第4話 健太に見られた夜
庭が、ホームグラウンドになった。
その言い方が適切かどうかはわからないが、葵の感覚としてはそうだった。深夜の庭に出ることが、かつてのリビングと同じ位置づけになっている。
最初は心臓が破裂しそうだった場所が、三回、四回と繰り返すうちに「いつもの場所」になっていく。
五回目の夜、葵は庭で十五分過ごした。塀のそばに立ち、物干し竿の下をくぐり、母が育てているプランターのトマトの横を通り過ぎた。
庭の隅々まで裸の足裏が地図を描いた。芝生の部分、コンクリートのたたき、レンガを敷いた小径。それぞれの質感を、足の裏が記憶していった。
六回目の夜には、庭の真ん中で仰向けに寝転がった。芝生が背中全体に触れる。肩甲骨の下、腰のくぼみ、臀部、ふくらはぎ。
身体の背面すべてが地面と接触している。草が背中の産毛をくすぐる。空を見上げると、月が真上にあった。胸のふくらみが二つ、月に向かって突き出ている。仰向けになると胸は左右に流れてなだらかになり、その中央の、肋骨の上の薄い皮膚が呼吸のたびに上下する。
腹が深く窪んで、肋骨の下端の輪郭が浮き出ている。芝の上に裸で大の字になっている自分を空から見たらどう見えるだろう——と想像して、やめた。想像しないほうがいい。
塀に近づいて、隣家の庭を覗いた。暗い芝生が月に照らされて青く光っていた。
七回目の夜には、塀に手をかけて外を覗いた。百四十センチの塀は、葵の肩のあたりの高さだ。つま先立ちになれば、顎が塀の上に出る。そこから見える深夜の道路は、ただのアスファルトだった。
街灯のオレンジ色の光が路面を染めている。誰もいない。当たり前だ。午前一時の住宅街に人影はない。
——別の時間帯ではどうだろう。
その思考が浮かんだとき、葵は自分がまた「次」を求めていることに気づいた。庭の深夜が日常になりつつある。心拍の上がり幅が小さくなっている。
慣れる。物足りなくなる。もう少し先へ行きたくなる。
このパターンを自覚しているのに止められない。止められないというより、止めたくない。止める理由を、葵はまだ見つけられていなかった。
次は、早朝にシフトした。
午前四時半。目覚ましではなく、身体が勝手に起きた。窓の外がほんのわずかに白み始めている。深夜の闇と朝の光のあいだの、曖昧な時間帯。
一階に降りる。裏口のドアを開ける。もう手順は身体に染みついている。鍵を二つ回す。ドアノブを引く。外の空気を迎え入れる。
早朝の空気は深夜とは違った。
夜の空気には湿った重さがある。地面が吐き出す水蒸気が空気を重くして、肌にまとわりつく。早朝の空気にはそれがなかった。
夜のあいだに気温が下がって、空気が引き締まっている。肌に触れる感触が鋭い。シャツを一枚脱いだときに感じる「すっ」とした感覚——の、全身版。
腕の産毛が引き締まった空気に反応して、一本一本がぴんと立った。太ももの表面のうぶ毛にも同じ反応が連鎖していく。身体の表面積のすべてが、夜明け前の空気の鋭さを受信していた。
庭に出た。芝生が朝露に濡れている。足裏が濡れる感触は深夜と同じだが、温度が違う。深夜の夜露はぬるい。早朝の朝露は冷たい。足の指が反射的に縮む。
鳥が鳴いていた。
名前を知らない鳥が、どこかの屋根の上で囀っている。高い音。断続的に。深夜にはなかった音だ。世界が起き始めている。その前触れとしての鳥の声。
塀に近づいた。
深夜よりも視界が良い。空が白み始めているせいで、輪郭がはっきり見える。道路の向こうの家の屋根。電柱。電線。ゴミ集積所の金網。すべてが、深夜のときより鮮明に見えている。
つまり——こちらも見えるということだ。
そのことを考えた瞬間、心拍が上がった。久しぶりの感覚だった。庭では上がらなくなっていた心拍が、「見える」という条件ひとつで戻ってきた。
塀に手をかけた。背伸びをする。上半身が塀の上に出る。肩が、腕が、鎖骨が——塀の上の世界に露出する。塀のコンクリートの縁が胸の下に当たった。冷たくてざらついた感触が、胸のふくらみの下側の柔らかい皮膚を圧迫する。腹が塀に密着している。自分の体重が塀の縁と胸と腹に分散してかかっている。
朝の空気が、塀の上に出た肌に触れた。庭の中の空気とは流れが違う。塀が遮っていた風が、直接身体に当たる。
道路を見下ろす。誰もいない。四時半。当然——
