第5話 アスファルトの上で
健太に見られた夜から一週間が経った。
庭には毎晩出ている。出ているが、もう心拍は上がらない。芝生の感触にも慣れた。月明かりにも慣れた。塀に手をかけて外を覗くことにも慣れた。健太のベランダに目をやることも——それが暗いと確認して塀から離れることも、ルーティンの一部になっていた。
室内から庭へ移ったときと同じ。庭が日常になった今、視線は庭の外に向いている。
塀の向こうの道路。夜の住宅街。街灯のオレンジ色の光。
ベッドの中で考える夜が続いた。
家の外は——どんな感じだろう。
考えるたびに自分で自分を止めた。庭は自分の家の敷地内だ。
でも、門の外に一歩出れば、そこは公道だ。公道で裸でいることは、何かの一線を越えている気がする。
でも、深夜の二時に誰もいない道路を裸で歩いたら、体はどう感じるのか。
やってはいけない。わかっている。わかっているのに、考えることをやめられない。
一週間、考え続けた。
そして、ある深夜。
午前二時。家族は寝ている。父のいびきが一階から聞こえる。規則正しいいびき。母も寝ている。
弟の陸は——サッカー部の練習試合があったはずだ。疲れて早く寝ている。
一階に降りた。裸で。
今夜は裏口ではなく、玄関に向かった。
玄関のドアの前に立つ。このドアを開けたことは、裸では一度もない。道路に面している。開ければ、目の前にアスファルトがある。
鍵を回した。チェーンを外した。ドアノブに手をかけた。
引く。
夜の空気が、正面から流れ込んできた。
裏口から感じる夜の空気とは角度が違った。庭の空気は草と土の匂いを含んでいる。玄関から入る空気はアスファルトと排気ガスの残り香がする。
コンクリートの匂い。風が正面から入ってきて、胸に当たり、腹を撫で、太ももの表面を下って足首に抜けていった。身体の前面の産毛が一斉に風上に向かってなびく。玄関に立っているだけで、身体の正面全体が外気に曝されている。
玄関のたたきに立っている。裸で。正面に門柱。門柱にポスト。そこまで約五メートル。
門柱のポストまで。たった五メートル。
靴は——履かない。
庭に裸足で出ることの延長。少しだけ先に行くだけ。そう自分に言い聞かせた。
一歩。
玄関のタイルから、外のコンクリートに足が移る。門までの短いアプローチ。昼間は何度も歩いている道。母の植えたプランターの横を通り過ぎる。
二歩。三歩。
ポストを過ぎて、門の敷居を——越えた。
足裏が、アスファルトに触れた。
庭の芝生でもコンクリートのたたきでもない、道路のアスファルト。昼間の熱が染み込んでいる。八月の太陽が一日かけて蓄えた熱が、午前二時になってもまだ残っている。ぬるい。生き物の体温に近い温度で、足裏を受け止める。
小石が足裏に当たった。アスファルトに埋め込まれた砂利の粒が、足の指の付け根を刺激する。靴を履いていれば絶対に気づかない感触だ。道路はこんなに凹凸があったのか。
ポストに戻って手を伸ばした。
金属の表面。ひんやりしている。指先が触れる。門柱にはめ込まれた、何の変哲もないポスト。毎日、母が郵便物を取り出しているポスト。
中に何が入っているかは関係ない。ポストに触れること——それが、今夜の目的だった。
指先が金属の冷たさを感じ取っている。その冷たさが腕を伝って肩に届き、背骨を下って——全身が「ここにいる」と主張している。
ポストの前で立ち止まったまま、奇妙な衝動が湧いてきた。触れるだけでは足りない。ここにいたという証拠を、身体に刻みたい。
——ブリッジ。なぜその発想が出たのか自分でもわからない。小学生のとき覚えた、あの動き。
門の外に出て、アスファルトの上にしゃがんだ。仰向けになる。背中にアスファルトの熱が伝わってくる。ぬるい。
昼間の記憶を保った路面が、背中全体を温めている。肩甲骨、腰、臀部——身体の背面がすべてアスファルトに接触する。
