最初で最後の
数日後。
「せー、の、っ……ああもう、ぬかるみにハマるなんて……っ」
雨降りの中でも私はカッパを着て、荷車を引いていた。
荷物は幌をかけているから水に濡れない。
でも芋問屋と市場をつなぐ道がぬかるんでいて、車輪がはまってしまった。
板を噛ませて引くけれど、重さもあってか今日の荷車はびくともしない。
「っ!?」
ずるべしゃっ。
間抜けなことに、足が滑った。……道に混じっていた石に、膝もしたたかに打ち付けてしまった。
「いったぁ……っ……」
立ちあがろうとしたけれど、動くだけで膝から響く強い痛みに力が抜ける。
膝丈のスカートを押さえたけれど怪我をしたらしく、熱く腫れ始めている。
……全力で力を込めても動かなかった荷車が、怪我をしながら動かせるはずがない。
市場のおじさんたちに事情を話して、助けてもらった方が良いかな……。
誰もいない場所だから弱気になって、痛みと共に情けなさが込み上げてくる。
大したことない。そう自分に言い聞かせたくて、膝を見ようとスカートに手をかけると、遠くからカッパを着た誰かが走ってきた。
「すみません、お困りのようですが……」
「「あ」」
二人して声を合わせて驚いたけれど、現れたのは裏葉色の髪に琥珀の瞳の騎士、サフィーナさんだった。
慌ててうつむいて、彼から顔を隠してしまう。
少し沈黙があったから恐る恐る様子を見たけれど、サフィーナさんは泥道に目を向けている。
「車輪に板……ディアさん、荷車がぬかるみにはまったんですか」
「だ、大丈夫です。私でも抜け出せたこと、何度もありますから。
どうしてもダメだったら市場のおじさんたちを呼びます。だからサフィーナさんは気にせずに行ってください」
リボンを渡した相手が誰かはわからないけれど、『婚約解消したい』という言葉はまだ心に深く刺さったままになっている。
そのせいかサフィーナさんの声を聞くだけで、胸がズキズキ痛くて声が震える。
平気だという言葉を信じてもらえないくらい情けない姿を見せている気がして、改めて荷車を引こうとした。
「っ……!」
痛さが、膝から突き抜ける。
思わずよろけた体が何かにぶつかって、サフィーナさんの腕に抱き止められたことに気づいた。
慌てて離れたけれど、情けないことばかりでますます顔が上げられない。
「す、すみませんっ、本当に大丈夫なんです。足元が悪かっただけで、今のも転んだだけです」
「……ディアさん、膝を痛めていますね」
どうしてわかってしまうんだろう。
何も言えずにうつむくと、背の高いサフィーナさんがしゃがみ込んだ。
「応急手当ての心得ならあります。固定が必要なら、処置は早い方が良い。一度見せてもらえますか」
私も足に目を向けたけれど、カッパの隙間から膝下まで血が垂れているのが見える。
……騎士様なら医学知識も学んでいることも知っていたから、か細くだけど「はい」と答えた。
力を込めなければ痛くないけれど曲げ伸ばしが特に辛いことを伝えると、サフィーナさんは持っていた道具で簡単に足を固定してから私を見上げた。
「打ち身には見えますが一旦荷車を置いて、医者に怪我を診てもらいましょう。ディアさん、抱えますよ」
「いっ、いけません、折れていないなら食堂に戻って薬を塗れば平気です。
市場のおじさんたちにも、荷車ごと私も食堂に運んでもらえるようにお願いしますから」
「私は騎士として、怪我をした方をこの場に放置していくことは出来ません。
恥ずかしがらなくても、この雨では誰もディアさんだと気づかないでしょう。
すぐにお医者様のところに運びますから、私に捕まってください」
『しっかり。今すぐお医者様のところに運びます……!』
……いつか聞いた声が頭の奥で響いた気がして、反論も飲み込んでしまった。
サフィーナさんは膝に負担がないよう私を抱えて、運び始める。
