第13話 はだかの半径
夏休みが終わる。
明日の午後の電車で都内のアパートに戻る。大学の後期が始まる。四ヶ月ぶりに帰ってきた実家を、また離れる。
朝食の席で母が言った。
「あっという間だったわねえ。葵ちゃん、今年の夏は楽しかった?」
——楽しかった。
楽しかった、では全く足りない。この夏に起きたことを表現する言葉を、葵はまだ持っていなかった。
「うん。楽しかった」
「来年も長く帰ってきてね。お母さん寂しいんだから」
弟の陸が味噌汁をすすりながら言った。
「姉ちゃん、クワガタ持って帰るの?」
机の上の虫かご。コクワガタが朽ち木の下に潜っている。裏山で捕まえた、裸の夏の証拠。
「持って帰る。東京で飼う」
「マジ? アパートで?」
「小さいから大丈夫。ゼリー替えるだけだし」
父が新聞を畳みながら言った。
「葵、帰りの電車、何時だ? 駅まで送ろうか」
「明日の十四時の。お願い」
普通の朝食だった。普通の会話だった。この一ヶ月半、毎朝この席に座って、母の味噌汁を飲んできた。
その裏側で、毎晩裸で住宅街を歩いていた。ブリッジしていた。原付に乗っていた。
校舎でかくれんぼの最中に全裸でブリッジして見つかっていた。
家族は何も知らない。
この食卓の下に、もう一つの夏が隠れている。
◆
荷造りをした。衣類に教科書、ノートパソコンと充電器、日用品をバッグに詰める。大学生の帰省の荷物はそれほど多くない。
足裏を見た。
角質が厚くなっている。八月の初めとは別人の足裏だった。アスファルトの凹凸を踏み続けた足裏。芝生の夜露に濡れた、裏山の小川に浸かった、校舎のコンクリートを裸足で走った足裏。
擦り傷の瘡蓋はもう剥がれていた。小さな薄い跡だけが残っている。
◆
最後の夜。
午前一時。家族は寝ている。父のいびき。母の寝息。弟の部屋は暗い。
明日の夕方には東京に戻る。次にここに帰ってくるのは——年末か、春休みか。
——服を脱いだ。
一ヶ月半前の最初の夜と同じ動作。パジャマを脱ぐ。Tシャツを抜く。ショートパンツを下ろす。下着を外す。
裸になる。
あの夜の裸は手探りだった。何が起きるかわからない緊張があった。
今も——同じだ。
一階に降りる。玄関を出る。門を出る。アスファルトに裸足を置く。
歩き出した。
最後の夜の目的地は——決めていなかった。ポストまで5メートル、角まで20メートル、ブロック一周200メートル。コンビニ800メートル。商店街1.2キロ。
この夏の間に、「半径」は少しずつ広がった。
最初は廊下の一往復だった。自室からトイレまでの距離。それが部屋全体になり、一階になり、庭になり、道路になり、コンビニになり、商店街になった。
5メートルの半径から、1.2キロの半径へ。
今夜は——最後だから。
どこまで行けるだろう。
足が知っている道を歩いた。自販機の前を小走りで通過する。センサーライトを避けて道路の反対側を歩く。真帆と一緒に覚えたルート。
コンビニを通過した。駐車場の暗がりに、あの夜アイスを食べた場所がある。
商店街に入った。シャッターの列。靴屋のショーウインドウに裸の自分が映る。パン屋。花屋。健太とお茶を飲んだベンチ。
ベンチの前を通り過ぎた。今夜は座らない。もっと先に。
商店街を抜けた。初めて来る道。駅の近くまで来ている。自宅から約1.5キロ。
駅前のロータリー。タクシー乗り場。バス停。誰もいない。午前二時の駅前は完全に無人だった。
もう少し先。
駅を過ぎる。線路沿いの道。住宅街が途切れて、田んぼが広がる場所に出た。
——稲が伸びている。九月の稲は穂が垂れ始めている。夜の闇の中では色はわからないが、稲と水と土の匂いが混ざっている。住宅街とは全く違う空気。
あぜ道に足を踏み入れた。
柔らかい土。冷たくて湿っている。
あぜ道を歩いた。
頭上に空が広がっている。住宅街の空とは広さが違った。建物がないから、遠くの空まで見える。田んぼの真ん中まで来れば、空が大きくなる。星が——見える。建物の光に邪魔されていた星が、ここでは少しだけ多く見える。
