第四話「温かい缶コーヒー」
六月四日。
蒼井萌が死ぬ三日前。
その事実だけが、あなたの頭の中に重く居座り続けていた。
翌朝。
目が覚めた瞬間から気分は最悪だった。
眠ったはずなのに疲れが取れていない。
夢の中で何度も交差点の光景を見た気がする。
雨。
人だかり。
アスファルトの上に倒れた少女。
目を閉じても離れてくれない。
結局、朝食の味もほとんど分からないまま家を出た。
学校へ着くと、教室にはまだ数人しかいなかった。
窓際へ視線を向ける。
萌はまだ来ていない。
そのことに少しだけ安心し、少しだけ不安になる。
生きている。
それは分かっている。
だが、視界にいないだけで落ち着かなくなる自分がいた。
まるで見失ったら、そのまま消えてしまうような気がして。
そんな自分に苦笑する。
たった一日だ。
まだ一日しか経っていない。
なのに、まるで何年も彼女を追い続けているような気分だった。
やがて教室の扉が開く。
蒼井萌が入ってきた。
あなたは無意識に息を吐いていた。
萌はそんなことも知らず、自分の席へ向かう。
そして途中であなたに気付いた。
「おはよう」
「お、おはよう」
萌が少し笑う。
「変な返事」
「寝不足なんだよ」
「ふーん」
それだけ言って席へ向かう。
本当にただそれだけのやり取り。
なのに、なぜだか少し嬉しかった。
昨日までは当たり前だったはずのことが、今は特別に思える。
そんな感覚があった。
授業は相変わらず頭に入らなかった。
ノートを取るふりをしながら考える。
どうすればいい。
事故なのか。
事件なのか。
自殺なのか。
何も分からない。
分かっているのは六月七日に萌が死ぬという結果だけ。
原因が分からなければ防ぎようがない。
昼休み。
あなたは思い切って萌の席へ向かった。
萌は文庫本を読んでいた。
「何読んでるんだ?」
「小説」
「それは見れば分かる」
萌が吹き出す。
「確かに」
少しだけ空気が柔らかくなる。
あなたは意を決して尋ねた。
「放課後、時間あるか?」
萌は本から顔を上げた。
「また?」
「嫌ならいいけど」
「別に嫌じゃないよ」
彼女は栞を挟んで本を閉じる。
「今日はどこ行くの?」
「決めてない」
「昨日と同じじゃん」
呆れたように笑う。
その表情を見ていると、本当に普通の高校生にしか見えなかった。
死とは程遠い。
だから余計に分からない。
なぜ彼女が死ななければならないのか。
放課後。
二人は学校を出た。
曇り空は相変わらずだった。
今にも雨が降り出しそうな色をしている。
「飲み物買っていい?」
萌が自販機の前で立ち止まる。
「いいけど」
彼女は迷うようにボタンを眺めたあと、温かい缶コーヒーを選んだ。
ガコン、と音を立てて缶が落ちる。
あなたは思わず眉をひそめた。
「それ好きなのか?」
「ん?」
「温かいやつ」
六月だぞ、と続ける前に萌が缶を手に取る。
「好きっていうか」
少し考えてから言った。
「落ち着くんだよね」
彼女は缶を両手で包む。
まるで冷えた手を温めるみたいに。
けれど缶は開けない。
昨日と同じだった。
「飲まないのか?」
「あとで」
そう言うだけで、やはり開けようとしない。
あなたは妙な違和感を覚える。
温かい缶コーヒーを買う。
でも飲まない。
昨日もそうだった。
それ以前はどうだっただろう。
思い出せない。
クラスメイトの飲み物なんて普通は覚えていない。
萌は近くのベンチへ腰を下ろした。
あなたも隣へ座る。
駅前の人通りは多い。
それでも二人の周囲だけ切り取られたように静かだった。
「ねぇ」
萌が空を見上げる。
「明日、雨かな」
「天気予報見ればいいだろ」
「夢がないなぁ」
そう言って笑う。
その笑顔を見ていると、交差点の光景が少し遠のく。
本当に救えるのかもしれない。
そんな希望が生まれかけた、その時だった。
萌がぽつりと呟いた。
「もし私が急にいなくなったらさ」
あなたの身体が強張る。
「……なんだよ、それ」
「例えばだよ」
萌は気付いていない。
あなたの顔色が変わったことにも。
心臓が痛いほど脈打っていることにも。
「誰か悲しんでくれるのかな」
風が吹いた。
曇り空の下。
人々の話し声が遠く聞こえる。
あなたは答えられなかった。
軽い冗談のように言ったはずなのに。
その言葉だけが妙に重かった。
萌はしばらく空を見上げていた。
そして。
「……なんてね」
そう言って笑う。
だがその笑顔は、昨日まで見ていたものとは少し違って見えた。
まるで。
自分自身に言い聞かせているような。
どこか諦めを含んだ笑顔だった。
その瞬間。
あなたは初めて思う。
萌は本当に何も知らないのだろうか。
それとも。
彼女自身も、自分の終わりをどこかで感じているのだろうか。
ベンチの上で、缶コーヒーはまだ開けられていなかった。




