005 私を見つけてくれて……
エミリー、それが私の名前だと知っている。
おはよう、それが朝の挨拶だって知っている。
いただきます、それが食事をする時に使う言葉だと知っている。
ありがとう、それが感謝を示す言葉だと知っている。
好き、嫌い、その言葉の意味を何となく理解できていた。
それでも私へと向けられる人の言葉はいつまでも理解する事はできなかった。
「あいつ何も喋らないんだぜ。何言っても、本を取り上げても、髪引っ張っても唸り声しかあげない」
「なんか、あの顔とか髪とか不気味よね……それに怖くない?」
「あんなんだから、いつまでも誰からももらってもらえないんだ」
「私たちより注目されているのにね……私、あの子、嫌いかも……」
「僕も苦手かも……あの子、先生のいう事聞いていないんだよね。悪い子だよ」
自分と同じ年頃の4人の男女がひそひそと声を漏らし、こちらに視線を向けていた。
彼らの会話の内容はよく分からないけれど、その表情や冷ややかな目に込められた意味を彼女は理解していた。
「エミリー、お前は悪い子だ。先生に謝れよ。何か喋れよ。バーカ、バーカ!」
突然、自分の耳元で大声を出してきた男の子がいて、エミリーはとっさに身を引いてやり場なく腕を前に持ってきていた。
「……」
その男の子の様子を伺い、しばらく見つめていると、彼の後ろで口を引きつり何とも言えない笑みを浮かべる三人がいる。
「ほら、やっぱり喋らない。ほんとにバカなのかも」
「だから捨てられたんだよ、きっと」
「そうよね。エミリー、あなたは悪い子だから捨てられたのよー。ちゃんと、聞こえているの?」
途端笑い出す四人の姿が目に入ったが、その笑いは決していい物ではないと分かるので、彼女は悔しくて悲しくて、彼らを遠ざけたくて威嚇するように睨み返した。
「ううっ、がぁあああ! うがあぁあああ! あぁああっ!」
かみしめた歯を見せて、姿勢を低くしてその場で唸った。
「なんだこいつ……」
「怖い……」
「もう行こうぜ!」
「まるで獣みたいだぁ!」
驚いている、怖がっている、彼らのそんな感情が分かる。
あの表情を最近、よく目にするようになっていた。
それはここにいる子供たちだけでなく私を育ててくれた先生たちも……
「こら、そこの四人! 彼女に嫌がらせして。ダメでしょ。ちゃんと仲良くしなさい」
「だけど……そんなの無理だよ!」
「どうして……?」
「あの子、怖いもん……あんな感じで睨んできて、叫んできて……」
今もまだ警戒を解かず同じ姿勢で相手の様子を伺っていたエミリーは、女の子の視線に気づき、小さく呻き返した。
「絶対、それに喋らないし、何考えているか分からないよ!」
「僕たちには無理だよ……怖かった……」
「それなら……彼女にあんな事をしなければいいのよ。関わらなければいいの。分かった? もう、先生をあの子の事で困らせないでよね」
「うん……」
「はーい……」
「分かりました」
「はい、分かった……」
その後、俯いていた四人の頭を一人ずつなでていく先生の姿が映り込んでいた。
「うん、みんないい子みたいね。ちゃんと先生のいう事聞いて偉いわねー」
四人が去った後、チラッとこちらへと向けられる視線はそのまま私以外の物事に向けられた。先生は私には、叱る事も慰める事も頭をなでる事もしないのだ。
広くて狭い一室の中でその皆の態度に不満に思うけれど、日々、不信と虚しさ、怒り、よくわからない穴しさが募るけれど……私はいつもの様にまた一人、読めない本、つまらないおもちゃを手に取るのだ。一人で居続けるのだ。
「……」
あの頃の自分の感覚はこうだった。
私は一人だけ別の生き物。たくさんの人間の中にエイリアンが紛れ込んでいて、そんな得体のしれない謎の生物に皆、どうしていいか分からず無条件で嫌い、怖がり、距離を置く。
私は仲間もなく一人だけの自分の身を必死に守ろうとしている、そんな感じ……
同じ言語を話す人間たちは、姿、形の違う私を受け入れる事はできない。
大人たちが無理やりエイリアンのような私と仲良くするよう指示しても、子供の彼らにはその違和感を隠す事はできず自分と関われば顔を引きつらせていた。
先生すら異質である私にもう関わろうとしない……
明らかに分かる自分と周りとの差に、私は私の行動を制限し狭い世界でずっと周りで、日々移り変わる子供たちの手を引かれていく笑顔を眺めていた。うれし涙を捉えていた。
「今日から、私たちのお家においで。坊や」
「うん! 僕を見つけてくれてありがとう」
彼らは、あの一瞬、何を感じているのだろう?