田んぼの上を渡ってくる風が吹き、稲穂が揺れる音がした。さらさらという、何千もの葉が擦れ合う音。
裸の身体に、稲の風が当たった。
住宅街の風とも、裏山の風とも違った。田んぼの風は遮るものがないまっすぐな風。身体の正面全体に、均一に当たる。全身の毛が一斉に同じ方向を向いている。
立ち止まった。
田んぼの真ん中で、裸で立っている。周囲360度、人の気配がない。建物がない。壁がない。天井がない。空と地面だけがある。
これが——私の最大半径だ。
自宅から約2キロ。八月の最初の夜は、廊下の一往復だった。それがここまで来た。
——ただここで立っていた。
両手を下ろして、足を肩幅に開いて、まっすぐ立つ。風を受ける。星を見上げる。稲穂の音を聞く。土の冷たさを足裏で感じる。
裸で——ただ立つ。世界の中に。何もしない。
ただ——ここにいる。
この夏のすべてが、この一瞬に集約されている。
廊下の一往復。リビングのソファ。庭の月明かり。塀の上の健太。ポストの五メートル。犬のおじさん。ブロック一周。裏山の小川。木の根元にいたクワガタ。
——真帆との滑り台のキュッ。原付の三十キロの風。コンビニのガラス。商店街のベンチ。健太の「おーいお茶」。校舎のかくれんぼ。遼の「元気そうでよかった」
全部が、この足裏の上にある。この肌の上にある。この身体の中にある。
服を脱いだから知れたこと。裸にならなければ感じられなかったこと。
全部が——裸の身体が集めた情報だ。
十分間、立っていた。
風が何度か向きを変えた。そのたびに身体の産毛がなびく方向が変わる。足裏の土が少しずつ体温で温まっている。星が——少し動いた。地球が回っている。自分が裸で立っている間にも、地球は回り続けている。
——帰ろう。
あぜ道を戻り、線路沿いの道から駅前を抜けて商店街に入った。
商店街のベンチの前で——足が止まった。
健太がいた。
ベンチに座っている。コンビニの袋を持って。前と同じ格好。Tシャツにジーンズにサンダル。
目が合った。
健太は——驚かなかった。もう驚かない。裸の葵を見ることに慣れた——わけではないだろう。でも、最初の塀の上のときの「驚愕」はもうない。
「……また会ったね」
葵が言った。声が出た。前回は「うん」しか言えなかった。今夜は——もう少し言葉がある。
「今日で最後なんだ」
「最後?」
「帰るの。明日。東京に」
「……そうか」
健太が立ち上がった。コンビニの袋からペットボトルを出す。前と同じ。お茶。
「とりあえず——」
「お茶?」
「……うん」
二人でベンチに座った。一メートルの距離。前と同じ。裸の葵と着衣の健太。深夜の商店街のベンチ。
お茶を飲んだ。冷たい。美味しい。
「今日はどこまで行ってたの」健太が前を向いたまま聞いた。
「田んぼ」
「田んぼ? 駅の向こうの?」
「うん。二キロくらい歩いた」
「……裸で」
「裸で」
沈黙。
「高瀬」
「何?」
「この夏——ずっとやってたんだな」
「うん。——ずっと」
「なんでかは、まだわかんない?」
「……少しだけ、わかるようになった」
健太が初めてこちらを見た。横目で。一瞬だけ。
「何がわかった?」
「裸でいると、世界が違う。服を着ていると、布一枚が全部を遮る。風も。温度も。質感も。裸だと——全部が直接届く。身体が世界と直接繋がってる感じがする。それが——」
言葉が見つからない。
「——気持ちいい?」
健太が代わりに言った。
葵は首を横に振った。
「気持ちいいとは違う。もっと——根っこの方。『生きてる』って感じがする」
生きてる。自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。でもそれが一番近かった。裸で外にいるとき、身体の隅々までセンサーが起動して、世界の情報を吸い込んでいる。それは「気持ちいい」という快楽とは次元が違う。もっと原始的な——存在の感覚。
