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【はだかの半径】 〜コインランドリーで服を全部洗濯機に入れたら、友達が増えました〜  作者: ぽんぽこ解放太郎
実家編〜桜ヶ丘の夜〜

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第1話 エアコンが壊れた夜

 実家の匂いは、変わらない。


 玄関を開けた瞬間に鼻の奥に届く、柔軟剤と畳と、かすかな線香の残り香。四ヶ月ぶりに嗅いだそれは、十八年間ずっと空気だと思っていたものの正体だった。


 高瀬葵が大学生になって最初の夏休みに実家へ帰ってきたのは、八月の頭のことだ。都内のワンルームから電車で一時間半。


 桜が丘の住宅街は、離れていた四ヶ月のあいだに何も変わっていなかった。生垣の緑。打ちっぱなしの塀。等間隔に並んだ街灯。


 全部、三月に出ていったときのまま。


 変わったのは、自分のほうだ。


「エアコンがね、壊れてるの」


 母の裕子がそう言ったのは、帰省した夜だった。リビングのエアコンだけは動いている。


「業者さんに来てもらったんだけど、お盆明けまで部品が入らないんですって」


「マジ……?」


「マジよ」


 母が珍しく語尾を揃えてくる。深刻さの表れだった。


 弟の陸は部活で疲れているのか、リビングの床に大の字になって寝転がっている。サッカー部の練習は八月も容赦ない。日に焼けた腕が、四月よりもさらに黒くなっていた。


「姉ちゃんもこっちで寝れば」


 陸が床から声を出す。


「リビングでみんなで雑魚寝とか、修学旅行みたいで面白くない?」


「面白くない」


 葵は即答して階段を上がった。


 二階の廊下に出た瞬間、空気の壁にぶつかる。一階とは明らかに温度が違う。暖かい空気は上に溜まるという中学の理科が、容赦のない実感として肌にまとわりつく。


 自室のドアを開ける。室温計は三十二度を指している。窓は開けてあるが、風がない。八月の夜。空気が、動かない。


 ベッドに横になる。シーツが肌にくっつく。Tシャツの背中が汗で重い。寝返りを打つたびに、身体の下のシーツが湿っているのがわかる。


 時計を見る。二十三時。まだ寝るには早いが、やることもない。スマホをいじるが、画面の光が暑さを増幅させるような気がして閉じた。


 暑い。


 ただ、暑い。


 葵はベッドの上で身を起こし、Tシャツの裾をつかんだ。考えるより先に、脱いでいた。ショートパンツを脱ぐ。下着も——外す。


 全裸でベッドに仰向けになる。


 ほんのわずかだが、楽になった。布が肌に触れていないだけで、体感温度が一度下がったような気がする。汗が蒸発する速度がわずかに上がって、気化熱が身体から逃げていく。


 ブラジャーから解放された胸が、締めつけのない自然な形に戻って、自分の体重で左右にわずかに流れる。


 腹の上を汗の雫が一筋、臍のくぼみに向かってゆっくり下っていく。下着の跡がまだ腰骨のあたりにうっすら残っていて、ゴムの線がくっきりと肌に刻まれていた。


 ずっと締めつけられていた場所が呼吸を取り戻していくようで、身体の隅々まで解かれていく感覚があった。


 天井を見つめる。


 都内のアパートでは、これが当たり前だった。


 六畳一間。ユニットバス。


 鍵をかければ完全に自分だけの空間になるワンルームで、風呂上がりに何も着ないまま髪を乾かし、裸のまま冷蔵庫を開けて麦茶を飲み、ショーツだけ履いて課題をやって、そのまま眠る。


 最初の一週間こそ妙な背徳感があったが、すぐに慣れた。一人暮らしの裸は、単なる合理性の問題だった。服を汚さない。洗濯物が減る。暑くない。それだけのことだ。


 でも——ここは実家だ。


 壁の向こうに弟がいる。階段の下には両親がいる。ドアには鍵がかかっている。安全だ。誰にも見られる心配はない。アパートと同じ条件——のはずだった。


 なのに、同じではなかった。


 肌が空気を感じる精度が、アパートとは違う。ドアの向こうに人の気配があるだけで、裸の肌が空気の流れを読み取ろうとする。廊下を歩く足音がしないか。階段を上がってくる気配はないか。意識が身体の表面に張りついて、離れない。