いつか私にもあの光景が現実になる日が来るのだろうか?
そう思っていたあの日から、随分時間が経ち一五となる年の頃、やっと私にも迎えが来た。
「私、を、見つけて、くれて……あり、がとう!」
私を拒否する事なく抱きしめてくれた彼女に安堵し、それだけで救われた気がして、涙したあの瞬間、確かに私は幸福感を得ていた。
「こちらこそ、ここにいてくれてありがとう。エミリー」
そしてこれからは、きっと彼らと共にそんな軽くなって心や体が浮あがる様な気持ちのまま過ごしていけるのだと根拠のない妄想を抱いていた。
しかし、エミリーの生活は決していい物へと変化はしなかった――
連れられて来た自然豊かな森の中にたたずむ三人暮らしには十分な大きさの家。
あの施設よりも静かな心地いい場所。
「ここがあなたの家よ。エミリー。今日からあなたは私の素敵な娘、私の大好きな服を着せてあげるわ。あなたなら絶対にあうからねー」
彼女は日本語で何か話していた。
「そして、私たちの手と足となって色々お願いする事になるわ。よろしくね」
「よろし、く……?」
「あら、そう言えば言葉が理解のできなかったわね。それならこれから一緒に言葉を覚えて行きましょうね」
首を傾げるエミリーにその後、英語で話してくれる彼女がいて、エミリーは久しぶりの会話にぎこちなくも一言返したのだ。
「はい」
五年の歳月のうちに私は養母のリサのおかげで日本語を理解する事ができていた。
しかし、その彼女は病気を患っていて、毎日、薬を飲んでいた彼女の姿を見ていた。
そしてよく言っていた。
「私は、いつか死んでしまうのよ。その時はあなたがこの家を守ってね。教えた事、ちゃんとしていくのよ」
「はい」
そう答える私を見て彼女はにこりと微笑んでいた。
「よかったわ。エミリーは、本当にいい子ね。私の自慢の娘だわ」
はきはきと喋っていた彼女の容体は月日と共に弱っていき、五年目の秋の終わりに寝たきりとなった。
そして、食事もろくにとれなくなり、彼女は自分の死が近いと悟り私に擦れた声音で言葉を伝えた。
「エミリー、後の事は……任せたわね……」
「分かったわ。お義母さん……」
私はベッドから垂れている彼女の手を握り頷いた。
「あの人の事、心配だからちゃんと見ていてね」
「うん」
「私はもうすぐ亡くなるけど、しっかり生きるのよ。彼と一緒にいてあげてね」
「うん……お義母さん、今までありがとう。あの時、私を見つけてくれてありがとう……お義母さんのおかげでいい子になれた」
涙する私の頭をそっとなでる彼女がいた。
「そうね」
「私は話せるようになったから、皆に溶け込めるようになった。お母さんのおかげだよ」
「そうね、そうね……私のおかげねー」
死を恐れていないようににこやかに笑っていた養母の姿が今も頭から離れなかった。
道を示してくれたそんな母は凍える様な冬の時期に息を引き取った。
彼女の死後、養父との関係は相変わらず冷ややかなもので、まるで他人といる様な感覚で私はどうしようもなく、養母との日々を懐かしんではあふれる孤独感を癒していた。
そんなある日、
「おまえはまるで……人形のようだ……」
冬を越し春へと季節は移りかわった頃、私を愛してくれた彼女とは違い、まともに話しすらしてくれなかった養父、ジョージは朝、庭の掃除をしている自分にいきなりその言葉を告げた。
「お前はこの家を出て行けばいい……好きなようにすればいい。もう、毎日のように料理を作ったり、掃除したり、洗濯とかしなくていい……俺に無理に関わろうとするな」
「なんで? なんで、そんなこと言うの? 私はただ役に立ちたいだけなのに……」
そう言葉を漏らすと、白髪交じりの自分と同じような色素の薄い金髪をくしゃくしゃにしていて、私は彼が少し苛立っているのだと分かった。
「俺はそんな事、お前に望んでない。俺はリサじゃないんだ。お前のその気遣いなどいらん」
自分の気持ちが少しは分かると思っていた彼は、決して私の心を満たしてはくれなかった。私のする事を無駄だと思っているのか、自分が何かをする事が……自分の存在自体が邪魔だと思っているのか、いつだって私の行動を拒んできた。
決して受け入れてはくれなかった。
優しかったのは、彼女だけだった。
「お義母さんは、そんなこと言わなかった」
「俺とあいつは違う! お前はいつもあいつのいう事を聞いて、自分が異常だという事にも気づいていない。もう、見ていられない……」
「そんなに私が嫌い? 見ていられない程に私が嫌い? この顔が嫌い?」
「それは……今のお前を見ていると不快だ……」
遠慮した言い方で黙り込む養父の姿を見て、本心から自分を嫌っていると分かる。
引き取られた頃から、それは気づいている。
養母がいなくなってしまった今では私の存在の意味も無くなってしまった。
あの孤児院でのように私は厄介者、いなくなればいいのだ。
消えてしまえばいいのだ。そうすれば彼は楽になるのだ。
全て、私がいけないのだと、それも気づいている。
今さら受け止めてと、自分を理解してと、危険じゃないと嫌わないでと、訴える年でもなかったしそれを言ってしまる程、私は彼にどうこうとしてほしいという感情もなかった。
そう、お互いに他人だったのだ。
「分かったわ……そんなに私が嫌いなのなら仕方がないわ」
いつまで私の居場所は無く、このまま時間が過ぎていくのだろうか?
