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【はだかの半径】 〜コインランドリーで服を全部洗濯機に入れたら、友達が増えました〜  作者: ぽんぽこ解放太郎
実家編〜桜ヶ丘の夜〜

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第2話 シフト表

 冷蔵庫の扉に、母のシフト表が貼ってある。


 マグネットで留められたA4の紙。名前が印刷されたフォーマットに、裕子の几帳面な字でシフトが書き込まれている。赤は午前、青は午後、黒は休み。


 葵がそのシフト表をまじまじと見つめるようになったのは、あの夜——廊下を裸で往復した翌日からだった。


 以前は素通りしていた紙切れだ。自分には関係のない情報だと思っていた。母がいつ出勤していつ帰るかなんて、食事の時間にだけ影響する事柄で、それ以上の意味はなかったはずだ。


 今は、違う。


 赤い字で「9-13」と書かれた火曜日。葵は日付を確認した。明日だ。


 父は出勤。母は午前シフトで9時に家を出て、13時に帰宅する。


 弟の陸は——サッカー部の練習が8時から。帰宅は早くて17時。


 つまり。


 9時から13時まで——約4時間。


 家に、葵ひとり。


 その計算が頭の中で自動的に走ったことに、葵自身が驚いた。まるで電車の乗り換えを調べるみたいに、家族のスケジュールを組み合わせて「空白の時間」を割り出している。いつからこんな思考回路ができたのか。昨日の深夜、廊下を往復しただけで。


 翌朝。


 キッチンで朝食の支度をする裕子の後ろ姿を見ながら、葵はトーストをかじっていた。


「今日は午前でしょ?」


「そうよ。一時には帰るから、お昼は冷蔵庫の残り物で適当にやってね」


「うん」


 父が出勤する。「行ってくる」「行ってらっしゃい」玄関のドアが閉まる。


 陸が階段を駆け下りてくる。サッカーバッグを肩にかけて、冷蔵庫からペットボトルの水を二本つかむ。


「姉ちゃん、今日なんかする?」


「別に。家にいる」


「暇人」


「うるさい。行ってらっしゃい」


 陸が出ていく。残りは、葵と裕子の二人。


 9時。裕子がエプロンを外し、鏡で髪を確認する。


「葵ちゃん、14時に歯医者の予約入れてあるからね。忘れないでよ」


「——は?」


「冷蔵庫のシフト表に書いといたでしょ」


 葵はシフト表を見た。確かに赤ペンで「葵歯医者14時」と書いてある。母のスケジュールだけだと思っていた紙に、自分のスケジュールまで管理されていた。十八になっても歯医者の予約を母に入れられる人生。


「行ってきます」


 玄関のドアが閉まる。


 鍵の回る音。裕子のサンダルの足音が遠ざかっていく。門を出る音。道路に出る音。角を曲がって——聞こえなくなった。


 家の中が、静まり返る。


 冷蔵庫のモーター音。壁時計の秒針。窓の外の蝉しぐれ。生活音が消えたあとに残る、家の音だけが耳に届く。


 9時15分。


 葵は立ち上がった。


 キッチンからリビングに移動する。カーテンから朝日が射し込んでいる。テレビは消えている。ソファに父の読みかけの新聞が畳んで置いてある。


 パジャマの裾をつかんだ。


 深呼吸する。何をしようとしているのかは、わかっている。昨夜の延長だ。廊下の往復では足りなかったものの、続き。


 パジャマを脱いだ。Tシャツを頭から抜く。ショートパンツを下ろす。下着を外す。


 自室ではなく——リビングで。


 裸になった身体に、カーテン越しの朝日が当たった。


 昨夜の廊下とは、全てが違った。暗闇ではなく光の中。フローリングではなくカーペットの上。月明かりではなく朝の太陽。そして何より——立っている場所が、家族の共有空間だった。


