第九話 「同じ傘の下」
萌は返事をしなかった。
教室の中に沈黙が落ちる。
窓を叩く雨音だけが、やけに大きく聞こえた。
あなたは自分でも驚いていた。
こんなことを言うつもりはなかった。
もっと自然に聞くつもりだった。
もっと気軽に。
けれど気付けば口から出ていた。
一緒に帰らないか。
ただそれだけの言葉なのに、妙に緊張していた。
萌はしばらくあなたを見つめていた。
やがて小さく笑う。
「今日は積極的だね」
「そうか?」
「うん」
萌は少し考えるように視線を落とした。
スマートフォンを握る手に力が入る。
何かを迷っているようだった。
しかし数秒後、彼女は小さく頷く。
「じゃあ、一緒に帰ろうかな」
その言葉に、あなたは密かに安堵した。
理由は分からない。
ただ、一人で帰らせたくなかった。
それだけだった。
昇降口を出る頃には雨が本降りになっていた。
校門の向こうが白く霞んで見える。
アスファルトは濡れ、車のタイヤが水を跳ね上げている。
あなたは傘を開いた。
隣では萌も透明なビニール傘を広げている。
二人は並んで歩き始めた。
しばらく会話はなかった。
雨の日は不思議だ。
沈黙が沈黙のままでいられる。
無理に言葉を探さなくてもいい。
ただ雨音を聞いているだけで時間が過ぎていく。
「ねぇ」
萌が口を開いた。
「なんで今日、一緒に帰ろうと思ったの?」
不意打ちだった。
あなたは少し困る。
本当の理由なんて言えるはずがない。
明日、君が死ぬから。
そんなこと。
「なんとなく」
結局、無難な答えしか出てこなかった。
萌は呆れたように笑う。
「便利な言葉だね」
「便利だからな」
「ずるい」
そう言いながらも、どこか楽しそうだった。
駅前へ向かう途中、小さな公園の横を通る。
雨のせいで誰もいない。
濡れたブランコが風に揺れている。
萌はその光景を見ながら足を止めた。
「懐かしいな」
「ここ?」
「小さい頃よく遊んでた」
意外だった。
萌は子供の頃から本ばかり読んでいそうな印象があった。
その考えが顔に出ていたのか、萌が少し笑う。
「失礼なこと考えてるでしょ」
「いや」
「考えてる顔してる」
図星だった。
萌は公園を見つめる。
雨粒が遊具を濡らしていく。
「昔は楽しかったんだけどね」
ぽつりと呟く。
その声は雨音に溶けそうなほど小さかった。
あなたは聞き返そうとした。
だが萌はもう前を向いていた。
「行こう」
何事もなかったように。
まるで今の言葉を忘れてほしいかのように。
駅前へ着く頃には空はさらに暗くなっていた。
夕方にはまだ早いはずなのに、まるで夜が近付いているようだった。
二人はアーケードの下へ入る。
雨宿りをする人たちが並んでいる。
その時だった。
萌のスマートフォンが震えた。
短い通知音。
萌の表情が固まる。
まただ。
昨日と同じ。
今日も同じだった。
画面を見た瞬間だけ表情が曇る。
あなたは思わず尋ねていた。
「大丈夫か?」
萌が顔を上げる。
「え?」
「なんか顔色悪い」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
萌の瞳が揺れた。
助けを求めるような。
何かを言いたそうな。
そんな表情だった。
だが次の瞬間には消えていた。
「平気」
いつもの笑顔。
いつもの声。
けれど平気じゃないことくらい分かる。
あなたは拳を握った。
聞きたい。
何があったのか。
誰から連絡が来ているのか。
なぜそんな顔をするのか。
だが踏み込めない。
今の関係ではまだ届かない。
そんな気がした。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
萌はホームへ向かう階段を見た。
そしてあなたへ振り返る。
「今日はありがとう」
「別に」
「それ」
萌が少し笑う。
「また便利な言葉使ってる」
あなたもつられて笑ってしまう。
萌は少しだけ嬉しそうだった。
「じゃあね」
その言葉と共に階段を上っていく。
あなたはその背中を見送った。
人混みの中へ消えていく小さな背中。
その時だった。
萌が一度だけ振り返る。
何かを言いかけるように口を開く。
だが結局何も言わず、小さく手を振った。
そして見えなくなる。
残されたのは雨音だけだった。
帰宅したあとも、その光景が頭から離れなかった。
振り返った萌。
言いかけてやめた言葉。
曇った表情。
大量のメッセージ。
繋がりそうで繋がらない違和感。
そして。
明日。
六月七日。
蒼井萌が死ぬ日。
時計の針は無情に進み続ける。
あなたは窓の外を見た。
夜の雨はまだ止みそうになかった。