視界の端で、光が動いた。
隣家の——正確には隣の隣の三島家の——二階の窓に、明かりがついていた。
薄いカーテン越しのぼんやりした光。誰かがいる。この時間に起きている人間が、あの窓の向こうにいる。
見ていると、ベランダのガラス戸が開いた。
三島健太だった。
Tシャツにスウェットパンツ。髪がぼさぼさで、眠そうな顔をしている。手に煙草の箱を持っている。
ベランダの手すりに肘をついて、煙草に火をつけた。煙が朝の空気にゆっくりと昇っていく。
健太の視線が——泳いだ。
なんとなく庭を見下ろし、隣家の屋根を見て、空を見上げて——そして、葵のいる方向に降りてきた。
目が合った。
正確にいえば、健太の目が葵の存在を捉えた。最初は認識していなかったと思う。塀の上に何かがあるな、という程度の視線だったはずだ。それが——人間だと気づき、女だと気づき、裸だと気づく。その過程が、健太の表情の変化として葵の目に映った。
無関心。認知。驚愕。
煙草を持つ手が止まった。口から煙が出たまま、吐くのも吸うのも忘れている。
葵は動けなかった。
塀に手をかけたまま、上半身が外に出たまま、フリーズしている。引っ込めば不自然。でもこのままでは——塀の縁に胸を押しつけた姿勢で固まっている。肩から上だけでなく、胸のふくらみの上端まで塀の上に出ているのが、自分でわかった。
月明かりの残る空の下、朝の薄い光が肩と鎖骨を照らしている。健太のいるベランダは自分より高い位置にある。つまり、見下ろされている。塀から上のすべてが、健太の視線に晒されている。
目が、合ったままだ。
健太のベランダから葵の家の塀まで、直線距離で十五メートルくらいだろうか。高さの差がある。健太は二階のベランダ、葵は地上の塀越し。見下ろす側と見上げられる側。
一秒。
二秒。
三秒。
五秒。
煙草の灰が、健太の指から落ちた。それが何かのスイッチになった。
葵は塀から手を放した。手を放した瞬間、身体がずるりと塀の内側に落ちた。しゃがみ込む。芝生の上に膝をつく。朝露が膝を濡らした。
立ち上がって裏口に走った。走るというほどの距離ではないが、裏口のドアに飛び込み、閉めて、鍵をかけた。
キッチンの床にしゃがみ込んだ。
心臓が壊れる、と思った。比喩ではなくそう思った。こめかみの血管が脈打っている。指先が冷たくなっている。掌が汗でびしょ濡れだ。呼吸が浅い。過呼吸の一歩手前のような息をしている。
見られた。
見られた。見られた。見られた。
頭の中でその言葉が反復する。三島健太。幼馴染。子どもの頃に一緒に公園で遊んだ男の子。中学に上がってから話さなくなった。高校では会釈だけ。大学に入ってからは帰省のたびに顔を合わせるかどうか。
その健太に——見られた。裸を。
恐怖が全身を支配していた。当たり前だ。知り合いに裸を見られた。しかも塀の上に半身を出した状態で。言い訳のしようがない。寝ぼけていましたでは通らない。暑くてつい、でも通らない。早朝四時半に塀から上半身を出している裸の女に、まともな説明などない。
しかし——恐怖の底に、もうひとつの感覚があった。
恐怖と同じ場所から発生していて、恐怖と同じ神経回路を使っていて、でも恐怖とは違う何か。名前をつけようとすると逃げていく。捕まえようとすると溶ける。
葵はそれを言語化しなかった。しないことにした。今はまだ。
二階に戻った。窓の外が白くなっていく。鳥の声が増えている。世界が起きていく。
ベッドに横たわったが、眠れるはずがなかった。目を閉じると、健太の顔が浮かぶ。煙草の煙が止まった瞬間。無関心が驚愕に変わった、あの表情の変化。
——彼は、誰かに言うだろうか。
その可能性を考えただけで胃が縮んだ。親に言う。「高瀬さん家の葵ちゃんが、朝の四時半に裸で庭に立ってた」それが母の耳に入る。母の顔を想像した。想像するだけで全身から血の気が引いた。
あるいは弟に。「お前の姉ちゃん、裸で——」それは考えたくもなかった。
一日が過ぎた。何も起こらなかった。
二日が過ぎた。何も起こらなかった。
三日目。
買い物に行く途中で、隣家の——三島家の前を通った。服を着ている。当たり前だ。白いTシャツにデニムのショートパンツ。サンダル。日傘。完全に夏の午後の、普通の格好。
三島家の門の前に、健太がいた。