「早く治療した方が、食堂にも元気に戻れますよ。あなたのお母様も、その方が心配なさらないでしょう」
『大丈夫、また元気になれますよ』
言葉は違っているはずなのに、声が……耳に届く音が、似ている気がする。
それ以上はお互いに話さない。
……だからこそ、引っ張り出すように過去を思い出してしまう。
『いかないで、きしさま』
幼い私はうつ伏せで、野戦病院の寝具の上で泣いていた。
裏葉色の短い髪の騎士が、涙で痛む頬を布で拭ってくれる。
琥珀色の目を見つめた私の頭を、彼は撫でた。
『必ず戻ります。だから、あなたはゆっくり休んでいてください。
大丈夫、ここにいれば、もう何も怖いことは起きませんよ』
優しい指が、大好きだった『 』みたいに、頭を撫でてくれる。
次第に薬が効いてきて、私は目を閉じた。
瞼を開けた時には、数日が経過していた。
私は自分の名前も何もかもを忘れてしまっていて、服に書かれた名前や、生きていた人の証言からようやく身元がわかった。
戦争が終わってすぐ孤児院に入って、教会に連れて行ってもらって……涙しながら懺悔するサフィーナさんを、声もかけられずに見つめた。
「……膝の怪我を診たけど、ただの擦り傷。腫れているのは打ち身だね、どこも折れちゃいない。
でも痛むだろうから薬を処方しておくよ、隣の処置室で塗ってもらって」
病院に急患として入った私は、サフィーナさんの知り合いの医師に診察してもらえた。
ベッドに腰掛けた私を丁寧に診た彼は、看護師の女性に薬を指示している。
「薬が効いてくるまではうちにいなさい。痛むのに無理したって、何も良いことはないからね」
お医者様にお礼を二人で伝えると、サフィーナさんに肩を貸してもらいながら処置室に移動した。
椅子に改めて腰掛け、赤く腫れた膝は看護師の女性に薬を塗って保護してもらう。
保護者として私を連れてきたサフィーナさんが今後の説明を受けるのを待っていると、しばらくして彼は戻ってきた。
「外は雨が続き、足元がさらに悪くなっているそうです。
荷車を今から取ってきますから、食堂まで送らせてください。
市場の方に改めて事情説明するよりも、ディアさんをお送りするのは私の方が早いでしょう」
「あの、診察代、お支払いします。それにここまでしていただいて、荷車までお任せするわけにはいきません!」
「病院に行きたくないと言っていたディアさんをお連れしたのは私ですから、気にしないでください。
何事もないと知られて、私も安心しました」
何から何まで優しいサフィーナさんに、また胸がズキズキと痛む。
バリオンと一緒に会えば理由が分かると思っていたけれど、この慣れない胸の痛みは何だろう。
うつむく私が気になったのか、背の高いサフィーナさんは跪いて私を見上げた。
「元気がありませんね。……もしかして、まだ膝が痛みますか」
「……いいえ。……でも……サフィーナさんに聞きたいことがあります」
「私に? なんでしょうか」
「『ティラン』という方をご存知ですか」
モヤモヤするくらいなら聞くべきだと口に出すと、返ってきたのは沈黙だった。
それでもあの日助けてくれた騎士が彼ではないかと見つめると、苦しげに眉を顰めたサフィーナさんの頭が縦に揺れた。
「……どこで、その名前を聞きましたか」
「私を助けてくれた騎士様が、教会で『ティラン』という方に懺悔していたんです」
琥珀色の瞳が丸くなる。
サフィーナさんは耳元で編まれた三つ編みに触れながら、目を閉じた。
「十一年前、戦争で壊された街で、私は騎士様に助けられました。
今まであの騎士様の髪も、目の色も思い出せなかった。……けれど、あなたによく似た方に助けられたことを思い出したんです」
「……ティランは、私の親友です」
認める言葉が、処置室に響く。
「幼い頃から、共に騎士を目指した戦友でした。