孤児院にいた時に持ったそんな感覚が養母が亡くなった時から返ってきていた。
「私もあなたの事なんか好きじゃなかった。だから、ここから出て行ってあげる。それで満足よね。あなたがそう言うのならそうするわ。面倒を見てもらっているだけの私はそれを拒否する権利はないもの……」
「お前は……そんな事しか言えないのか? ずっと、家に閉じ込められていたお前にそんな事できるものか。お前は自分の意思がない人形だ。それを自覚しろ」
「私は人形なんかじゃない、私の顔は、髪は確かに異質かもしれない。でも、それはあなたも同じだって思って、分かってくれると思っていたのに……」
「エミリー……それは……」
「私が人形ならあなたも同じような者、異質な存在よ!」
エミリーはその場を駆け出し自分の部屋へと逃げ込んだ。
鍵を閉め、そして深呼吸した後、彼女はすぐに家から出る支度をし始めるのだった。
「エミリー、どこに行くつもりだ!」
リビングでキセルを手にしていた難しい顔をした養父の姿を捉え、目があうと一度足を止めてエミリーは彼へと睨み返した。
「言われた通り、私はここを出て行きます! 今日までお世話になりました。お義父さん」
踵反し速足で駆け出す彼女の後を養父が引きとめようと追いかけてくる。
だが、エミリーは足を止める事なく玄関へと向かった。
「違う、出て行くな。さっきのは、そう言う意味で言ったんじゃないんだ。エミリー」
そんな言葉は嘘だ。彼は私の事が嫌いなのは分かっている。
だから……私をおいだそうとしているんだ。自分でそう言ったくせに……
「さようなら、お義父さん」
「まて! おい! 」
少量のお金とハンカチ着替えが入った小さな水色のカバンを手に持ち、エミリーは玄関の外へと足を踏み出した。振り返ると養父が戸の前に顔をちらつかせているが、彼女を追いかけてくる事はなかった。
私の第二の居場所……私をここに連れてきてくれたお義母さんの家。
きっと、もうこの場所にくる事はないのだろう……
「これから、私はどうなるのかしら……」
家が見えなくなったところで足を緩め、ひたすら木々に囲まれた小道を進んでいった。
「あ!」
横道から飛び出ていた枝に足を取られ彼女は地に膝と手を付けてしまった。
その時に持っていたカバンの中身も散らばり、彼女はため息をついて立ち上がった。
「あ……汚れてしまったわ。お義母さんが気に入っていた服なのに……何かふく物は……」
地に落ちていた白いハンカチを目にして、エミリーは手を伸ばしかけるも直後、突風が吹き左側のがけになっている方にひらひらと飛んでいき、木々にあたりながら葉っぱに日かかった。
「あんなところに……あれじゃあ、とれないわ……」
肩を落としたエミリーは、ふと真正面に顔を向け、少し見下ろすと遠くの方に沢山の家が広がる街を眺め、ふとこう呟いた。
「あそこに行ってみよう。きっと、なるようになる。そうじゃなければ……」
私は消えてしまうだけだ……
「どっちにしても私はもう帰れない。私は必要とされていない。あの人にとって邪魔な存在……」
次第に速度を落とす足はそこで止まり、エミリーは悩ましげな表情で考え込んだ。
「どこにいても私の居場所はないのかもしれない。でも……仕方がない事じゃない……」
彼女は少し不安気に、その引き返したくなる重い足を前へと踏み出していくのだった。
最初は点々と一般的な日本の住居だけがある道を通っていたが、やがて自分が住んでいた家のような洋風の建物が見え始め、辺りには様々な店も見えるようになっていた。
「お義母さんが言ったように、あの家にある物はここにはいっぱいあるのね……」
そのたくさんのキラキラした物を見つけては、エミリーは感動しすっかり自分が悩んでいた事を忘れていた。
住宅街から離れたショッピングロードへと足を踏み入れて言ったエミリーは、ガラス越しから見えるそのアートのような様々な商品に目がいき、時々人の肩に当たりながらも、
「あ、すみません」
一本道の奥の方へと進んでいく。時々、気になった店で足を止めそれからまた歩き出す。
パン屋さんがいっぱいだわ……
それに花さん、ケーキ屋さん、お菓子屋さん、服屋さんも……
