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【はだかの半径】 〜コインランドリーで服を全部洗濯機に入れたら、友達が増えました〜  作者: ぽんぽこ解放太郎
実家編〜桜ヶ丘の夜〜

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第3話 裸で庭に出た夜

 一週間で、葵は家の中を裸で歩くことに慣れた。


 慣れた、という言葉が正確かどうかはわからない。心拍数が上がらなくなった。足裏がフローリングの感触に驚かなくなった。リビングのソファに裸で座ることが、特別な行為ではなくなった。そういう意味では「慣れた」のだろう。


 母のシフト表は完全に頭に入っていた。父の帰宅パターンも把握している。陸の部活のスケジュールは冷蔵庫の隣に貼ってある練習予定表で確認できる。月曜から金曜まで、ほぼ毎日二時間から四時間の「空白」がある。


 その空白の時間を、葵は裸で過ごしていた。


 最初は大冒険だったリビングが、三日で日常になった。キッチンで裸のまま昼食を作った。洗面所で裸のまま髪を乾かした。父の書斎の椅子に裸で座って本棚を眺めた。弟の部屋のドアの前を通過するとき——不在だとわかっていても——かすかに心拍が上がる。それが唯一、まだ残っている反応だった。


 物足りない。


 その自覚が来たのは帰省十日目の夜だった。午前中に三時間裸で過ごしたが、心拍はほぼ平常のままだった。冷蔵庫の冷気も、もう鳥肌が立たない。ソファの革の感触にも身体が順応してしまっている。


