第12話 校舎のかくれんぼ
九月。夏休みも残り少なくなってきていた。
四日間、外に出ていなかった。
月曜日から雨が続いた。深夜の住宅街も、裏山も、雨の中を裸で歩く勇気はさすがに出なかった。
四日間。たった四日間のはずだった。
なのに身体が——飢えていた。
比喩ではなく、肌が外の空気を求めていた。窓を開けても駄目だった。エアコンの風でも駄目だった。服越しの風は偽物だ。肌が直接空気に触れなければ、この飢えは満たされない。
木曜日、雨は上がったが夜は曇りで蒸し暑く、外出のタイミングを計っているうちに陸が深夜までリビングでサッカー中継を見ていて、結局出られなかった。
そして金曜日。
朝、スマホにLINEが来ていた。高校の同級生のグループ。
『明日の夜、学校集合ね! 帰省メンバーでかくれんぼ大会!! 夜の校舎、先生に許可もらった!! (嘘です不法侵入です)』
送信者は木下彩乃。高校のときのクラスメイト。イベント好きの女子で、帰省のたびに同窓会的な集まりを企画する。メンバーは五人。彩乃、田中翔太、中村あかり、佐藤遼——そして葵。
校舎でかくれんぼ。
高校の校舎。桜が丘高校。ここから自転車で十分。
——裸で、かくれんぼ。
その発想が浮かんだ瞬間、全身に電流が走った。
五日間の飢えが、脳の回路を暴走させている。普段なら「ありえない」と即座に却下する発想を、身体が先に求めている。
冷静になれ——、友人がいる。かくれんぼ、見つかる前提の遊びだ。裸で参加したら——見つかったときに全裸を目撃されることになる。
——でも。
暗い校舎で、かくれんぼで、裸。見つかる前に戻ればいい。着替えを隠しておけばいい。スリルが——五日間の蓄積が——脳を焼いている。
真帆にLINEした。
『明日、高校の同級生でかくれんぼするんだけど。夜の校舎で』
三十秒で返信が来た。
『やばい。裸でやるの? 』
真帆の脳内回路が自分と同じ方向に即座に走っていることに、安心するべきか不安になるべきかわからなかった。
『やらない。やらないけど、やりたい』
『じゃあやりなよ(笑)』
『見つかったらどうすんの』
『見つからなきゃいいじゃん。あんた隠れるの上手いでしょ。一ヶ月裸で夜中歩いてて一回も捕まってないんだから。犬以外には』
——犬。おじさんもいたけど。
土曜日の夜、午後九時。高校の正門前。
五人が集合した。彩乃が塀の低い部分を指差す。「ここから入れる。部活のとき使ってた」全員で塀を乗り越えて、校庭に降り立つ。
夜の校舎は——巨大な闇の塊だった。
窓が並んだ三階建ての建物が、街灯の光を受けて黒いシルエットになっている。昼間は生徒で溢れる場所が、無人の要塞に変貌している。
「ルールね」彩乃がスマホのライトで全員の顔を照らす。「鬼は一人。制限時間十五分。校舎内のみ。屋上は禁止。体育館はOK。見つかった人は鬼と一緒に残りを探す。全員見つかるか、制限時間が来たら終わり」
「鬼は?」翔太が聞く。
「じゃんけん」
——じゃんけん。
じゃんけんをして、葵は——勝った。隠れる側。
鬼は遼になった。遼が壁に向かって数え始める。残りの四人が校舎の中に散っていく。
葵は走った。校舎の中へ。東棟の階段を上がって、二階へ。三階は行き止まりが多い。二階なら逃げ道が多い。
廊下を走る。教室のドアが並んでいる。ここでどれかに入って隠れる——のが普通のかくれんぼだ。
——葵は教室には入らなかった。
二階の廊下の端の、非常階段に通じるドア。その手前の、廊下の暗がり。ここに——着替えを隠す。
持ってきていた。小さなトートバッグに、Tシャツとショートパンツを入れる。下着は着ていない。
見つかりそうになったら、ここに戻って着る。
バッグを非常階段の踊り場に置いた。ここは暗く、誰も来ないであろう場所。
——ここで服を脱いだ。
急いでTシャツを頭から抜く。ショートパンツを下ろす。スニーカーも脱ぐ。すべてバッグに入れる。
裸になった。
夜の校舎の中で。
五日ぶりだった。
