第11話 夜明け前の商店街
真帆が帰った後も、葵は一人で夜の外出を続けていた。
コンビニまでの道のりは、もう地図を見なくても歩ける。足裏が全てのマンホールの位置を覚えている。どの家のセンサーライトが敏感に反応するか。夜の住宅街を裸で歩くための知識が、身体に蓄積されていた。
コンビニの前まで行って、駐車場の暗がりに立って、帰ってくる。真帆がいたときより心拍数が高い。一人だと怖い。でも一人だと——感覚がもっと鋭くなる。
真帆がいれば会話が恐怖を薄めてくれた。一人だと、恐怖も感覚もすべて自分一人で受け止めなければならない。その密度の違いが、一人の夜にしかない何かを生んでいた。
真帆からメッセージが来ていた。
『来週また行くね。次は一緒に遠征しよう』
九月の最初の火曜日。午前三時半。
葵は一人で玄関を出た。
今夜の目的地は——駅前商店街。
コンビニよりさらに四百メートル先。自宅から約一・二キロ。今まで到達した最長距離の約一・五倍。
真帆はいない。来週来ると言っていたが、ただ——待てなかった。身体が「次」を求めていて、一週間待つことが耐えられなかった。
住宅街を抜ける。知っている道。コンビニまでの赤ルート。自販機の前を小走りで通過し、センサーライトの範囲を避けて道路の反対側を歩く。すべて真帆と一緒に学んだ手順。
走るとき、胸が上下に揺れる。もう慣れた振動だが、一人だと誰の目もないぶん意識が自分の身体に向く。腹の皮膚が呼吸と歩行のリズムで波打っている。臀部の筋肉が一歩ごとに交互に収縮するのが、鮮明にわかる。服があればぼやける感覚が、裸だと一つ一つ独立して立ち上がってくる。
コンビニを通過した。今夜はここが中間地点だ。店内には別の深夜バイトがいた。女性。棚に商品を並べている。葵はそれを横目に通り抜けて、その先に進んだ。
駅前に近づいていく。
道が広くなる。街灯が増える。アーケードのない商店街——夜になりシャッターが閉まった店が連なっている。
靴屋。パン屋。花屋。八百屋。美容院。不動産屋。クリーニング店。
すべてシャッターが下りている。金属のシャッターが街灯の光を鈍く反射している。昼間は人で賑わう通りが、午前三時半には無人の回廊になっている。
葵の裸足がタイル張りの歩道に触れた。
アスファルトとは感触が違った。商店街の歩道はブロックで舗装されている。一つ一つのブロックの目地を、足の裏が読み取っていく。規則正しい凹凸。昼間は無数の靴底が踏む場所を、今は裸の足が踏んでいる。
シャッターの前を歩く。
靴屋のショーウインドウに映る自分が見えた。靴が並んだショーウインドウの前に、裸足で立っている女。腹の緩やかな曲面が街灯のオレンジ色を受ける。
——裸足で靴屋の前に立つという矛盾に、奇妙なおかしさがこみ上げた。
パン屋の前を通る。鼻が、焼きたてのパンの匂いを記憶から呼び出す。昼間の商店街と、今の商店街が重なる。
花屋の前。軒先に置かれたバケツに、まだ水が残っている。
商店街の中央にベンチがあった。
木製のベンチ。背もたれ付き。昼間は買い物帰りの老人や、待ち合わせの人が座っている場所。
ここに座った。
裸の臀部が木の座面に触れる。冷たかった。夜気に冷やされた木の温度。でも不快ではない。滑り台の金属の鋭さとは違って、木にはどこか体温を受け入れる柔らかさがあった。
臀部の丸みが座面に沈み込むように体重を預ける。太ももの裏が座面の木目のわずかな凹凸を感じ取っている。
立ち上がった。ベンチに座っただけでは足りない。ここまで来た以上——身体で刻まなければ。
仰向けにベンチに横たわった。
背もたれのある木のベンチに、裸で仰向けに寝転がる。足はベンチの端から投げ出されている。胸が仰向けの姿勢で左右に流れ、その中央の平らな部分——胸骨の上の薄い皮膚が、街灯の光を受けて上下している。
呼吸のたびに腹が膨らんで沈む。臍の周囲の肌が夜気にさらされて、うぶ毛が一本一本立ち上がっているのが、見なくてもわかった。
空を見上げた。ベンチの上で裸で仰向けになると、視界がすべて空になる。
「ここまで来た」
声に出した。小さな声だった。自分の声が商店街の空気に溶けていく。
自宅から約一・二キロ。裸で。真夜中の商店街のベンチに、裸で横たわっている。
静寂の中に——足音が聞こえた。
商店街の端から、足音が近づいてくる。スニーカーの底がタイルを踏む音。
立ち上がろうとした。逃げなければ——。
でも足が動かなかった。前回——犬の散歩のおじさんのときは、反射的に走って逃げた。今回は——足が、動かない。
人影が現れた。
三島健太だった。
コンビニの袋を持っている。片手にペットボトル。Tシャツにジーンズ。サンダル。
健太が歩いてくる。少し先で——足が止まった。
葵を見ている。
暗闘の中で、街灯の光が二人を照らしている。着衣の健太と、裸の葵。ベンチに座った裸の葵と、コンビニの袋を持って立っている健太。
葵の身体が街灯の光の中にある。胸のふくらみの上面がオレンジ色に照らされ、下側に影が落ちている。
あの朝——塀の上で目が合ったときは、すぐに逃げた。
今回は——逃げなかった。
沈黙。商店街の街灯がジジジと微かな音を立てている。
健太が——歩いてきた。