「すごい……すごいわ! まるでここは夢のよう。私は夢を見ているのかしら?」
別世界のような洋風の街に感動する彼女がいた。
こちらへと向けられる視線や声は、決して悪いものではなかった――
「ようこそ、お嬢さん。この街のようこそ!」
「は、い……」
通りざまの人からの声にエミリーは、戸惑いがちに相手に顔を向けその表情が穏やかに笑みに気づき、そっと彼女も笑い返したのだ。
そして、過ぎに違う方向からいきなり声をかけられた。
「あら、そこの綺麗なお嬢ちゃん、このチェックのワンピースはいかがかしら。きっとよく似合うと思いますよー」
顔を前に戻すと、服屋さんの前に立つカチューシャを付けた髪の長いおしゃれな女性が手をふって微笑みかけてきていた。
「あ、いえ……結構です。でも素敵ですね。そのベルトが私好みです」
「そうですか。それはありがとうねー」
そして、次にパン屋さん前で事だ。
「三時のおやつにどうだい、そこのお嬢さん? うちのおすすめはクロワッサンだよー」
「そういえば、もうそんな時間になるのね。お腹も少しすいているけど……あまりお金をもっていなくて、今日はいいです」
「そうかい? ではまた、待っていますよ」
ちょうどそこで、そのパン屋さんの入り口から女の子とその母親らしき親子が出てきた。
「まいどー、ありがとうございました」
店の者の声の後、こんな言葉が聞こえてきた。
「お母さん、見て、見て! 外人さんだよ」
「こら、指を刺したら失礼でしょ」
女の子を引き連れた母親と視線が重なり、その時、穏やかな表情で相手からお辞儀された。
その光景に驚きながらとっさにエミリーも頭を軽く下げ、その後、にこにこ手を振ってきた女の子に手を振り返した。
その時に自然に頬が緩む自分を感じ、今までの気持ちが嘘のように違い心浮くような感覚へと変わっていった。
夕暮れ時、歩き疲れ壁に寄り添うように休んでいると、向かいの店から店内に置かれているあるガラスの置物が夕日と反射し、キラキラとエミリーの目に入り込んできていた。
「あれは、馬かしら。翼の生えた青い馬……」
少し気になりエミリーは、ガラス越しにその店内を覗き込んだ。
「わあ……素敵ね」
そこには大きなもの小さな物、自然に存在するもの架空の物、メルヘンな物などたくさんの色が入り混じった光景で、ガラスでできた商品が棚や机に置かれていた。
外から見えたペガサスの像もこの店の商品の一部のようで値段はよく分からなかったが、付けられている値札にはたくさんの数字が並んでいた。
「そういえば、うちにもこのようなフクロウの置物があったかしら。きっとここでお母さんも買ったのね」
エミリーその店に入ろうと体を翻したのだが、その時、入り口の戸につけられた鈴がなる。
店からでるある者と彼女はぶつかってしまったのだ。
「キャ……」
「おぉ!」
お互いに地面に倒れ込んで、立ち上がり視線を前に向けるとそこには黒い帽子、黒いコート、黒い靴をはいた黒髪の若者が大きく見開いた目をこちらへと向けていた。
彼は地についたままで、手元を見てみると、そのガラス細工の店で買ったのか、その水色の何かが箱から飛び出している様だった。
それは羽の生えた女の子の小さな人形で……近くには羽の一部の破片が飛び散っていた。
「あー、なんてこった……」
「すみません。私のせいで……」
途端に漏れる男の声に、エミリーは瞬時に謝り同時に、どうすればいいのだろうかと不安の中で、自分の鼓動が早まるのを感じていた。
男はそこで立ち上がりエミリーの肩に手を置いてから口を開いた。
「まるで……人形のように美しい……」
「え……」
彼の視線は、ガラス人形ではなくエミリーに向けられていた。
「素晴らしい、僕はなんてものを目にしてしまったんだろうか。もう芸術だ! アート!」
まるで先程の自分の様に興奮する黒いコートの男に不信感を持った彼女は……
「あの、では私はこれで失礼します……」
言葉の後にさっと後方へと駆け出した。
「あ、待って!」
振り返るとガラス人形を片手に追いかけてくる男の姿があった。
「来ないでください!」
「いや、それは無理! 君こそ一旦、止まってくれないかい?」