全身が——息を吹き返した。
大げさではない。五日間、服の中に閉じ込められていた肌が、一気に解放された。校舎の廊下の空気が裸の身体を包む。床が裸足に少し冷たい。
開放感が、身体の内側から噴き出していた。
これだ。これを五日間待っていた——。肌が空気に触れている。足裏が床に触れている。世界と身体の間に、何もない。
廊下を裸で歩く。高校の廊下を。
コンクリートの壁。掲示板。教室のドアの列。
——夜のガラス窓に自分が映る。裸の自分。高校時代は制服を着て歩いていた廊下を、今は裸で歩いている。
——ハッとした。隠れなければ。
かくれんぼの最中だ。遼が探しに来る。
一階に降りた。西棟の、理科室の前。
理科室のドアを開けた。中は完全な闇。実験台が並んでいる。椅子が整然と。ここなら——実験台の下に隠れれば見つかりにくい。
でも——
身体が、隠れることを拒否していた。五日間の飢えが、「ただ隠れる」ことを許さない。裸になったのに、暗い理科室の実験台の下に丸まっていては意味がない。身体が求めているのは——開放。もっと広い場所。
理科室を出て、廊下を戻る。渡り廊下に出る。
渡り廊下。東棟と西棟を繋ぐ、通路。
月が出ている——曇りが晴れて、半月が渡り廊下のガラス越しに見えている。
月明かりが渡り廊下を薄く照らしている。奥には校庭と中庭が見える。広い空間が横に開けている。
渡り廊下の真ん中に、裸で立った。
ガラスの向こうに月がある。左右に校庭と中庭が広がっている。開放感がある。天井が高く、空間が広い。
——ブリッジ。
身体が勝手に求めていた。五日間の蓄積。ポストの前で初めてやったブリッジ。道路の真ん中でやったブリッジ。真帆に見られたブリッジ。あの開放感を——今、ここで。
手をついた。足を踏ん張った。腰を持ち上げた。
——ブリッジ。
渡り廊下の真ん中で。月明かりの中で。
腹が天井に向かって弧を描く。胸が喉の方向に引き上がり、重力から解放された形になる。
腹の面が大きく開いている。臀部が持ち上がって、太ももの裏側が伸びている。背中がアーチを描き、床に手と足だけが接地している。
開放感が——五日間の蓄積を乗せて、爆発した。
声が出そうになった。出さなかった。でも口が開いていた。無音の叫び。身体の内側から押し出されてくるもの。肌が空気に触れている。
全身の面が外気にさらされている。ブリッジの姿勢は身体の表面積を最大化する。腹も胸も太ももも、すべてが外側に向かって開いている。閉じている場所がない。
十秒。二十秒。
腕が震え始めた。でも下ろせない。もう少し。もう少しだけ。この感覚を。
三十秒。
逆さまの視界で——光が動いた。
スマホのライト。
廊下の向こうから、誰かが近づいてくる。光が渡り廊下の入口を照らしている。
「いたー!!」
遼の声だった。
「え——えっ?」
すぐに遼の声のトーンが、発見の歓喜から困惑に変わった。
——私は逆さまの視界で遼を見ている。遼がスマホのライトを持って、渡り廊下の入口に立っている。
光が——葵を照らしている。ブリッジの姿勢の、裸の葵を。
逆さまの世界で、遼の顔が上下逆さまになっている。口が開いている。目が見開かれている。スマホを持つ手が止まっている。
沈黙——。
「た、高瀬——なんで裸? っていうか何してんの? ブリッジ? 裸でブリッジ??」
遼の声が裏返っている。
葵のブリッジの腕が——限界だった。肘が折れるように曲がり、身体がコンクリートの床に落ちた。仰向けで、背中が床に当たる衝撃。
仰向けの葵の上に、遼のスマホのライトが降ってくる。
——まずい。
起き上がった。身体を丸めて。腕で胸を、膝を折り曲げて下半身を隠す防御姿勢をとった。
「見るな! ライト消して!」
「あ、ごめ——」
遼がスマホを下に向けた。光が床を照らす。葵の裸体は暗がりに戻った。
沈黙。
「……高瀬」
「何」
「マジで何してんの」
「……かくれんぼ」
「いやそうじゃなくて、何で裸で?」
「……罰ゲームで」