 ソファの前に立っている。裸で。父がさっきまで座っていたソファの前に。母が昨夜テレビを見ていた場所に。弟が大の字で寝転がっていた床の上に。


 家族の気配が染みついた空間で、裸の自分がいる。その不一致が、肌をざわつかせた。


 影が床に落ちている。カーテン越しの光が、身体の輪郭をぼんやりと床に投影している。肩の線。腰の曲線。胸のふくらみが影にもはっきりと映っていて、自分の身体がこういうシルエットをしていたのかと、他人事のように眺めた。


 影の中の腰のくびれから臀部にかけての曲線が、思っていたよりもずっとはっきりしている。 自分の影を見て、裸であることを改めて確認する。


 テレビのリモコンを取った。


 別につけるつもりはなかった。ただ——裸のまま、日常の動作をしてみたかった。リモコンを手に取る。置く。そんな些細な動作が、裸でやるだけで別の意味を持つ。


 ソファに座った。


 革張りのソファが、直接肌に触れる。服を着ているときは気にしたこともなかった表面の感触——少しひんやりして、でもすぐに体温で温まる革の質感が、太ももの裏から背中にかけてぴったりと貼りつく。


 臀部が革の冷たさを全面で受け止める。服を着ていれば布一枚が緩衝材になるのに、裸だと座面の継ぎ目のステッチまで肌で感じる。


 立ち上がるとき、汗で張りついた臀部の皮膚がぺたりと音を立てて、思わず振り返ってソファを確認した。跡が——残っていないことを確かめて、息をつく。


「こんなことで、こんなにドキドキするなんて」


 独り言が出た。声にすると少し落ち着いた。自分がやっていることの滑稽さが際立つ。一人の家で裸になっているだけだ。犯罪でも何でもない。誰にも迷惑をかけていない。窓の外から見えているわけでもない。


 なのに、心拍数が平常の倍くらいある。


 キッチンに移動した。麦茶を入れようと思った。裸のまま。


 冷蔵庫を開ける。冷気が、裸の身体の前面を直撃した。


 鳥肌が一瞬で全身に広がった。腕、腹、胸、太もも。腕の産毛が一斉に逆立つ。普段は寝ている細い毛が、冷気に反応して直立する。


 腹の表面にも同じ反応が走って、臍の周囲の薄いうぶ毛が全部立ち上がっているのが、見なくてもわかった。胸の表面が冷気で引き締まり、皮膚がきゅっと収縮する感覚。


 冷蔵庫の冷気は容赦がない。服を着ていれば何でもないことが、裸だと全身で受け止めることになる。


 麦茶のボトルを取り出す。グラスに注ぐ。飲む。冷たい液体が喉を通っていくのを、裸の身体がいつもより鮮明に感じ取っている。


 グラスを持つ手が濡れていた。結露だ。冷たいグラスの表面に水滴がつく。手が滑って、グラスが傾いた。麦茶が腹にかかった。冷たい。


 反射的に飛び退く。が——拭くものがない。服を着ていない。タオルを取りに行けばいいのだが、裸の腹を麦茶が伝い落ちていく速度のほうが早い。


 臍から下へ、太ももまで一筋の茶色い線。


 キッチンペーパーを掴んで拭いた。服を着ていれば布が吸ってくれるものを、裸だと自分の身体が容器になる。こぼした液体の行き先が全部、自分だった。


 1時間が経った。


 最初の高揚が少しずつ薄れていく。心拍数が落ち着いてくる。リビングの裸に、身体が馴染み始めている。日差しの角度が変わって、影が短くなっている。壁時計の秒針がいつもの速さに戻る。