「いえ、お断りします!」
「どうして、ですか?」
再び先ほどのパン屋さんの場所まで来た時、今も店の前でたっている男性がこちらに気づいてくれて、その男を取り押さえようとしてくれた。
「大丈夫かい。お嬢さん、このまま一気に遠くに逃げるんだ! さあ、急げ!」
「はい! ありがとうございます!」
「え、ちょっと、パン屋のおじさん!?」
「なにしているんだ、お前――ついに――なのか!」
「いや、誤解――って。僕はただ――だけですって!」
後ろから何やら途切れ途切れに、声が聞こえているが彼女はただひたすらに走りやがて通りを抜け出し住宅地へと戻って来た。
「ここまで来たら、大丈夫よね……」
息を突いた後、エミリーは近くにあった既にシャッターが下りた店の前にあったベンチへとかけて一休みした。
赤や橙、暗闇が入り混じる空を見て、エミリーはどこかで休める場所が必要だとここでやっと考えた。そして……
「お腹がすいたわ……何か食べないと……」
お腹に手を当て彼女はそう呟いた。
「そうだ。さっきのパン屋さんに行きましょう。まだやっているといいけど……」
先ほどの男にまた会うか警戒しながら、魅せ一つ一つの光が色濃く照らし出す通りを進んでいった。
既にやっていない店も確認しながらも、エミリーは今も明かりがついているパン屋さんを視界にとらえた。その時には、見せ名前に立っていた男性の姿はなかったが、窓からそのおじさんの姿があり、エミリーはそっと見せの中へと入った。
その中には四人程の人影がところどころに見えていた。
「おや、外国のお嬢さん。さっきは災難だったね」
扉を開き中へと入ってきたエミリーに中に入っていた先程のおじさんはパンの補充をしているようで、その後、奥の厨房から中年の女性が顔を出してきた。
「旦那から、聞いたよ。坊ちゃんがお前さんを追いかけたそうだね。ほんとにあの子は昔から……」
ちらっと自分の顔や全体を見回してくる彼女がいた。
そしてレジに立っていた若い女性もこちらをじっと見つめてくるのだ。
「でもまあ、その気持ちが分からないでもないけど……きっともう大丈夫だと思うわよ。私たちで、もうあなたに会う事はするなって彼に言っておいたから。あなたも怖かったでしょ。突然追いかけられて」
「はい……あの、聞いているとあなた方はあの男の人を知っているようですが、知りあいなんですか?」
「あぁ、そりゃ、ここらへんにすむ者なら、誰だって知っているさ。彼の住む家はこの街で一番の立派な洋風の屋敷だからね。彼の父親はこの街を築いた何もなかったさびれた地を変えた救世主のような人だったよ」
「今は暗いから坊ちゃんの家の光がぼんやり見えると思うわよ」
「彼が家にいるならその明かりが見えるはずだから、それを確認して安心して家に帰りなさい」
三人の言葉を聞いてエミリーは安堵する事ができた。
「はい、ありがとうございます」
そこでエミリーのおかかがぐぅーっと小さく音を立てて、そっと彼女はお腹を押さえた。
「あの……その前にお腹がすいてしまって、先ほどあなたが言っていたパンとフランスパンをくれませんか? お腹がすてしまって……お金なら少量手元にあります」
「ああ、もちろん!」
「お嬢さん、それじゃあ……クロワッサン一袋も買えないよ」
「え……そうなんですか?」
小銭ばっかりで、全部合わせて五十円いくかいかないかだよ。
「見事に一円ばっかりね。これどうしたの……?」
レジの女性に聞かれ、エミリーは養母とのこんな会話を思い返していた。
――エミリー、こんなに集めてすごいねぇ。感心するわ。
――本当、お母さん! 毎日、この家の事頑張っています。一人で何でもできるように私はなっているでしょうか。
――ああ、それはもちろん。あなたは、だんだんとしっかりしてきましたよ。
――よかったです。
――働くってこういう事だからね。お前がおいしいご飯を食べられるのは私たちが稼いだお金のおかげだよ。つまり私たちのおかげって事ね。よく覚えておいてね。
――はい、お義母さん。私もいつかは一人で生きていけるようになりたいです。
――きっと、やがてそういう日が来ますよ。
そう言ってくれた母の言葉は嘘だったのか?