彼を亡くした。そう知れば生きる道を見失うほど……私にとっては大きな存在でした」
彼が耳元に編んでいる三つ編みは、きっと親友を偲ぶ為のもの。
十一年前、まだ短い髪だったサフィーナさんは、祈りの日々だけ伸ばしたような髪に触れて……懐かしむように目を閉じている。
「私の元へ『婚約の儀式』に訪れたのが、あの日助けた少女だなんて。……リファナ神の奇跡には驚かされますね」
結婚が決まっていても果たせなかった、そんな親友への心残りがあったから、サフィーナさんは婚約の儀式で自分にリボンを結ばれることを拒絶してきた。
その心を神様だけは知っていたから……十三年もの長い時が経っても、彼を誰とも結ばなかったのだろう。
今も苦しみの中にいるからこそ三つ編みに触れる騎士は、優しく微笑んだ。
「名前も行方も知らず会いに行けませんでしたが、無事でよかった。
大きくなりましたね……ディアさんと出会えたことを、改めて神に感謝しなくてはなりません」
全身傷だらけだった私の今の姿に安心したらしいサフィーナさんを見て、込み上げる気持ちが口をつく。
「私は、あなたを諦められません」
ただ感謝を伝えれば、誰にとっても過去は終わりを告げたはずだ。
でも、私は打ち切りたくなかった。
「あの騎士様に救われた恩を返したくても、幼い私では何も出来ませんでした。
でも今は……サフィーナさんと幸せになるために、私たちはもう一度出会い直したはずだって、そう思うんです」
戸惑うサフィーナさんの袖を、前のめりになりながら掴んだ。
運命の導きにより、騎士様と少女を出会わせるリファナ神の力があったからこそ。
お互いに姿を覚えていなくても再会出来たことに、意味があると信じたかった。
「……」
苦しそうに眉を顰めたサフィーナさんが紡ぐ言葉はきっと、お断りの言葉になる。
理解しているから袖を掴んだまま、先に口を開いた。
「今度、デートに行きませんか」
彼を引き止める言葉を、必死になって伝える。
すでに婚約解消を願われていても、なけなしの勇気を振り絞って、サフィーナさんの琥珀色の瞳を見つめた。
「サフィーナさんがお休みの日を、私に教えてください。
一度だけで構いません。私と、本気のデートをしてください……!」
慣れないわがままに、跳ねる心臓を押さえる。
「じゃないと帰りません。荷車にも乗らないし、サフィーナさんのせいだと言い張って、病院からも動きません!」
私なりの、精一杯の抵抗だ。
……騎士として受け入れるべき事柄ではないし、彼は全てを断っても構わない。
それでも必死になって伝えると……懺悔するように頭を下げた彼から、小さな吐息が聞こえた。
「……婚約破棄を願っていると知っていても、ですか」
「知っています。……でも、私は何も悪くないです。なのに突然フラれるのは辛いです」
そう、きっと。
私が彼と合わなかったと納得できれば、状況は違ってくるはず。
サフィーナさんも気づいたらしく、ふっと笑みをこぼして、……頷いた。
「おっしゃる通り、私は自分勝手な思いをあなたに押し付けているだけですね。
……わかりました。デートしましょう。私自身があなたにフラれた方が後腐れしないでしょうからね」
わずかに見えた希望に、胸が疼く。
掴んだ袖を、嬉しさのあまり引いてしまった。
長い髪の騎士は私を見上げて、仕方なさそうに微笑んでいる。
「サフィーナさん、約束ですよ。必ずデートに行きましょうね」
「ええ。リファナ神に誓って、この約束は違えません。
……休暇日は改めて伝えに行きますから、ディアさんは怪我を治しておいてください。
少しでも様子がおかしいと思えば、食堂に送り届けてしまいますからね」
「はいっ!」
きっと彼にとっては、最初で最後のつもりのデート。
でも私にとっては、これが始まりになる。
こうして私は、サフィーナさんとのデートの権利を獲得した。