自転車の鍵を外しているところだった。こちらに背を向けている。
足が止まった。引き返そうかと思った。でも、引き返す方が不自然だ。健太の家の前を避けて遠回りするほうが、よほどおかしい。
歩いた。普通に。前を向いて。足を動かして。一歩ずつ。三島家の門の前を通過する。あと三歩で通り過ぎる——
健太が振り返った。
目が合った。
四日前の早朝と同じ目だった。でも表情は違った。驚愕はもうない。その代わりに——何と呼べばいいのかわからない表情が健太の目にあった。
健太が、微かに頷いた。
それだけだった。声はかけなかった。「おはよう」も「久しぶり」も「この前は——」も。何も言わない。ただ頷いて、視線を外して、自転車にまたがった。
葵は赤面していた。顔だけではなく、耳の先まで熱くなっているのがわかった。早足で通り過ぎた。背中に健太の視線を感じたが、振り返らなかった。振り返れるはずがなかった。
スーパーに着いて、冷房の効いた店内に入った瞬間、ようやく呼吸が戻った。買い物かごを手に取る。母に頼まれたのは卵と牛乳。
棚の前に立って、卵のパックを手に取ったとき、パック越しに自分の手が震えているのが見えた。——卵を割る。今これを落としたら、スーパーの床で卵が割れる。「お客様、大丈夫ですか」と店員が寄ってくる。
大丈夫です、ただ隣の家の幼馴染に裸を見られた動揺が三日経っても抜けないだけです。——言えるか。卵を慎重にかごに入れた。
帰宅して自室に駆け込み、ドアを閉めた。
鏡を見た。顔が真っ赤だった。耳まで赤い。首筋まで赤い。
健太は——黙っている。
三日間、何も起こらなかった。誰にも言っていない。言うつもりがないのか、言うタイミングを計っているのか、それとも——。
安堵した。心の底から安堵した。
そして、安堵の隣に、もうひとつの感情があることに気づいた。
彼は見ていた。あの早朝、ベランダから、煙草を持った手を止めて、自分の裸を見ていた。そして今日、服を着た自分と目が合って、頷いた。彼の中に「裸の葵」と「服を着た葵」の両方が存在している。彼だけが、その両方を知っている。
自分の秘密が、もう自分だけのものではない。
その事実が——怖くて、そして。
そして、何なのか。葵はまだ名前をつけられない。
夕食の時間。リビングのテーブルに家族四人が座っている。母がサラダを取り分けながら言った。
「そういえば、お隣の健太くん、大きくなったわねえ。昔は葵ちゃんとよく遊んでたのに。最近見かけたら、背が伸びて」
麦茶が気管に入りかけた。咳き込むのを必死に堪える。鼻の奥がツンとする。
「大丈夫?」
「——だ、大丈夫」
「健太くん、大学はどこだったかしら。たしかお母さんが——」
「知らない。興味ない」
声が上擦った。母が怪訝な顔をしている。葵は麦茶のグラスに口をつけて視線を逸らした。
弟の陸が箸を動かしながら言った。
「姉ちゃん最近、朝早くない? 健康志向?」
「……は?」
「なんか、たまに早い時間にトイレ行く音する。四時とか五時とか」
胸の奥がドクンと鳴った。
「暑くて目が覚めるだけ。エアコン壊れてるんだから」
「ふーん」
陸はそれ以上追及しなかった。興味がないのだ。姉が早起きかどうかなど、彼の世界ではサッカーの練習メニューより遥かに優先度が低い。
助かった。今回も。でも——気をつけなければ。音を立てている自覚がなかった。廊下を歩く音。裏口のドアを開ける音。トイレだと思われているのは幸運だが、毎朝四時にトイレに行く姉は、そのうち不審に思われる。
夜。
家族が寝静まった午前一時。
葵は裸になって、一階に降りた。裏口ではなく——庭に面したリビングの窓のカーテンを少しだけ開けた。
庭が月明かりに照らされている。今夜は上弦の月。四日前の下弦から半月が過ぎている。
塀の向こう——三島家の二階を見上げた。
窓は暗い。ベランダに人影はない。
少しだけ——残念に思った。
その感情に気づいた瞬間、葵は自分に愕然とした。
何を期待しているのか。誰に見られたいのか。あの恐怖をもう一度味わいたいのか——。
カーテンを閉じた。
自室に戻って、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋める。
頬が熱かった。暗闇の中で、誰にも見られていないのに、顔が熱かった。