いつもの様に私を思って言ってくれた言葉だったの?
「お嬢さん、あなたは一人かい? 他の者は? 家族は? ここへはどうやって来たんだい?」
「あの……私は、一人になってしまったんです。森を抜けてここへここまで来たんです」
「森を……まさかあの家の……娘がいたのか?」
「あなた、その話は……」
「ああ、そうだな……」
どっか様子がおかしい二人を見て、レジの女性はさっとこちらへと顔を向けた。
「あなた、何か事情があるみたいだね。これから行く当てはあるのかい?」
「いいえ……」
「これから一人で生きていくには楽必要があるけど、その覚悟はあるのかい?」
「それはもちろんです。そのつもりできたんです。でも、思ってもみない事態が起きてしまって……自分でもどうすればいいのか分かりません」
養母は言っていた。
生きていくには、お金が必要だと……まずは、働いてそのお金を稼がなければ……
「あの! ここで働かしてくれませんか! 私いくところもなくて、お金が必要なんです! 頑張りますから!」
「それは……ちょっと難しいかな。お金の単位すら理解していない者に仕事は任せられないよ。こっちも商売だからね」
「そんな……」
近く言いたおばさんと、おじさんも控えめにこう言ってくる。
「悪いが、他を探してくれないか?」
「ごめんね、お嬢さん。うちも人を雇う余裕もなくてね。従業員、一人雇うだけで精一杯で、家族三人で何とかやっている店なんだよ」
「はい……それは仕方ありません……」
「何かあったら、私たちの所においで。パンくらいしかないけどあまり物でよかったら食べさせてあげるから」
「気遣い、ありがとうございます」
「いえいえ、お互い様だよ。今日の所はこのパンをただであげるから、今日の所はどこか休める宿を探すべきだよ」
「はい、では、これで失礼します。パン大事に食べます。ありがとうございます」
エミリーは深々と頭を下げ、その後、店を出た。
「あ、明かりがついている……」
暗闇しか今は広がっていない森の方がくに明かりが一点ついているのが見えて、エミリーはため息と共に肩をなでおろした。
だが、それもつかの間、店の中とは一変してひんやりとした風が彼女の腕と足、首などの素肌が露出した箇所をなでるように覆った。
「男の事はもう問題ないみたい。でも……これからどうしよう。とても寒いわ……」
次第に夜の気温はエミリーの体の熱を奪っていく中、彼女はどこを回っても見知らぬ自分を泊らせてくれるものなどいなかった。
「あの、今日ここで止まらせてはくれませんか? 行き場がなくて……」
「ごめんね。うちはちょっと……」
困った様に言葉を止める赤ちゃんを抱いた女性を見つめ、エミリーはすぐ言葉をかけた。
「そうですよね……すみません」
シャッターを閉めようとする先ほどカチューシャの女性にもあいその時に仕事についても話したのだが……
「そうだねぇ……仕事の件については、やっぱりどこも経営は苦しいらしいんだよね。うちもやっぱりダメかな。同情はするけど、私には家族がいるし泊まらせる事もみずかしいよ」
「そうなんですね」
「あ、でも、今日の泊まる所ならあそこのなら、もしかして……いや、絶対あの男は放っておかないわね」
首を傾げるようにこちらを他の人同様に見つめまわすカチューシャの女性に、エミリーも同様にその言葉の方に注目して聞いた。
「あの男……?」
一瞬、もしかしてと、先ほどの黒ずくめの男を思い出した。
「あー、ここでは有名というか、顔見知りというか……なんていえばいいのだろう。自分の父親の作った街を美しいと言って、毎日ここら辺をうろちょろしている変わり者といえばいいのかな?」
「毎日ですか? その変わり者の男ってもしかしてこの通りをまっすぐ進んでいった山の方に住む人の事ですか?」
「よく知っているわね。出会う人々に挨拶をかわすようなそんな若者で、すっかりここの町全体は明るくなったね。自分が保証するけど決して悪い方ではないわ。その人にお願いしてみるのもありなんじゃないかなって私は思うのよ。
何だか、印象と違う……
「あのお屋敷は広いし、あの坊っちゃんは一人身だし、きっとあなたを歓迎してくれるわ」
そういうが……先ほど追いかけまわされて、変人と聞いてしまえばあまり信用も出来ないのだが……