 ベッドの中で天井を見つめる。エアコンは相変わらず壊れている。窓から夜風が入ってくるが、肌に触れてもあの最初の夜のような鮮烈さはない。


 もっと——。


 その「もっと」の先に何があるのか、葵にはわかっていた。わかっていたから、目を閉じて考えないようにした。


 三日間、考えないようにした。


 四日目の夜、考えることをやめた。やめたのではなく、考えなくても身体が結論を出していた。


 ——外に出てみたい。


 自問した。危険な兆候ではないのか。家の中の裸では足りなくなって、次は外。これは依存の構造と同じではないのか。


 でも——と、もう一人の自分が答える。誰にも迷惑をかけていない。深夜の自分の家の庭は私有地だ。犯罪ではない。ただ裸でいるだけだ。


 その理屈が単なる自分への正当化にすぎないことも、わかっている。わかった上で——立ち上がった。


 午前一時——。


 家族は寝ている。父のいびきが階下からかすかに聞こえる。母は父より先に寝る。弟は——部屋のドアの隙間から光が漏れていない。


 自室で服を脱ぐ。もう緊張はない。裸になることは準備にすぎない。本番はここからだ。


 二階の廊下を通り、階段を降りる。一段ごとに空気の層が変わる感覚。二階の澱んだ熱気から、一階のわずかに涼しい空気へ。足裏が各段の温度を読み取っていく。


 一階の廊下。リビングを通過する。キッチンに入る。ここまでは、もう慣れた道だ。


 裏口のドアの前に立った。


 キッチンの奥にある、庭に通じるドア。昼間、母が洗濯物を干すときに使っているドア。鍵は上下二箇所。葵はそれをゆっくりと回した。


 一つ目の鍵が開く。金属の硬い感触。


 二つ目の鍵が開く。


 ドアノブを握る。


 ——ここが、境界線だ。


 今まではすべて室内だった。天井があった。壁があった。床があった。囲まれていた。


 このドアの向こうには、空がある。


 開ける。


 夜の空気が流れ込んできた。


 室内の空気とは、成分が違うとしか思えなかった。湿度が高い。草の匂いがする。土の匂い。どこかの家の庭木から漂ってくる、名前を知らない花の匂い。そして——虫の声。


 何種類もの虫が、それぞれの音程で鳴いている。部屋の中からは遠い環境音でしかなかったものが、ドアを開けた瞬間に合奏になった。


 右足を出した。


 裸の足が、コンクリートのたたきに触れる。


 冷たい。フローリングとは違う種類の冷たさだった。鉱物の冷たさ。熱伝導率が高い素材が、足裏の体温を素早く吸い取っていく。


 左足。両足がたたきの上にある。まだ屋根の下。裏口のひさしが頭上にある。あと一歩で——ひさしの外に出る。


 一歩。


 頭上から、屋根が消えた。


 空が、あった。


 暗い空だった。東京近郊の空は、完全な闇にはならない。街の光が雲の底を淡く照らしていて、暗いオレンジ色の天蓋が広がっている。その中に、月がひとつ。


 下弦の月だった。半分だけ光っている。欠けた側が闇に溶けている。


 月明かりが、裸の肌に降りてきた。


 室内の光とは質が違った。蛍光灯やスマホの画面の光は直接的だ。月の光はもっと遠い。もっと薄い。もっと冷たい。


 数十万キロの距離を旅してきた光が、いま自分の肩に、腕に、つま先に触れている。月光が胸の丸みの上半分を白く染めて、下半分には影が落ちている。


 腹が淡い光を受けて、臍のくぼみだけが小さな影になっている。自分の身体が月明かりの下でひとつの地形のように見えた。光が当たる稜線と、影になる谷と。


 芝生に足を踏み入れた。


 夜露で湿っている。足裏が濡れる。冷たさが、コンクリートとはまた違う。柔らかくて冷たい。草の一本一本が足の指のあいだに入り込んでくる。


 庭の真ん中に立った。


 南側に塀がある。コンクリートブロックの塀。高さは百四十センチほど。葵の肩のあたりまでの高さだ。塀の向こうは隣家の庭。隣家の庭を越えた先に、三島家がある。


 隣家は暗い。窓に明かりはない。寝ている。——はず。


 三島家の二階の窓も暗い。あそこに健太がいるはずだが、今夜は起きていないようだ。


 頭上を見上げた。空がある。天井ではなく、空が。限界のない広がりが、裸の身体の上に載っている。


 室内で裸でいるときは、囲まれている安心感があった。壁と天井が視線を遮ってくれる。見られる心配がない空間の中で、裸でいた。


 庭には壁がない。天井がない。空があるということは、どの方向からでも見える可能性があるということだ。隣家の二階から。向かいの家の窓から。たまたま夜中に目が覚めた誰かが、カーテンの隙間から外を見たら——。


 風が吹いた。


 全身に当たった。


 室内の風は窓やドアを通過してくる「部分的な」風だった。腕だけ、背中だけ、という具合に身体の一部に触れる。庭の風は違った。全方位から来る。前からも横からも、巻き込むようにして全身に触れる。


 髪が揺れる。鎖骨のあたりを風が舐めていく。腹を通過する。太ももの内側に回り込む。腕の産毛が風上に向かって一斉になびいた。


 太ももの表面のうぶ毛も、腹の薄い毛も、身体中の毛が風の流れを立体的に描き出している。服を着ていれば風は布の表面で止まる。


 裸でいると、風は肌の表面で止まらない。毛の先端でさらに先まで伸びていく。身体の輪郭が、毛の一本分だけ外側にある。その一本分の空間が、風を捕まえていた。


 胸のふくらみの下側を風が掬い上げるように通過した。重力で自然に下がった曲線の底を、夜風がなぞる。臀部にも風が回り込んでいる。立っているだけで、身体の凹凸のすべてに風の地図が描かれていく。


 両手を広げた。


 何のためにそうしたのか、自分でもわからなかった。月に向かって、裸で、両手を広げて立っている。傍から見たら異様な光景だろう。いや——傍から見てはいけない光景だ。


 三分間。時計を見ていないが、体感で三分。それが限界だった。


 興奮でも恐怖でもなく、もっと原始的な警報が身体の底から鳴り始めていた。長く留まりすぎている。戻れ。今すぐ。


 踵を返した。芝生を踏んで、コンクリートのたたきに足をつき、裏口のドアをくぐった。ドアを閉める。鍵をかける。


 背中をドアに押しつけて、しゃがみ込んだ。


 キッチンのリノリウムの床が尻に冷たい。外の冷たさとは違う、人工的な冷たさ。室内の冷たさ。安全な冷たさ。


 心臓が、耳の中で反響している。


 呼吸が荒い。走ったわけでもないのに、息が上がっている。


 怖かったのか——と自分に問う。怖かった。でも怖さの質が、宅配便のチャイムのときとは違う。あのときは「見つかる」恐怖だった。今夜のは——「ここにいてはいけない」という本能的な警報だった。


