第6話 犬の散歩
距離は、少しずつ伸びていった。
次の夜は、門を出て右に二十メートル。角の電柱まで。電柱の冷たい金属に背中をつけて、約三十秒立っていた。裸の背中にコンクリートの電柱の感触。昼間なら寄りかかることもない無機物に、裸の肌を密着させている異様さ。
その次の夜は、角を曲がった先。隣の家の塀の前まで。他人の家の前を裸で歩いている。その家の窓は暗く、恐らく住人は寝ている。自分が裸で門前に立っていることを知らない。
その次はブロックの端まで。ここまで来ると、振り返っても自分の家が見えない。角を二つ曲がっている。帰るには同じ道を戻るか、ブロックを一周するかしかない。
毎回、少しだけ距離を伸ばす。
「あと少しだけ」「あとちょっと」自分に言い聞かせる台詞が何度も繰り返される。
そして、目的地に着くと何かをせずにはいられなくなっていた。電柱では背中をつけて三十秒。隣家の塀の前ではアスファルトに座り込んで、路面の温度を臀部で確かめた。ブロックの端では、道路の白線の上を裸足でバランスよく歩いてみた。ただ歩くだけでは足りない。「ここにいた」を、身体で刻んだ。
足裏が強くなっていた。最初の頃は小石を踏むたびに顔をしかめていたのが、今はほとんど痛みを感じない。角質が厚くなったのだろう。アスファルトの凹凸を、足の裏が地形として読み取れるようになっている。
マンホールの蓋はいつも冷たい。排水溝の金属格子の上は歩きにくい。道路の端の側溝のコンクリートは滑ることがある。裸足の足裏が蓄積した情報が、夜の地図になっていく。
昼間、母が言った。
「葵ちゃん最近、元気ね。肌もツヤツヤしてる。大学始まったらまた不規則になるんだから、今のうちに健康貯金しときなさいよ」
肌のツヤは、毎晩裸で夜風に当たっているせいかもしれなかった。あるいは心拍数が上がる運動を毎晩しているせいか。どちらにしても母に説明できる理由ではない。
「ありがとう」とだけ答えた。
◆
八月の最後の日。
四時前。今日は——ブロックを一周する。
計画は数日前から立てていた。ブロック一周の距離は約二百メートル。昼間、散歩をしながら歩いて測った。角が四つ。右に四回曲がれば元の場所に戻る。
走れば二分。歩いて三、四分くらいか。
裸で住宅街を歩く。
一階に降りて、玄関のドアを開けた。空気が流れ込む。深夜の空気とは違う、夜と朝が混ざった空気だ。空は暗いが、東の端がうっすらと青みを帯びている。
アスファルトに裸足をつけた。
深夜より冷たい。夜通し空気にさらされたアスファルトは、昼間の蓄熱を使い果たしている。足裏がひやりとする。
門を出る。右に曲がる。最初の直線。
もう知っている道だ。電柱の位置。街灯の光の範囲。隣家の塀の高さ。マンホールの蓋の位置。すべて、裸の足裏が記憶している。
一つ目の角を曲がる。
二つ目の角を曲がる。
ここまでは——来たことがある。ブロックの端。ここから先は未踏だ。三つ目の角を曲がれば、自宅の裏側の道路に出る。そこを歩いて四つ目の角を曲がれば、元の道路に戻る。
三つ目の角の手前で、足が止まった。
ここを曲がると、自分の家が見えなくなる。二つ目の角までは、首を伸ばせばかろうじて自宅の屋根が見えていた。三つ目の角を曲がれば、完全に視界から消える。
帰れなくなる——という恐怖が、初めて生まれた。
物理的には帰れる。道を知っている。走れば一分で玄関に着く。でも、裸であるということは、途中で誰かに会ったら帰れなくなるかもしれない危険が伴っている。
人が一人でも現れれば、道を引き返すか、茂みに隠れるか、全力で走って逃げるしかない。選択肢が極端に限られている。服を着ていれば何でもないことが、裸であるだけですべてが生死の問題のように感じられる。
三つ目の角を曲がった。
自宅が、消えた。