「少し考えてみます。それでは、また」
「ええ、またね。宿が見つかるといいわね。それと仕事も」
「はい」
「私も店長に聞いてみるからまた何かあったら、相談くらいはできるからおいでね」
「はい、ありがとうございます」
皆、親切だと思いながらエミリーはこの後も今夜、この寒さをしのげる場所はないかと探し回った。だが、外はやはり寒くてとてもベンチに横になる事にしようとも思ったが無理で彼女は、その時、養母が言った言葉の意味が分かった気がした。
そして、養父が言った言葉も……
「私は今まで生きて来られたのはお母さんたちのおかげ……私はあの男の言う通り一人では何にもできないのね。私はこのままどうなるのだろう。やがて死んじゃうのかな……?」
どっちにしても帰りたくても、お義母さんがいないあの男が待つ家にはもう私は帰らない。ここで今、自分がいる場所で精一杯考えて居座るしかない……
「誰か……私を見つけて……」
寒さに震えながらベンチ座りこむエミリーは、腕を組んだまま俯いていた。
私はいつも興味を持たれながらも選ばれないあまりものだった……
この街でもきっと、どこにいったって、私は……
「余り物には福があるって言うじゃない。あなたは私の最高の娘よ。自信を持ちなさい」
養母の言葉を思い出したその時だった。
「ああ、やっと見つけたよ。金髪のお嬢さん……」
顔を上げると、今にもお互いに高い鼻がくっつくきそうなくらい近距離に黒だらけの男はいて、思わずエミリーは逃げだしそうになる。
「きゃあー」
「あ、今度は逃がさない! というか、いったん逃げないで話を聞いてほしいんだけど!」
途端に立ち上がろうとしたエミリーの腕を掴んできた男に彼女はやはり危険だと判断し逃げようと足ふんばる。だが、男に腕を思いっきり引かれ、両手で肩をつかまれた彼女は身動きができなくなりそこで動きを止めた。
「離して! 誰か!」
「ごめん、ごめんね。お願いだから、叫ぶのだけはやめて。僕はただ君を助けにきたんだ。いったん話をしよう。話を!」
「そんなの信じられない……」
顔を背けながらエミリーは、言葉通り信用ができない彼に今も抵抗していた。
「君が困っている事をこの街に住む多くの人から聞いたよ。家に電話が鳴り響いて大変だったよ。どうせ一人身だからとかみんな僕に頼んでくるんだ。もう嫌われていようが放っておけるわけないでしょ? もう大人しく僕に君を救わせてくれないか?」
「そ、そうだったの……ここにいるみんなが……?」
「そう、みんな心配していたよ。まさかこんな夜にまだ君が外にいるとは思ってもいなかった。そんな格好で……震えているじゃないか」
男は途端、手を離し自分の着ていた黒い上着を脱ぎ始める。そしてそれをエミリーへの肩へと置くようにかぶせてきた。
「僕のコートを今だけ貸してあげるから、いったん座ろう。もう逃げないでね。そうじゃないと、また君に嫌われる様な事しないといけないから」
「分かりました……」
渋々返事したエミリーは、まだ警戒しながらもその男の言葉や肩に置かれた手に加わる力に従い腰を下ろした。左横に座る彼はこう話を続けた。
「さっき僕をとらえたあのパン屋さんの方たちも最初に電話をかけてきたんだよ。君をもしもの時は、助けてくれないかって」
「私をあなたから守ってくれたパン屋さんも、あなたに私の事を話していたの? いったいどういう事?」
少し苦い顔をして彼はこう言葉を漏らした。
「いやぁー、あの後、大変だったよ。でもみんな僕とは顔見知りでね。いろんな意味で心配してくれたんだなって思うよ」
「心配……?」
一瞬、顔を落とした男は少し考え込んでからこう述べた。
「あー、えっと……僕が綺麗なものアート好きで、ついに人間にまで手を付けようとしている。狂ったのかって。僕が何言っても僕がまともだって信じてくれないんだよ。みんなぼくをどういうめでみているんだか……」
「全くその通りだと思うのですが……」
「いや、それは違うよ! 君を人形のようだとは言ったけど、それは例えで……その、自分は思ったまま言ったともりでね。君を自分の好きな宝物たちみたいに気に入っている事は確かだけど、人はちゃんと別だから……まあ、とにかく気にしないでくれ!」