 安全なのに、安全じゃない感じがする。


 その矛盾が奇妙だった。


 窓から夜風が入ってきた。


 ようやく空気が動いた。湿った風だが、裸の肌の上を通過していくとき、汗の膜を一枚ずつ剥がしていくような感触がある。


 腕。腹。胸。鎖骨。首筋。


 風がなぞった順番を、肌が覚えている。腕の産毛が一斉にそよいだ。普段は意識しない細い毛の一本一本が、風の方向を教えてくれる。


 腕だけではない。太ももの表面の、目に見えるかどうかのうぶ毛までが、風の通過を忠実に記録していた。服を着ていたら絶対に気づかない情報だった。


 時計を見る。午前一時。リビングのテレビの音はもう聞こえない。家族は寝たのだろう。


 トイレに行きたくなった。


 ベッドの脇に脱いだパジャマがある。手を伸ばせば届く距離。それを拾って着ればいいだけの話だ。


 手を伸ばしかけて——止まった。


 自分の手が、宙に浮いている。パジャマの少し手前で。


 頭のどこかが、訊いている。


 ——このまま行ったら、どうなるんだろう。


 鍵のかかった自室から、鍵のかかっていない廊下へ。裸のまま。


 馬鹿な考えだった。意味がない。リスクしかない。合理性のかけらもない。


 パジャマに手を伸ばす。


 ——手はまだ宙にある。パジャマには触れていない。


 立ち上がっていた。


 ドアの鍵に指をかける。ゆっくり回す。金属が枠から外れる感触。小さな音。


 ドアノブを握る。汗で滑る。


 開ける。


 廊下の暗闘が、目の前に広がった。


 一歩目。裸の足が、廊下のフローリングに触れる。


 昼間のフローリングとは違う感触だった。


 二歩目。心臓が、ドクンとした。


 扉一枚。それだけの差が、肌の感度を全く別のものに変えていた。空気の温度が違う。湿度が違う。そして何より——この空気は、自分だけのものではない。廊下の空気が腹の曲面を撫でていった。


 服を着ていれば絶対に触れない場所——臍の下の、薄い皮膚が張ったやわらかい部分。その無防備さに、自分で驚いた。


 弟の部屋のドアが右手に見える。閉まっている。隙間から明かりは漏れていない。寝ている。


 三歩目。四歩目。


 トイレは廊下の突き当たり。


 五歩目。廊下の窓の前を通過する。カーテンの隙間から月明かりが筋になって射し込んでいる。その光が、裸の腕を一瞬だけ白く照らした。


 息を止めた。


 光に触れた瞬間、自分の裸が「ある」ことを突きつけられた。暗闇の中ではぼんやりとしていた自分の輪郭が、月明かりの中でくっきりと浮かび上がる。


 光の筋が胸の丸みの稜線を描いて、影が腹のくびれに落ちている。自分の身体がこんなにもはっきりとした凹凸を持っていることを、服の上からでは知り得なかった。


 六歩目。七歩目。


 トイレのドアに手をかける。心臓の音が、耳の奥で鳴っている。


 用を足す。水を流す。音が——大きい。深夜のトイレの水流音は、昼間の何倍も響くように感じる。


 戻る。自室のドアを閉める。鍵をかける。


 背中をドアに預けて、息を吐いた。


 長い息だった。いつから止めていたのかわからない。


 ベッドに戻る。仰向けになる。天井の、見慣れた染み。


 心拍が戻らない。


 たった八歩だった。所要時間は一分もなかったはずだ。トイレに行って帰ってきただけ。


 なのに、身体が覚えている。廊下の空気の温度。フローリングの感触。月明かりが腕に触れた瞬間の、あの感覚。


「——もう一回」


 声に出していた。小さな声だった。自分の声に驚いて口を閉じたが、もう身体は起き上がっている。


 二度目は、少しだけ長く廊下にいた。


 トイレの前で立ち止まり、廊下の窓からそっとカーテンを開ける。月が出ている。ほぼ満月に近い白い月が、桜が丘の住宅街の屋根を照らしている。


 隣家の二階が見える。窓は暗い。その先の家も、その先も。みんな寝ている。


 みんな寝ている世界で、自分だけが裸で立っている。


 窓ガラスに、うっすらと自分が映っている。輪郭だけの、頼りない影。


 十秒。二十秒。


 弟の部屋のドアの向こうで、かすかに寝返りの気配がした。ベッドの軋む音。


 心臓が跳ね上がる。反射的にドアから離れ、自室に滑り込む。鍵をかける。


 ベッドに横たわる。汗が引いていく。


 風が、さっきより涼しく感じる。


 枕元で充電中のスマホが光った。大学のグループLINEだ。


「今夜暑すぎて死ぬ」


「エアコン最強にしてる」


 葵はスマホを裏返した。エアコンがある部屋で暑いと嘆いている彼女たちは、まさか自分が今、全裸で廊下を往復していたとは思うまい。


 こちらはエアコン故障で裸族を余儀なくされている。文明の格差。


 眠れなかった。


 エアコンは壊れたままだ。お盆明けまで部品は届かない。


 つまり——あと十日以上、この暑さは続く。


 葵は寝返りを打った。窓の外で、セミがもう鳴き始めている。午前三時の、気の早いセミだった。


 目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、足裏がまだ廊下の感触を覚えていた。

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