第8話 共犯者
藤原真帆は、嵐のような人間だった。
大学の入学式で隣の席に座って以来の付き合いだが、四ヶ月経っても葵はこの友人の行動原理を完全には理解できていない。
思ったことを口にする速度が常人の三倍くらい早く、興味を持ったものにはすぐに飛びつく。飽きるのも早い場合が多いが。
その真帆が、八月の最後の週末に葵の実家に泊まりに来た。
「おじゃましまーす」
玄関で靴を脱ぎながら、真帆は家の中を物珍しそうに見回していた。
「いい家じゃん。庭あるし。うちマンションだから庭とか憧れる」
「別に普通だよ」
母が麦茶を出し、父が「ゆっくりしていきなさい」と言い、弟の陸が会釈だけして二階に消えた。夕食は母の手料理で、真帆が「おいしいおいしい」を連発し、母が上機嫌になり、父がテレビを見ながらビールを飲み、弟が黙々と食べて先に席を立った。普通の夕食だった。
葵の部屋に布団を敷いて、二人で並んで寝る。真帆は葵のベッドを「ゲストに譲って」と主張したが、葵が「自分のベッドで寝たい」と断って布団を敷いた。
初日の夜。
消灯は二十三時。真帆はスマホをいじりながら布団の中でもぞもぞしていたが、零時を過ぎた頃に寝息を立て始めた。
葵は天井を見つめていた。
身体が、疼いている。
毎晩のルーティンが途切れている。真帆がいるから外に出られない。当たり前のことだ。友人が泊まりに来ている夜に裸で外出する——そんなことはできない。するべきでもない。
今夜は普通に寝ればいい。明日の夜もだ。真帆が帰るのは明後日の午前中。それまでの二晩を我慢すればいい。
我慢。
その言葉を使った自分に、葵は少しだけ怯えた。我慢しなければならないということは、それが習慣になっているということだ。
寝返りを打った。真帆の寝息が聞こえる。
——今夜はこのまま寝よう。
目を閉じた。
眠れなかった。
◆
二日目の夜。
日中は二人で駅前の商店街を歩いて、カフェに入って、コンビニでアイスを買って公園で食べた。真帆が「田舎じゃん最高」と言い、葵が「田舎じゃないし」と返す、いつもの調子の一日だった。
午前一時半。真帆の寝息を確認した。規則正しい、深い睡眠。
我慢できなかった。
音を立てないように起き上がる。ベッドの上で服を脱ぐ。パジャマを枕の下に隠す。裸で立ち上がり、ドアをゆっくり開ける。
一階に降りる。玄関を出る。門を出る。いつもの道。足裏が覚えているアスファルト。夜風が裸の身体を包む。腕の産毛が夜気に反応して立ち上がる。胸のふくらみの下側を風が掬い上げていく。
——ああ、これだ。
二日ぶりの感覚。身体が歓んでいる。肌が呼吸を取り戻している。
角の電柱まで歩いた。電柱に背中をつけて、三十秒。それから——しゃがんで、仰向けになった。ブリッジ。腹が夜空に向かって突き出る。背中がアスファルトを感じる。
もう少し先に出た。道路の真ん中。ここでブリッジをしたら——道路の中央で、裸で、全身をさらけ出すことになる。
二回目。手をつき、足を踏ん張り、腰を持ち上げた。身体が弓なりに反る。腹が天頂に向かって弧を描く。臍が真上を向いている。胸が喉の方向に引き上がり、重力を逆にしたような形になる。太ももが伸びて、膝から下が踏ん張っている。臀部が持ち上がって、腰のくびれの線が逆さまの弧を描いている。
逆さまの視界で——人影が見えた。
頭の向こう側、上下が反転した世界に、誰かが立っている。パジャマ姿の、上下さかさまの人。
——真帆。
血の気が引いた。
ブリッジの姿勢のまま固まっている。腕が震えている。でも下ろせない。かといってこのままブリッジを維持する腕力は残り少ない。
逆さまの真帆が、スマホを持っている。画面の明かりが消えている。暗闘の中で、逆さまの真帆の目がこちらを見ている。
身体の中で最も隠したい場所が最も無防備に開いている姿勢で、友人と目が合っている。
腕の限界が来た。肘が折れるようにして、身体がアスファルトに落ちた。背中が路面に当たる。衝撃。痛い。でも痛みより先に——仰向けの自分の上に、真帆の顔があった。上からこちらを覗き込む真帆の顔。