「そうなんですか?」
「はい、そうですよ!」
「少し、難しい気がしますけど……街の人の言葉を信じてあなたが変人なだけでいい人だと思い込もうと思います。難しいですが……」
「アハハ……ほんと、僕、君に信用ないみたいだね……」
「はい……」
頭に手を置いて困り顔を見せる男の顔を見て……その後、自分にコートを貸しておいて寒かったのかくしゃみをした彼の姿を見て、エミリーも悪い人ではない事はもう分かっていた。
「あー、やっぱり寒いね。夜は……」
彼は私のために、わざわざここまで来てくれたのだ。私の祈りに応えてくれた。
まるであの日のお母さんの様に……私を見つけてくれた。
「あれ? 君笑っている?」
「いえ、信用はまだないんですが……この街の人があなたについて話していた言葉をなんとなく分かってしまって……」
「え、何て言われたの、僕? もしかして変人とかじゃないよね……」
「はい。その通りです。あなた、変わり者だって村の人から言われていましたよ」
「ええ!? そうなの……それなら君から逃げられるのも無理はないかもしれないね」
落ち込んだ様子でため息をつく彼に彼女は、街の人たちから聞いた言葉の続きを伝えた。
「あ、でも、皆言うんですよ。彼はあんなんだけど、皆を明るくしてくれるって。この街は彼なくしては成り立っていない。あなたがいるから笑顔が溢れているって」
「そうなの? 嬉しい事聞いちゃったな」
「あなたって、すごいんですね。何だか……色々とすみません。今思えば私の早とちりというか勘違いだった気がして、あなたにとても迷惑をかけている気がします」
「いや、いいよ。僕はあまりそういう事は気にしないから。それよりも君に逃げられた瞬間の方がショックだったんだから」
「あれは……あなたの言葉が悪いんです……」
「あはは、そうだね。やっぱり僕は変人なのかな」
「それでも……優しいですね、あなたは。いい人なんだと思います」
「ありがとう」
照れたように笑う男は一間おいてから、空を見上げこう聞いてきた。
「君の事は、パン屋の旦那から少し伺っているけど、一人でここに来たんだよね」
「はい。でも私、こういう場所に訪れるのは、初めてなの。少し戸惑ってしまって……」
「そうか。うーむ、それなら……君、うちにこないかい?」
「え……」
「困っているならお互いさまだよ。このまま野宿なんて危ないし、見た所君はそういう事もしていなさそうで見ているこっちが心配だ。今の時期はまだ夜は寒いよ?」
「そうですけど……」
「それと君、ここ周辺で仕事探していたようだけど、聞くとお金の位も分からなかったとか……」
「はい。でも私、努力します。頑張る事はできます! もう私は戻れないんです……」
「そうか。それなら……うちで働かないかい?」
「え……」
「この街の大通りをずっと真っ直ぐ進んでいった先に僕の家はあるんだけど、その少しばかり大きな家で自分の身の周りの事や部屋の掃除、家事などをお願いしたいんだ。一人だとなかなか手が回らなくてね。あはは……」
「えっと……」
「嫌なら、いいのだけど……ちゃんと違うところで雇ってくれないか僕も伺ってみるからそこは心配いないで」
「あ、いえ、自分が役に立てるのならお願いします。私をそこでやっとってくれませんか?」
「本当かい? よかった、よかった。僕の方こそお願いします」
まさか、こんな最悪な状況で事がうまく運ぶなんて思わなかった。
思えばいつもそうなのだ。いつも私は最後にやっと幸せを掴んでいた。
お義母さんの次は、この人が私を見つけてくれた恩人なのだ。
「あの、私はこれからあなたを何て呼べばいいのですか? 教えてください」
「僕の名前を聞いているのかい? 僕は聖十郎。久礼 聖十郎だよ」
はにかむように微笑んだ彼は、自分にもこう聞いてきた。
「それで君も教えてくれるかい? これから共に暮らす君の名前を聞かせてほしいな?」
「はい! 私はエミリーと言います。これからお世話になります。旦那様」
「うん、聖十郎でいいよ?」
「では、聖十郎様でいいですか?」
「あ、うん。ではそれで」
エミリーはまるでヒナ鳥のように、次の親にかわる存在を見つけ彼の後についていった。