両手を耳の横につき、足裏を踏ん張って——身体を持ち上げた。
ブリッジ。
腹が天に向かって突き出る。背中が弓なりに反る。胸が反り返って喉の方向に引き上げられ、重力から解放された形になる。
腹の面が夜空に向かって大きく開いている。臍が月を見ている。太ももの裏側が伸びて、普段は閉じている身体の面が全部開いている。股関節が開き、太ももの内側の肌が夜気に晒される。
十秒が限界だった。腕が震え始めている。でもその十秒間——アスファルトの上で裸でブリッジをしているという事実が、頭の中のすべてを塗りつぶしていた。ポストに触れるだけの予定が、なぜこうなったのか。自分でもわからない。でも身体が求めていた。「ここにいた」を、全身で刻むこと。
腕を曲げて、ゆっくりと身体を下ろした。アスファルトに仰向けに戻る。荒い息。背中が熱い。路面の熱が汗で濡れた肌を通して沁みている。
立ち上がった。膝が少し笑っている。
背後から——車のヘッドライトが曲がり角から射す。
反射的に門の内側に飛び込む。塀に背中を押しつける。車が通過する。
心臓が喉から飛び出しそう。全身に汗。
車は何事も無かったように通り過ぎた。もう少し早かったら——ブリッジの姿勢のまま、ヘッドライトに照らされていた。その想像で膝から力が抜けた。
玄関に戻る。ドアを閉める。鍵をかける。チェーンをかける。膝が笑っている。
「五メートル。——たった五メートルだったのに」
背中にアスファルトの砂粒が張りついていた。肩甲骨の下あたりを手で払うと、細かい砂がぱらぱらと落ちた。臀部にも。腰にも。
背面がアスファルトの証拠を持ち帰っている。玄関の鏡で背中を確認しようとしたが、暗くて見えない。明日の朝、シャワーで念入りに洗わなければ。
翌日、明るい時間にポストを見に行く。昨夜と同じポスト。同じ五メートル。何も変わらない。でも——昨夜の自分は確かにここに裸で立っていた。裸でブリッジまでしていた。 日常の風景が二重に見える。
ポストを開けた。チラシが二枚と電気料金の検針票。
チラシの一枚はスーパーの特売情報、もう一枚はリフォーム会社の広告だった。
笑った。声には出さなかったが、口元が緩んだ。滑稽だった。どうしようもなく滑稽で、でもその滑稽さの中に、言い表せない何かがあった。
家に戻った。
風呂上がりに足裏を確認した。昨夜のアスファルトの汚れがまだ薄く残っている。念入りにシャワーで洗ったつもりだったが、足裏の皺の奥に砂粒が入り込んでいた。軽石で丁寧にこすった。
風呂場のドアを開けたら、弟の陸が廊下に立っていた。
「長くない?」
「何が」
「シャワー。姉ちゃん最近、朝シャンも長いし、夜も長いし。水道代やばくない?」
「うるさい。女の子はいろいろあるの」
「はいはい」
陸は興味なさそうに自室に引っ込んだ。
助かった。「女の子はいろいろある」は便利な台詞だった。弟はそれ以上踏み込んでこない。思春期の男子にとって、姉の「いろいろ」は触れたくない領域だ。
自室に戻った。ベッドに座って、窓の外を見る。
頭の中で、地図が広がっていた。ポストから門を出て右に曲がると、二十メートル先に角がある。角を左に曲がると、住宅街の一ブロックの長辺に沿った直線道路。その先に——。
次は、あの角まで。
考えている。止められない。考えているだけだ、と自分に言い聞かせた。
足裏が、アスファルトの温度を覚えている。ぬるい、八月の、道路の温度。背中が、ブリッジのときの路面の感触を覚えている。 あの感触をもう一度——。
葵は窓を閉めた。エアコンは——修理が終わっていた。お盆明けに届いた部品で、業者が直してくれた。二階にも冷気が届くようになった。もう暑くない。
暑くないのに——裸でいる理由は、とっくにエアコンの故障ではなくなっていた。
目を閉じた。明日の夜のことを考えながら、眠りに落ちた。