ベンチの反対側に、座った。
葵の右側に、少し距離を置いて。コンビニの袋を横に置いて。
隣に、座った。
裸の女の隣に、着衣の男が、深夜の商店街のベンチに並んで座っている。
——沈黙。
健太が口を開いた。
「……高瀬、だよな」
子どもの頃、「あおいちゃん」と呼んでいた男の子が、名字で呼んでいる。
「……うん」
「あの夜も——お前だったんだな」
庭の塀のとき。あの早朝。
「……うん」
「ずっと——やってたのか」
「……うん」
三回目の「うん」が、少し震えていた。寒さではない。震えの理由は、自分でもわからなかった。風が吹いて、腕の産毛がなびいた。
「なんで?」
健太が聞いた。静かな声だった。詰問ではない。非難でもない。純粋な疑問。なぜ裸で夜の街を歩いているのか。
葵は——答えられなかった。
答えを持っていない。この一ヶ月、何度も自分に問いかけた。なぜ裸で外に出たいのか。スリルが欲しいから? 解放感? 好奇心? どれも嘘ではないが、どれも本当ではない。あるいは全部が本当だが、全部を足しても足りない。言葉にすると矮小化される何かが、この行為の中心にある。
「……わからない」
正直に言った。それが一番正確な答えだった。
健太は何も言わなかった。「わからない」に対して追及しなかった。
コンビニの袋からペットボトルを2本取り出した。お茶のラベルが見える。
葵に差し出した。
「とりあえず——飲めよ」
受け取った。キャップを開ける。口をつける。冷たいお茶が喉を通っていく。
汗をかいた身体に、水分が沁みた。ただ冷たくて、ただのお茶で、ただ——美味しかった。
二人で無言でお茶を飲んでいた。
裸の葵と着衣の健太が、深夜の商店街のベンチで、ペットボトルのお茶を飲んでいる。
異様な光景のはずだった。でも——不思議と、落ち着いていた。心臓は速く打っているが、恐怖の鼓動ではなかった。
健太は葵を見なかった。正面を向いて、お茶を飲んでいた。視線を向けないことが、意図的なのかそうでないのか、葵にはわからなかった。でも——その視線の不在が、ありがたかった。
見ない。でも隣にいる。
健太がペットボトルのキャップを閉めた。
「俺もまあ、深夜に一人でコンビニ行く側だから。人のこと言えねえけどさ」
「……そうなの」
「眠れない日があるんだよ。なんか——朝まで起きてると逆に頭が冴えるっていうか。そういう夜にコンビニ行って、お茶買って帰ってくる。意味ないけど」
「意味……」
「意味ないだろ、深夜にコンビニ行くの。でもなんか、行かないと落ち着かないっていうか。——お前のは、もっとすごいけど」
少しだけ、笑いが混じった。健太の唇の端が、微かに上がった。
葵も——笑った。笑えたことに驚いた。裸で男の隣に座っていて、笑えるとは思わなかった。
「帰るか」
健太が立ち上がった。
「……うん」
葵も立った。ベンチの座面に、座っていた部分だけ温度が変わっている。臀部の体温が木に移っている。
二人で歩き出した。健太が半歩前を歩く。葵はその後ろを裸で歩く。
健太は前を向いていた。振り返らなかった。半歩前を歩くことで、葵の身体を視界に入れないようにしている。それは配慮だった。見ないという配慮。でも——半歩しか離れていないということは、何かあればすぐに対応できる。
守っている、とまでは言い過ぎかもしれない。でも——独りではなかった。
住宅街に入る。静まり返った通りを二人で歩く。健太のサンダルがぺたぺたと音を立てる。葵の裸足は音がしない。足裏がアスファルトに吸いつくように、静かに歩いている。
自宅の前に着いた。
健太が立ち止まった。振り返る——一瞬だけ目が合って、すぐに逸らした。
「——また会うかもな」
「……かもね」
健太はそれ以上何も言わず、自分の家に向かって歩いていった。三島家の門をくぐり、玄関のドアを開け、中に消えた。
葵は自宅の門の前に立って、健太がいなくなった方向を見ていた。夜の住宅街が静まっている。街灯の光がオレンジ色に路面を染めている。
玄関のドアを開けて、中に入った。鍵を閉めた。
二階に上がる。自室に入る。ドアを閉める。
ベッドに座って、手に持ったままのペットボトルを見た。ラベルが読める。「おーいお茶」
しばらく見つめていた。
おーいお茶。深夜の商店街で、裸で座っている自分に、幼馴染が差し出した「おーいお茶」。
おーい。お茶ですよ。裸の女がベンチにいますけど、とりあえずお茶ですよ。
——日本人の「とりあえずお茶」の万能さに感謝した。お茶を出されたら会話が始まる。裸でも。
枕に顔を埋めた。笑いが込み上げてきた。声を殺して笑った。肩が震えた。
笑い終わって、仰向けになった。天井を見つめた。
健太の横顔を思い出した。ベンチで正面を向いて、お茶を飲んでいた横顔。視線を向けなかった横顔。でも隣にいた横顔。
「また会うかもな」
また——会うのだろうか。
会いたいのか、と自分に問うた。答えは出なかった。出さなかった。
ペットボトルを枕元に置いて、目を閉じた。
足裏が、商店街のブロックの目地を覚えていた。一つ一つの凹凸を。木のベンチの温度を。
そして、夜風が肩に触れた感触を。隣に人がいることの温かさを。体が覚えていた。