自分の家が視界にないという事実が、足裏から脳天まで駆け上がってくる。裸で、靴もなく、ここにいる。この時間に裸の女が歩いていると知ったら——。
直線の道路の真ん中に、街灯がひとつあった。オレンジ色の光が路面に円を描いている。その円の中心に——立った。
街灯の真下。光が真上から降ってくる。影が足元に小さく縮まっている。月明かりとは違う、人工の光。身体のすべてがオレンジ色に染まった。肩。胸のふくらみの上面。腹の曲面。太ももの正面。
腕のうぶ毛がオレンジ色に光っていた。一本一本がはっきり見える。太ももの表面のうぶ毛も、金色に染まっている。こんなにたくさんの毛が身体の表面に生えていたのかと、初めて気づかされた。服を着ていれば決して見ることのない、自分の身体の風景。
街灯の下で両腕を上に伸ばした。背中が伸びる。胸が持ち上がる。腹が引き延ばされて薄くなる。脇の下が完全に開いて、普段は閉じている場所が夜気に晒される。三秒だけ——三秒だけそのまま立っていた。真上からの光の中で、裸で、腕を伸ばして。
三秒で十分だった。全身の産毛が逆立っていた。
歩いた。足を動かした。止まることのほうが怖かった。
四つ目の角が見えてきた。あの角を曲がれば、自分の家がある通りに出る。あと三十メートル——
犬が吠えた。
低い声ではなかった。大型犬の、通る声だった。一声。短く、鋭く。
葵の全身が凍りついた。
角の向こうから、犬と人が現れた。
ゴールデンレトリバー。金色の毛並みが街灯のオレンジ色の光を受けて光っている。リードを持っているのは六十代くらいの男性。ウインドブレーカーに運動靴。散歩の格好。
犬が、葵を見た。
距離は約十メートル。犬の目が葵を捉えている。尻尾が揺れ始めた。友好の表現。犬は裸の人間を「異常」だとは認識しない。人間がいる。それだけで尻尾を振る理由としてはそれで十分なのだろう。
犬に続いて——飼い主が葵を見た。
男性の表情が変わった。——困惑だった。眉が寄り、口が少し開き、足が止まる。状況を理解しようとする表情。
裸の若い女が、早朝の住宅街に裸足で立っている。街灯の残光が身体の輪郭を薄くなぞっている。
この人は——何を考えているだろう。
事件、事故、何かのトラブル——
自分の意志で裸で歩いている——という可能性は、たぶんこの人の選択肢の中に存在しない。
沈黙が続いた。犬だけが尻尾を振っている。左右に大きく揺れている。犬は空気を読まない。読む必要がない。
男性が口を開いた。
「——お嬢さん、大丈夫かね」
声は穏やかだった。心配している声だった。怒りでも軽蔑でもなく、純粋な心配。裸の女性が朝四時に歩いていることを、この人は「何か困ったことが起きている」と解釈している。
大丈夫です。好きでやってます。
そう言えるはずがなかった。
言葉が出ない。口を開いたが、声にならない。喉が乾いている。舌が口蓋に張りついている。
犬が葵に向かって一歩踏み出した。リードが張る。大きな身体が、友好のしるしに近づこうとしている。鼻先が葵の膝の高さにある。
踵を返した。
走った。全力で。裸足のアスファルトが痛い。足裏の角質が厚くなっていても、全力疾走の衝撃は別物だった。一歩ごとに路面の凹凸が足裏に食い込む。
角を曲がった。自分の家が見えた。門が見えた。玄関のドアが——閉まっている。鍵はかけていない。かけていなくてよかった。
全力で走りながら、風が全身に当たっていた。
これまでにない感覚だった。
歩いているときの風と、走っているときの風は別の現象だ。風が正面からぶつかってくる。髪が後ろに流れる。胸が上下に大きく揺れる。
走るたびに重力に引かれて落ち、次の一歩で跳ね上がる。裸の腕が空気を切る。
身体が叫んでいた。声ではなく、身体が。速く走れ。もっと速く。今すぐ帰れ。安全な場所へ。