 でも。


 でも——空が、あった。


 そのことが、すべてを上書きしていた。


 月があった。風があった。虫の声があった。芝生の冷たさが足裏にあった。


 室内で裸でいることと、屋外で裸でいることの差は——思っていたよりも、ずっと大きかった。


 呼吸が落ち着いてくる。膝の震えが止まる。


 立ち上がって、二階に戻った。自室のドアを閉め、鍵をかける。


 ベッドに横たわる。足裏が——湿っている。夜露に濡れた芝生の水分が、まだ残っている。


 シーツに足を置いた瞬間、緑色の汚れがついた。芝生の汁。慌ててシーツを確認する。小さな緑の染みが二つ。洗濯——自分でやらないと母に見つかる。明日の朝、母が出勤したらすぐに洗濯機を回さなければ。裸の冒険の後始末がシーツの洗濯とは、味気のないことだった。


 目を閉じた。網膜の裏に、月が残像として浮かんでいた。下弦の月。半分だけ光っている月。裸の肩に降りてきた、冷たい光。


 眠れなかった。身体が興奮を覚えている。足裏が芝生の感触を覚えている。肌が風の道を覚えている。


 ——明日の夜も、出よう。


 迷いはなかった。



 翌日の夜も、庭に出た。


 二回目は少しだけ長くいられた。五分。塀のそばまで歩いて、隣家の庭を覗いた。暗い芝生が月に照らされて青く光っていた。


 三回目。庭の端から端まで歩いた。物干し竿の金属が月光を反射して、一瞬光った。胸の奥がドクンと鳴ったが、ただの反射だとすぐにわかった。


 三回目の夜に事件が起きた。


 ——近所の犬が吠えた。


 二つ隣の家の犬だった。小型犬の甲高い声が、深夜の住宅街に響く。


 凍りついた。


 裸のまま、庭の真ん中で石になっている。犬が吠えている。吠え続けている。葵の存在を感知したのか、それとも別の理由か——わからない。とにかく吠えている。


 動けない。走って戻ればいいのに、足が地面に張りついている。犬の声に隣家の住人が起きたらどうする。窓から庭を見たらどうする。フェンス越しに目が合ったらどうする。


 犬が——止まった。


 二声で鳴き止んだ。


 何事もなかったかのように、住宅街は静寂に戻った。


 葵は弾かれたように裏口に走り込み、ドアを閉めた。


 五分間、キッチンの床にしゃがみ込んだまま動けなかった。


 自室に戻って、足裏を見た。芝生で緑色になっている。草の汁が指の間にまで入り込んでいる。シャワーを浴びたいが、深夜に風呂場の音を立てるわけにはいかない。ウェットティッシュで丁寧に拭いた。


 翌朝。


 母が葵の足を見た。


「葵ちゃん、足の裏、なんか緑っぽくない?」


「え?」


 心臓が止まるかと思った。


「庭に裸足で出たでしょ。虫に刺されるから、ちゃんとサンダル履きなさいよ」


「……あー、うん。洗濯物取り込むとき、つい」


「もう。昨日も蚊がすごかったのよ。お父さんなんか五箇所も刺されて」


 父が無言で腕の虫刺されを掻いている。弟は朝から部活の準備で忙しく、姉の足裏になど興味がない。


 話題はすぐに移った。


 セーフ。


 セーフだが——危なかった。証拠を残すな。身体に痕跡を残すな。芝生は足裏を汚す。次からは気をつけなければ。


 その「次」が当然のように存在する前提で考えている自分に、葵はもう驚かなかった。

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