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【はだかの半径】 〜コインランドリーで服を全部洗濯機に入れたら、友達が増えました〜  作者: ぽんぽこ解放太郎
実家編〜桜ヶ丘の夜〜

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第7話 裏山の小川とクワガタとの出会い

 犬の散歩のおじさんとの遭遇から数日経っていた。


 足裏の擦り傷は絆創膏の下でまだ軽く痛んでいたが、歩くぶんには問題なかった。家族は全員出払っている。母は午前シフト、父は出勤、陸は部活の練習試合。帰宅は最も早い母で十三時。


 住宅街の反対側——南に自転車で十分ほど走ると、自然の残る山の入り口がある。地元では裏山と呼ばれている。正確には丘陵地の端だが、木が茂っていて、奥まで入ると深い。子どもの頃はよく遊んだ。健太とも、陸とも。虫を捕りに行った。小川で海老をすくった。中学に上がった頃から足が遠のいて、もう何年も行っていない。


 ——裸で行ったら、どうなるだろう。


 夜の住宅街とは条件がまるで違う。昼間だ。屋外だ。だが裏山の奥なら人はまずいない。八月の午前中、あの暑さの中を山歩きする人間がどれほどいるだろうか。


 自転車を引っ張り出した。Tシャツにショートパンツ、スニーカー。帽子も被った。普通の格好。裸の自分を隠すための、日常の仮面。



 自転車を漕いだ。住宅街を南に抜けて、田んぼの脇の一本道を走る。五分で家並みが途切れ、緑が増える。蝉の声が近づいてくる。


 裏山の入口に着いた。二台ほど停められる小さな駐車場。駐車場には車は停められてない。


 自転車を案内板の横に停めた。周囲を見回す。誰もいない。道路にも人影がない。


 服を脱いだ。


 Tシャツ。ショートパンツ。スニーカー。靴下。——下着はない。家を出る前に外してきた。


 脱いだ服を丸めて自転車のかごの中に押し込んだ。帽子を上に被せて隠す。ぱっと見では洗濯物か何かが入っているようにしか見えない。スニーカーもかごの横に引っ掛けた。


 裸足になった。駐車場のアスファルトが熱い。八月の直射日光で温められた表面が足裏を焼く。


 裸で——山に入った。



 遊歩道は最初、きれいに舗装されていた。コンクリートの上に木のチップを固めたような素材。弾力がある。足裏に優しい。アスファルトの硬さとはまるで違う。


 木漏れ日が降ってきた。


 住宅街の街灯の光とは情報量がまるで違う。木漏れ日は無数の点として不規則に降ってくる。歩くたびに光の粒が身体の上を移動していく。全身が光のモザイクに覆われている。


 風が吹いた。


 湿った、緑の匂いがする風。葉が擦れ合う音が頭上から降ってくる。風が裸の身体を通り抜けていくとき、木々の匂いが一緒に流れていく。腕の産毛が風に応じて逆立つ。


 でも夜の街の産毛とは質が違った。夜の産毛は「警戒」のセンサーだった。昼間の山の産毛は、風の方向を教えてくれる純粋な感覚器官だった。


 五分ほど歩くと、舗装が変わった。木のチップが途切れて、砂利混じりの土の道になる。足裏の感触ががらりと変わる。小石が足裏に食い込む。湿った土がひんやりと冷たい。


 さらに進むと砂利もなくなり、人の足が踏み固めただけの細い道になった。幅は肩幅ほど。左右から下草が迫っている。裸の太ももに葉が触れる。冷たくて濡れていて、くすぐったい。


 蜘蛛の巣に突っ込んだ。顔に糸がかかった。裸だと蜘蛛の巣がくっつく面積が広い。腕に。胸に。腹に。手で払う。


 木立が密になっていく。日差しが遮られて、空気がひんやりしてくる。蝉の声が圧倒的な音量で四方八方から降ってくる。蝶が横切った。トンボが頭上を通過した。足元に何か動いた——トカゲだ。落ち葉の上をさっと走って消えた。