玄関のドアを開けて、中に入って、閉めて、鍵をかけて、チェーンをかけた。
たたきに倒れ込んだ。
息が上がっている。全力疾走の百メートル——いや、六十メートルくらいか。残りの一ブロックの三辺分。それを全力で走った。
足裏が痛い。左足の親指の付け根あたりに、鋭い痛みがある。見ると、擦り傷ができていた。小石を踏んだのか、アスファルトの突起を踏んだのか。皮が薄く剥けて、下から赤い肉が覗いている。血が滲んでいる。
汗が全身を覆っている。額から顎に垂れる。首筋を伝って鎖骨に溜まる。胸の谷間を下り、腹を流れ、臍のくぼみに溜まってから、さらに下へ伝い落ちていく。 太ももの内側が汗で滑る。
呼吸を整えようとするが、しばらくかかった。玄関のたたきの冷たいタイルの上で、裸のまま横たわっている。
心臓が徐々に落ち着いていく。
おじさんの顔を思い出した。驚きと心配の混じった表情。「大丈夫かね」善意の声。あの人は悪い人ではない。心配してくれたのだ。裸の女が早朝に歩いているのを見て、何かあったのかと。助けようとしてくれた。
大丈夫じゃないのは——たぶん、自分のほうだ。
早朝の住宅街を裸で歩いて、犬の散歩のおじさんと遭遇して、全力で逃走した。客観的に見て、大丈夫な行動ではない。どこからどう見ても大丈夫ではない。
なのに——走っているときの、あの感覚。
足裏の擦り傷がじくじくと痛んでいた。立ち上がって洗面所に行き、水で洗って消毒した。絆創膏を貼った。
二階に上がる。自室のドアを閉める。ベッドに倒れ込む。
窓の外が白くなってきている。東の空がピンク色に染まっている。もうすぐ日の出だ。
犬のことを考えた。ゴールデンレトリバー。尻尾を振っていた。
あの犬はたぶん、帰宅後に飼い主に「今日はいい匂いの人がいたなあ」くらいの感想しか持たないだろう。犬のほうが人間より自由だ。少なくとも、服を着ているかどうかで相手の評価を変えたりしない。
おじさんのことを考えた。「大丈夫かね」あの声を、しばらく忘れられそうにない。
目を閉じた。
眠りに落ちる直前、足裏の擦り傷がズキズキと脈打っていた。心臓の鼓動と同じリズムで。
◆
翌朝。
朝食の席で、母が言った。
「葵ちゃん、足どうしたの。絆創膏貼ってるけど」
胸の奥がドクンと鳴った。答えを用意していなかった。
「……夜中にトイレ行くとき、階段で躓いた」
「もう、電気つけなさいよ。暗いと危ないでしょ」
「うん……」
「お父さんもこの前、夜中にトイレ行くとき扉にぶつかってたわよね」
父が無言でうなずく。身に覚えがあるらしい。
弟が味噌汁をすすりながら、ちらりと葵の足を見た。視線が一瞬だけ止まって、すぐに味噌汁に戻った。何も言わなかった。
話題は父の扉の件に移り、母が廊下のセンサーライトの購入を提案し、父が「そこまでしなくても」と反対し、いつもの朝食の風景に戻っていった。
葵はトーストをかじりながら、テーブルの下で左足の親指を曲げた。絆創膏の下の傷が、小さく痛んだ。
夜の冒険の痕跡が、昼の食卓の下に隠れている。
家族は何も知らない。この傷がどこでついたか。なぜついたか。
「ごちそうさま」
自室に戻って、窓から外を見た。住宅街の朝。向かいの家の主人が車を出している。犬の散歩をしている人が角を曲がっていく——小型犬を連れた女性だ。
昨日のおじさんは、今ごろ何を思っているだろうか。早朝に見かけた裸の女のことを、誰かに話しただろうか。奥さんに。友人に。「今朝、変な人を見た」と。
たぶん——話していない。話したとしても、信じてもらえないだろう。「早朝に裸の若い女が歩いていた」なんて、寝ぼけていたか、夢でも見たのだろうと言われるに決まっている。
そう思いたかった。思わせてくれ。
窓を閉めた。
足裏の傷は三日で治った。絆創膏を剥がした跡に、小さな瘡蓋が残った。
この夏の、一つの勲章だ。