自分で言葉にしてみて、自分自身初めて納得できた気がした。
健太は何も言わなかった。しばらくお茶を飲んでいた。
「俺も——コンビニ行くの、そういうことかもしれない」
「え?」
「眠れない夜に外に出るとさ。夜の空気が——なんか、違うんだよな。部屋の中にいるときと。外に出ただけで、頭の中のノイズが消える。意味はないんだけど、外を歩くと——自分がちゃんとここにいる感じがする」
葵は健太を見た。前を向いている横顔。ペットボトルを持つ手。
「健太」
「何」
「——ありがとう」
「何が」
「黙っててくれて。あの朝から——ずっと」
健太は頷いた。小さく。
「言う理由がないから」
それだけだった。シンプルな答え。
葵の秘密は葵のものだ。他人に共有する理由がない。健太はそう判断したのだ。判断して、黙って、ここにいる。
「帰るか」
健太が立ち上がった。
「うん」
二人で商店街を歩く。健太が半歩前で、葵が裸で後ろを歩く。この並びが、もう自然になっている。
住宅街に入る。角の電柱。マンホールの蓋。全部、足裏が覚えている。この夜の地図を、——明日からは歩けなくなる。
自宅の前に着いた。
健太が立ち止まった。振り返る。今夜は——前と違って、目を逸らさなかった。
三秒間、葵を見た。裸の葵を。
——目。肩。胸。腹。太もも。足。
そして顔に戻ってきた。
「——元気でな」
「……うん」
「冬、帰ってくるだろ」
「たぶん」
「じゃあ——冬にまた会うかもな」
「……かもね」
健太が自分の家に歩いていく。門をくぐる。振り返る——もう一度だけ。手を小さく上げる。それから玄関に消える。
葵は門の前に立っていた。裸で。最後の夜の、最後の時間。
門をくぐった。玄関のドアを開ける。中に入って、鍵をかける。
二階に上がり、自室に入る。
虫かごの中のクワガタが、ゼリーを食べている。小さな角が透明のゼリーに突き刺さっている。この虫は明日、一緒に東京に行く。裏山の夏を、ワンルームに連れていく。
パジャマを着た。
ベッドに横たわって天井を見ると、見慣れた染みがある。
明日、この部屋を出る。アパートに戻る。六畳一間のワンルーム。
——ワンルームでは裸でいることが「当たり前」だった。風呂上がりに裸のまま過ごすことに、何の感動もなかった。合理性の問題。服を着る必要がないから着ない。それだけのこと。
あの「それだけ」が、この夏で変わるだろうか。
ワンルームで裸でいることの意味が、変わるだろうか。壁と天井に囲まれた安全な裸と、夜の道路に剥き出しの裸。その差を知ってしまった身体は、ワンルームの裸に物足りなさを感じるだろうか。
東京にも夜はある。東京にも道路はある。東京にも——。
考えるのを止めた。
窓の外が——白み始めていた。
東の空が、うっすらと藍色から薄紫に変わっている。夜が明けようとしている。この夏最後の夜が、終わろうとしている。
——目を閉じた。
足裏が覚えている。この夏のすべてを。
足裏が描いた地図。裸の身体が記録した、ひと夏の半径。
数歩から始まって、二キロまで広がった半径。
冬になったら——。
冬に帰ってきたら——。
半径は、どこまで広がるだろう。
眠りに落ちる直前、虫かごの中でクワガタが動く音が聞こえた。小さな角が、朽ち木を鳴らす音。
夏が終わる。
でも——半径は、まだ広がり続けている。
無事に『裸の半径』を、完結させることが出来ました。
皆さまに少しでも楽しんでいただけたらと思いながら、私自身、楽しく書いてきました。
実はこのお話、ちょっと私の実体験も織り交ぜてるんです… (。//ω//。)
よろしければ、ご評価や、ブックマークいただけると嬉しいです!
ご反響が少しでもあるようでしたら、東京編の構想があるので、皆さんにお届けできたらいいなと思っています。
これからもどうぞよろしくお願いします!