 誰にも会わなかった。この道まで来る人はほとんどいないのだ。



 小川の音が聞こえてきた。


 水の音。小さな沢。記憶にある音だった。


 小川が見えた。幅は一メートルもない。深さは足首が浸かるくらい。透明な水が石の上を流れている。木陰で涼しい。ここで昔海老を捕った。健太と。陸と。


 網で石の下を探って、透明な川海老を捕まえてバケツに入れた。小学三年のとき。


 十年前の自分は、ここにTシャツと短パンとサンダルで立っていた。網とバケツを持って。


 今の自分は、裸で立っている。


 水に足を入れた。


 冷たい。


 山からの湧き水だ。夏の暑さとは無縁の冷たさが足裏を刺す。足首まで浸かる。水流が肌を撫でていく。指の間を水が通り抜ける。


 石の上に立つと、苔が滑る。バランスを取る。裸足の足裏が水中の石の形を一つ一つ読み取っている。


 膝まで入った。水が膝裏を冷やす。太ももの下半分が水に浸かっている。冷たい水と暑い空気の境界線が太ももの真ん中あたりに引かれていて、境界線の上と下で皮膚が感じている温度がまるで違う。


 小川の中央にしゃがんだ。臀部に水が触れて、冷たい。でもとても気持ちいい。


 真夏の陽射しで火照った身体に、山の水が沁み込んでいく。


 透明な水底に小さな影が動いている。海老だ。川海老。石の影に隠れている。十年前と同じ場所に、同じ生き物がいる。


 手を伸ばした。水の中に。石をそっと持ち上げる。海老が逃げる。追いかける。足が石の上を滑ってバランスを崩しかけた。——踏みとどまった。誰にも見られていない。ここには蝉と虫と水の音だけがある。



 上流に向かって歩き始めた。


 水深は浅いところで足首、深いところで脛まで。石の大きさがまちまちで、一歩ごとに足裏が別の感触を読み取っている。丸い石。角のある石。砂利。粘土質の底。苔の滑り。


 流れに逆らって進むのは、思ったより体力を使う。水が脛を押している。裸の脚に水の抵抗がかかる。でも気持ちいい。冷たい水の中を裸で遡っている。まるで川の生き物になったみたいだ。


 上流に進むにつれて、木立がさらに密になった。頭上の枝が重なり合って、空がほとんど見えない。緑のトンネルの中を水が流れている。光は木漏れ日だけ。暗い。でも涼しい。蝉の声も少し遠くなっている。


 十分ほど遡ったところで、大きな木が現れた。


 根と根の間に暗い隙間ができている。落ち葉が溜まっている。朽ちた木片が転がっている。


 ——あれがいる。


 勘だった。子どもの頃の勘。こういう場所にクワガタがいる。朽ちた木。湿った土。暗い隙間。


 根元にしゃがんだ。裸の膝が湿った土に触れる。冷たい。手で落ち葉をそっとどかす。朽ち木の裏を覗く。


 ——いた。


 コクワガタ。小さいが、間違いない。黒い光沢のある身体。小さな角。朽ち木の裏に張りついている。


 反射的に手が伸びた。慎重に。背中をつまむ。脚がわさわさと動く。持ち上げる。


 掌の上にクワガタがいる。


 裸で山の中で立って、掌の上にクワガタを乗せている。脚が掌をくすぐる。角が親指の付け根に引っかかる。小さくて硬くて、生きている。


「……捕まえた」


 声に出していた。誰もいない森の中で、裸でクワガタを掌に乗せて笑っている。十八歳の大学生が。笑いが止まらなかった。滑稽で、嬉しくて、自由で。


 飼おう、と思った。部屋で飼おう。虫かごは——たしか物置にある。小学生のときに使っていたやつが。



 クワガタを両手で包み込んで、来た道を引き返した。


 小川を下流に向かって戻る。上流より楽だ。流れが押してくれる。石を踏み、水を蹴り、裸の身体が緑のトンネルの中を抜けていく。


 時間の感覚が消えていたことに、そのとき気づいた。


 空を見上げた。木立の隙間から覗く太陽の位置が高い。真上に近い。朝の十時頃に家を出たはずだ。今何時だ。


 木立の向こうの空が白く光っている。正午を過ぎている。母の帰宅が十三時。——そして自転車は裏山の入口に停めてある。


 走った。


 裸で。裸足で。踏み固められた道を全力で駆ける。クワガタを片手に包んで、もう片方の手で枝を払いながら。未舗装の土の道を裸足で走ると、石や根が足裏を突く。痛い。でも止まれない。


