第三話「窓際の少女」
昼休みが終わり、午後の授業が始まっても、あなたの意識はほとんど黒板には向いていなかった。
教師の声が遠く聞こえる。
チョークが黒板を擦る音。
ノートをめくる音。
それらは確かに耳に入っているはずなのに、頭の中には残らない。
気付けば視線は何度も窓際へ向いていた。
蒼井萌。
彼女はいつも通り授業を受けている。
時々ノートを取り、時々窓の外を見る。
それだけだ。
どこにでもいる高校生。
少なくとも今の彼女からは、三日後に命を落とすような雰囲気は感じられない。
だからこそ不気味だった。
人は死ぬ前に何か変わるものではないのか。
誰かに相談したり、苦しそうな顔をしたり。
何かしら兆候があるものではないのか。
けれど萌には、それが見えない。
いや。
見えていなかっただけなのかもしれない。
チャイムが鳴る。
六時間目の終了を告げる音だった。
生徒たちが一斉に立ち上がる。
部活の話をする者。
スマホを確認する者。
帰り支度を始める者。
いつもと変わらない放課後。
あなたは席を立ち、窓際へ向かった。
萌は鞄へ教科書をしまっている途中だった。
「蒼井」
「ん?」
顔を上げる。
昨日――いや、あなたにとっては昨日ではない。
彼女が死んだ日。
放課後の教室で見せたあの表情が頭をよぎる。
「今日、時間あるか?」
萌が目を丸くした。
「珍しいね」
「そうか?」
「うん。誘ってくるタイプじゃないでしょ」
その通りだった。
自分でもそう思う。
萌は少し考えた後、小さく頷く。
「いいよ」
思ったよりあっさり承諾された。
「どこ行く?」
「別に決めてない」
「なにそれ」
萌が笑う。
その笑顔を見て、胸の奥の緊張が少しだけ和らいだ。
生きている。
今、目の前で笑っている。
その事実だけで少し安心してしまう自分がいた。
二人は学校を出た。
空は曇っていたが雨は降っていない。
六月特有の湿った風が街を吹き抜けている。
特に目的地はなかった。
駅前まで歩きながら他愛ない話をする。
好きな教科。
苦手な教師。
最近見た映画。
どれも普通の話だった。
それなのに。
なぜだろう。
あなたはその一つ一つを覚えておきたいと思った。
まるで失くしてはいけないもののように。
「ねえ」
萌が前を向いたまま言う。
「やっぱり今日変だよ」
「そうか?」
「そう」
少しだけ真面目な声だった。
「朝からずっと変」
あなたは返事に困る。
当然だ。
目の前の相手が三日後に死ぬことを知っている人間が、普通でいられるはずがない。
だが、それを言えるわけもなかった。
萌は少しだけ歩く速度を落とした。
「何かあった?」
あなたは黙り込む。
何かあった。
それは間違いない。
けれど説明できない。
説明したところで信じてもらえるとも思えない。
しばらくして、萌は小さく笑った。
「言いたくないならいいけど」
その言い方は優しかった。
無理に聞き出そうとはしない。
ただ、待ってくれる。
そんな声音だった。
駅前へ着いた頃には、空が少し暗くなっていた。
二人は自販機の前で立ち止まる。
萌は温かいミルクティーを買った。
六月なのに、と思ったが口には出さない。
「飲まないの?」
「飲むよ」
そう言いながら、彼女は缶を両手で持ったまま空を見上げる。
結局一口も飲まない。
その光景に妙な既視感を覚えた。
まるで何度も見たことがあるような。
その時だった。
萌がぽつりと呟く。
「なんかさ」
「ん?」
「最近、変な夢を見るんだよね」
あなたの心臓が跳ねた。
「夢?」
「うん」
萌は少し考えるように目を細める。
「雨の日の夢」
風が吹く。
駅前を歩く人々の声が遠く聞こえる。
「どんな夢なんだ?」
萌は首を横に振った。
「覚えてない」
そう言いながらも、その表情はどこか不安そうだった。
「でもね」
彼女は空を見上げる。
曇り空の向こうを。
「すごく悲しい夢だった気がする」
その瞬間。
あなたは初めて確信した。
萌は何も覚えていないわけじゃない。
ループの記憶は残っていなくても。
何かが。
何かだけが。
彼女の中にも残っている。
そしてあなたは思う。
今度こそ。
絶対に。
蒼井萌を死なせない。
六月の風が二人の間を静かに吹き抜けていった。