沈黙。
二秒。三秒。
真帆の目が、葵の全身を上から下に見た。仰向けに路面に転がっている裸体を。頭。肩。胸。腹。腰。太もも。膝。足首。そして顔に戻ってきた。
葵は腕で胸を隠そうとして——やめた。今さら隠してどうなる。全部見えている。ブリッジの姿勢で全部見られた後に胸を隠すのは、空き巣に入られた後に鍵をかけるようなものだ。
「え、ちょっと待って」
真帆の声には、驚きがあった。でもそれだけではなかった。
「なにそれ。面白い」
——面白い。
予想していた反応のリストの中に、その言葉はなかった。
悲鳴を上げる。引く。ドン引きする。「何やってるの」と問い詰める。気持ち悪がる。そのどれかだと思っていた。
面白い、はなかった。
「え……」
「ていうか——なんで道路の真ん中でブリッジしてんの裸で? 新しいヨガ?」
「ヨガじゃない」
「じゃあ何? 何これ? 最初から説明して?」
葵はアスファルトの上で仰向けのまま、空を見ていた。真帆の顔が空を塞いでいる。友人の顔の輪郭の向こうに、星がいくつか見えた。
ゆっくり起き上がった。アスファルトの砂が背中に張りついている。肩甲骨の下、腰、臀部。全身の背面が路面の証拠を持っている。
真帆がしゃがんで葵の前に来た。パジャマ姿の真帆と、裸でアスファルトに座っている葵。
「ねえ、ほんとのこと言って。怒らないから」
怒らないから、という台詞が母親みたいで、少しだけ力が抜けた。
葵は——話した。
最初から。エアコンが壊れた夜のこと。廊下の一往復。リビング。庭。塀の上で健太と目が合ったこと。ポスト。ブリッジ。犬の散歩のおじさん。ブロック一周。そしてブリッジが習慣になったこと。目的地で何かをせずにはいられなくなったこと。
真帆は黙って聞いていた。道路の路肩に二人で並んで座っている。一人は裸で、一人はパジャマで。 暗闇の中で、表情は見えない。でも呼吸の気配で、聞いていることはわかった。息を詰めて聞いている。
話し終えた。沈黙が落ちた。
「——マジで?」
「マジ」
「ブロック一周? 裸で? この住宅街を?」
「うん」
「おじさんに見られた?」
「うん」
「逃げた?」
「全力で」
真帆が——笑った。
声を殺して、肩を震わせて笑った。馬鹿にしている笑いではなかった。「信じられない」と「すごい」が混ざったような、純粋な驚きの笑い。
「やば。やばいでしょそれ」
「やばいのはわかってる」
「ていうかさっきのブリッジ。あれやばかったよ。道路の真ん中で裸で反り返ってんの。私、部屋で目が覚めてあんたいないから探しに来たらさ、道路の真ん中に白い何かがあるなと思って」
「白い何か……」
「月明かりで光ってた。近づいたらブリッジしてる裸の人間だった。人生で一番びっくりした。ていうかお腹の曲線がすごかった。あの体勢だと腹筋伸びて、肋骨の形が全部見えるんだね」
「もうやめて……」
「いいじゃん。 一緒に行く。見せてよ」
「——は?」
「私が見ててあげるから。安全係」
「安全係って何」
「ほら、一人より二人のほうが安全でしょ。私が先に行って、人がいないか確認する。あんたはその後から行く。完璧じゃん」
完璧ではない。全く完璧ではない。だが真帆の論理は、いつもこうだ。結論が先にあって、理屈はそこに向かって組み立てられる。
「真帆も——脱ぐの?」
「は? なんで。私は着てるよ。見る側」
その言葉が、葵の中の何かに触れた。
着ている側と、裸の側。
これまではずっと一人だった。裸の自分と、世界。その二項対立の中で、世界の側に人が現れるのは偶発的な事故だった——健太も、おじさんも。
「……公園まで」
「え?」
「桜が丘公園。ここから五百メートルくらい。行ったでしょ、今日の昼間」
真帆の目が光った。
◆
二人で夜の道を歩いた。真帆が二歩先。葵が裸で後をついていく。
真帆が角ごとに覗き込み、手を振って「OK」の合図を送る。葵がその後を裸足で歩く。
不思議な感覚だった。