我ながら苦しい嘘だった。罰ゲームはまだ何も決まっていない。
「自分との。——いいから、見ないで。着替えるから。着替え取ってくるから」
「おれどうすれば——」
「そこで壁向いてて」
遼が律儀に壁を向いた。
葵は走った。渡り廊下を駆け抜けて、東棟の二階へ。非常階段の踊り場。トートバッグを掴む。Tシャツを被る。ショートパンツを履く。スニーカーに足を突っ込む。
渡り廊下に戻ると、遼がまだ壁を向いていた。
「……もういいよ」
遼が振り返って葵を見た。服を着た葵を。
「あのさ」
「何」
「夢だったってことにしていい?」
「……お願いします」
「おれ今何も見てないし、渡り廊下に裸でブリッジしてる人間なんかいなかった」
「いなかった」
「よし」
遼は——真面目な顔をしていた。本気で記憶を消去しようとしている顔。いい奴だ。遼はいい奴だ。高校のときから知っている。真面目で、空気が読めて、他人の秘密を守れる人間。
そこに彩乃と翔太とあかりが現れた。
「あ、葵見つかったの? 遼はやっ」
「いや……渡り廊下にいたから」彩乃に遼が答える。
「渡り廊下? 隠れ場所としてはイマイチじゃない?」
「……油断した」
葵は笑った。乾いた笑いだった。油断どころの話ではない。渡り廊下の真ん中で裸でブリッジしていた。隠れるどころか最も目立つ姿勢だった。
「なんか汗すごくない? 走った?」あかりが聞く。
「ちょっと……本気で逃げようとして」
「かくれんぼなのに逃げるの? それはもう鬼ごっこだよ」
全員で笑った。葵も笑った。
かくれんぼは続いた。次の鬼は葵になった。壁に向かって百秒数える。
今度は——服を着たまま。
——鬼が裸で探したらどうなるだろう。
一瞬頭をよぎったが、さすがにかくれんぼのルールに反する気がしてやめた。見つけたいのか、隠れたいのか、分からなくなる。
数えながら、さっきの光景を思い出していた。渡り廊下。月明かりの中でのブリッジ。開放感が爆発した瞬間。そして——スマホのライトに照らされた瞬間の、遼の顔。
百を数え終えた。
「もういいかーい」
「もういいよー」
声が校舎に反響する。探しに行く。服を着て。靴を履いて。
廊下を歩きながら、思った。
——ブリッジで見つかるの、これで二回目だ。
一回目は真帆。道路の真ん中で。二回目は遼。渡り廊下で。
ブリッジは見つかる姿勢なのだ。当たり前だ。かくれんぼで腹を天井に向けて全身を開いている人間を、見逃すほうが難しい。
あれは「隠れる」の対極にある行為だ。最大限に露出する行為だ。隠れたいのか見つかりたいのか——自分でもわからない。
翔太を体育館の倉庫で見つけた。あかりを三階の音楽室で見つけた。彩乃は——見つからなかった。制限時間終了。彩乃の勝ち。
「どこにいたの?」
「図書室のカウンターの裏。本棚と壁の隙間」
まともな隠れ場所だった。暗くて狭くて、探す側が見落としそうな場所。
深夜一時。全員で塀を乗り越えて外に出た。
「楽しかったね。また来年もやりたい!」
「来年はもっと人数集めようよ」
手を振って別れる。帰り道、一人で住宅街を服を着て、靴を履いて歩く。
スマホが鳴った。遼からの個別LINE。
『今日のことは墓まで持っていく。安心して』
短い文。遼らしい。
『ありがとう。本当に、本当にありがとう』
帰宅して自室に入り、ドアを閉める。机の上のクワガタの虫かごが見える。クワガタが朽ち木の上にいる。
ベッドに倒れ込んだ。
五日ぶりの裸の時間は——わずか十分足らずだった。でもその十分間の密度は、夜通し歩いた時間に匹敵した。蓄積が一気に放出された。
裸でブリッジしているところを見つかるのは、二回目だ。
もうブリッジはやめようかと思った。見つかる確率が高すぎる。
——でもやめられないだろうな、とも思った。
あの開放感は、ブリッジでしか味わえない。身体を最大限に開いて、すべてをさらけ出す。あの瞬間の、頭が空っぽになる感覚。飢えが消えていく感覚。
目を閉じた。
夏休みはあと少し。