 裸でいることが、「特別」ではなくなってくる。


 ——と思った、そのとき。


 チャイム。


 玄関のインターホンが鳴った。


 葵の全身が凍りついた。


 グラスを持ったまま、キッチンの真ん中で石になっている。反射的に身体を縮めたが、隠れる場所も何もない。


 インターホンのモニターが自動で点灯する。小さな画面に、玄関前に立つ人物が映っている。制服を着た男性。宅配便の配達員だった。段ボール箱を持っている。


「お届けものでーす」


 声が、インターホンのスピーカーから聞こえる。


 返事ができない。


 裸だ。今、全裸でキッチンに立っている。玄関のドアの向こうに、男の人が立っている。ドア一枚。たったドア一枚の距離に。


 息を止めた。物音を立ててはいけない。在宅だと気づかれたら、もう一度チャイムを鳴らされる。あるいは声をかけられる。


 配達員がモニターの中で首を傾げている。もう一度ボタンを押す。チャイムが鳴る。二度目の音が、裸の身体に響く。


 待つ。五秒。十秒。


 配達員が諦めた。ポケットからペンと不在票を出す。何かを書いている。ポストに入れる音が聞こえる。足音が遠ざかっていく。


 トラックのエンジン音。発進して、遠ざかる。


 葵の膝が震えていた。


 グラスを持つ手が白くなっている。力を入れすぎている。グラスをカウンターに置いた。指の跡が汗で曇っている。


 心臓が、さっきまでとは比べものにならない速さで打っている。走ったわけでもないのに息が上がっている。


 怖かった。


 見つかるかもしれないという恐怖。インターホンの小さな画面に映った男性の顔。日常そのものの表情で立っている、制服の人。あの人の世界には「裸の女が家の中に立っている」という可能性は存在しない。


 でも——恐怖だけでは、なかった。


 それに気づいたとき、葵は自分の頬が熱くなっているのを感じた。恐怖とは別の回路で、身体が反応している。言語化すると余計に困る種類の感覚だった。


 時計を見る。11時。まだ裕子の帰宅まで2時間近くある。


 でも、もう十分だった。


 パジャマを着る。下着をつける。服を着た瞬間、身体を覆っていた緊張が一気にほどけた。布の感触が、安全の感触になっている。さっきまで裸だった自分がもうここにはいない。服を着た自分が、いつもどおりキッチンに立っている。


 不在票を取りに玄関を開けた。ポストに入っていた紙を確認する。荷物は——母宛て。差出人はカタログ通販の会社。


 裸で心臓が止まりそうになった原因が、通販カタログ。


 午後、母が帰宅する前にリビングを見回した。何か証拠が残っていないか。残っているはずがない。裸でいただけだ。痕跡など残りようがない。それでも確認してしまう自分がいる。


 裕子が帰ってきた。買い物袋をキッチンに置く。


「葵ちゃん、お昼食べた?」


「うん、残り物で」


「えらいえらい。あ、歯医者14時だからね。忘れないでね」


「忘れてない」


 何事もなかった。何も起きていない。裸の自分はもうどこにもいない。


 夜。自室のベッドに横たわる。エアコンは依然として壊れたままで、二階は蒸し暑い。


 窓から夜風が入ってくる。服の上から、肌が風を感じる。朝、裸で感じた風とは厚みが違う。布一枚が、世界との接触をぼやけさせている。


 天井を見つめる。


 冷蔵庫に貼ってある母のシフト表が、目の裏に浮かんでいる。明日は——水曜日。母は午後シフト。13時出勤、18時帰宅。父は通常勤務。陸は部活。


 午前中は陸と二人だが、陸が部活に出れば——8時以降、13時まで5時間。


 5時間。


 今日は4時間で、リビングとキッチンだった。


 五時間あれば——。


 まだ何も決めていない。決めていないのに、シフト表の色分けが頭の中で自動的に組み合わさっていく。赤は午前、青は午後。その隙間に、裸の自分がいる空白の時間が浮かび上がってくる。


 目を閉じた。足裏が、リビングのカーペットの感触を覚えていた。冷蔵庫の冷気が腹に当たった感覚を覚えていた。インターホンが鳴った瞬間の、心臓が喉に飛び上がるあの感覚を覚えていた。


 明日は——どこまで行けるだろう。

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