 道が砂利に変わった。砂利がチップに変わった。舗装された遊歩道に戻った。走るのが楽になる。


 駐車場が見えた。自転車が案内板の横にある。


 周囲を確認——誰もいない。自転車のかごから服を引っ張り出す。Tシャツを頭から被る。ショートパンツを履く。スニーカーに足を突っ込む。片手にクワガタを握ったまま。


 自転車に飛び乗った。ペダルを漕ぐ。田んぼの一本道を全力で走る。


 住宅街に入った。自宅前。自転車を停める。玄関を開ける。


 時計を見た。十二時四十分。


 二階に駆け上がる。自室で鏡を見る。髪に葉っぱがついている。払う。脛に泥が跳ねている。洗面所に行って念入りに洗う。足裏が真っ黒。土と水と落ち葉の汁。指の間まで、爪の中まで洗った。


 手の中のクワガタを一旦コップに入れた。蓋代わりに本を載せる。


 十三時。玄関のドアが開いた。


「ただいまー」


 母の声。


「おかえり」


 葵はリビングのソファに座っていた。テレビをつけている。何事もなかったかのように。心拍がまだ少し高い。裸で山を走って自転車で帰ってきたせいだ。


「今日は何してたの?」


「テレビ見てた」


 大嘘だった。テレビをつけたのは三十秒前だ。


「お昼食べた?」


「……まだ」


 食べていない。裸で裏山の小川で遊んで、クワガタを捕まえて、夢中になっていたから。


「作ってあげるから待ってなさい」


 母がキッチンに向かう。日常の風景。何も変わらない。娘が三時間裸で裏山にいたことを、母は知らない。



 夕方。物置から虫かごを見つけた。小学生のとき使っていた、緑色のプラスチックの虫かご。少し埃をかぶっている。洗って、腐葉土を入れて、クワガタを移した。


「何それ」


 弟の陸が部屋に入ってきた。


「クワガタ。裏山で捕まえた」


「え、まじ? 裏山に行ったの? 久しぶりじゃん」


「散歩してたら見つけた」


「いいなー。俺も行こうかな。——でもコクワか。ちっさいな」


「小さくても立派なクワガタです」


 陸は興味なさそうに出ていった。裏山で虫を捕まえた姉。子どもっぽいとは思っても、それ以上の疑念は持たない。裸だったとは思わない。思うはずがない。


 虫かごを机の上に置いた。クワガタが土の中に潜ろうとしている。小さな角が土をかき分けている。


 この虫は——自分が裸で過ごした時間の証拠だ。裏山の奥の大きな木の根元で、裸で見つけた生き物。服を着ていたら、あの木の根元まで小川を遡っていなかったかもしれない。裸でいたから、時間を忘れるほど夢中になって、奥へ奥へと進んでいったから——見つけた。


 翌日、ホームセンターで昆虫ゼリーと朽ち木を買ってきた。虫かごを整えた。クワガタは朽ち木の下に潜り込んで、夜になるとゼリーを食べに出てくる。


 名前はつけなかった。つけると情が移る。


 虫かごは葵の部屋に置いたままになった。コクワガタは意外に元気だった。ゼリーを交換し、土を替え、霧吹きで湿度を保つ。毎日世話をした。


 裏山の小川を、裸で過ごした三時間を、身体は覚えている。


 水の冷たさ。木漏れ日の温かさ。土の匂い。蝉の声の圧。蜘蛛の巣が肌にかかった。大きな木の根元の暗い湿り気。そして——恐怖のない、純粋な裸の時間。


 夜の街にはスリルがある。裏山には解放がある。


 どちらも、服を脱がなければ手に入らないものだった。

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