぐりながら真帆が言った。
「行けたね」
「……行けた」
玄関に入る。鍵を閉める。二階に上がる。自室のドアを閉める。
二人で床にへたり込んだ。葵はまだ裸のまま。汗が引いていく。真帆がパーカーのフードを下ろす。
「足裏」と真帆が言った。
「見て」
葵が足の裏を確認した。黒かった。コンビニの駐車場のアスファルトの油汚れが、足裏全体に付着している。
「きったな」
「うるさい」
真帆がノートに書き込みを続けている。日時。気温二十四度。曇り。南風微風。ルート赤。遭遇人数ゼロ。車一台。スリル度四。特記事項——コンビニ前到達。アイス購入(チョコミント&バニラ)。足裏油汚れ要注意。ガラスタッチ成功。
「第一回遠征・コンビニ前・成功」
真帆がノートに大きな丸を書いた。
葵はウェットティッシュで足裏を拭きながら、笑っていた。声は出さなかったが、口元が緩んで止まらなかった。