一人で歩くときとは、全く違う。スリルは変わらない——むしろ、増しているかもしれない。真帆がいることで、自分の裸が「一人の秘密」ではなくなっている。不思議な感覚。
公園に着いた。
昼間、二人でアイスを食べたベンチがある。遊具がある。ブランコ。滑り台。砂場。時計台。すべてが暗闇の中でシルエットになっている。
真帆が園内を見回した。「誰もいない。当たり前だけど」
葵は公園の入口に立っていた。裸で。裸足で。足元がゴムチップに変わった。遊具の下に敷かれたクッション素材。足裏に弾力のある感触。
滑り台が月明かりの中にあった。金属製の小さな滑り台。子ども向けで高さは二メートルもない。
真帆が振り返った。
「あれ、滑れば?」
「……え」
「滑り台。裸で滑り台。やばくない? 小学生以来でしょ」
やばかった。でも——身体が動いていた。
階段を上る。金属のステップが足裏にひんやりと冷たい。手すりを掴む。金属の冷たさが掌を冷やす。
滑り台の上に立った。小さな踊り場。高さは二メートル弱。でも裸で立つと、地上のすべてを見下ろしている気分になった。公園のベンチが見える。植え込みが見える。遠くにフェンスが見える。真帆が下から見上げている。
「早く!」と真帆が小声で急かす。
座った。金属の滑走面が、臀部に直接触れた。ほんのり冷たい。
手を放した。
滑った。
短い滑走。臀部と太ももの裏が金属面を摩擦しながら。服を着ていないと加速しない。
着地。砂場の砂が足裏に当たる。膝を曲げて立ち上がる。
臀部が——キュッと鳴った。汗で湿った肌がステンレスから剥がれる音。短い滑走の最後に、身体と金属が別れる音。
真帆が口を手で塞いで笑っていた。
「音。今の音。やば」
「うるさい……」
「もう一回やって」
「やらない」
二人でベンチに座った。真帆はパジャマのまま。葵は裸のまま。ベンチの木の表面が、滑り台の金属とは違う温度で臀部を受け止める。
真帆が言った。「なんか、私がパジャマなのが不思議な感じ」
「どういう意味」
「あんたが裸なんじゃなくて、私が着すぎてる感じ。この空気の中だと。夜の公園で月が出てて、なんか——服ってすごい嘘っぽいなって」
葵は真帆の顔を見た。月明かりに照らされた真帆は、真面目な顔だった。
真帆が写真を撮ろうとした。
「だめ。絶対だめ。データに残すな!」
「えー」
「えーじゃない。一生のお願いだから撮らないで」
「はいはい」
真帆はスマホをポケットに戻した。あっさり引き下がったが、目は名残惜しそうだった。
帰り道。二人で住宅街を戻る。真帆が二歩先を歩き、角を曲がるたびに先に確認して、小さく手を振って「OK」の合図を送る。葵がその後を裸で歩く。
自宅に戻った。裏口から入り、キッチンを通り、階段を上がり、自室に滑り込む。
二人で布団とベッドに分かれて横になった。小声で話す。
「ねえ」真帆が声をひそめた。
「来週もう一回来ていい?」
「……いいけど」
「次はさ——もっと遠くに行こうよ」
葵は天井を見つめた。
共犯者ができた。
一人で広げてきた「半径」に、もう一人加わった。着衣の共犯者。
◆
翌朝。
朝食の席で母が真帆に聞いた。
「真帆ちゃん、よく眠れた?」
「はい! ぐっすりです! 最高でした!」
大嘘だった。午前三時まで起きていた。葵は味噌汁を飲みながら目を逸らした。
真帆が帰り際、玄関で靴を履きながら小声で言った。
「ねえ、あんたさ。足裏めっちゃ強くなってない? 昨日裸足でアスファルト歩いてたの見て思ったんだけど、角質すごいよ」
「……うるさい」
「褒めてるの。戦士の足だよ」
真帆が笑いながら手を振って去っていった。
葵は玄関で自分の足の裏を見た。確かに角質が厚くなっている。一ヶ月前の自分の足裏とは別物だ。
スマホが鳴った。真帆からのメッセージ。
『来週土曜に行くね。作戦会議しよう。目標はコンビニ』
コンビニ。駅前の。ここから一キロ弱。
葵は玄関に座ったまま、しばらくスマホの画面を見つめていた。




