第二話「六月四日」
教室のざわめきが耳に入ってくる。
誰かが笑っている。
誰かが宿題の話をしている。
窓の外では雨は降っていない。
さっきまで聞いていた雨音が嘘のようだった。
あなたは呆然と黒板を見つめる。
六月四日。
白いチョークで書かれた日付。
何度見ても変わらない。
六月四日。
三日前。
蒼井萌が死ぬ三日前。
「おーい」
突然肩を叩かれた。
振り返ると、クラスメイトが不思議そうな顔をしている。
「どうした? 朝からボーっとして」
「……え?」
「顔色悪いぞ」
あなたは返事ができなかった。
頭が追いつかない。
さっきまで確かに放課後だった。
蒼井萌と話していた。
交差点へ走った。
倒れている彼女を見た。
そして――。
思い出した瞬間、心臓が強く脈打つ。
反射的に窓際へ視線を向ける。
そこにいる。
蒼井萌。
窓の外を眺めながら、退屈そうに頬杖をついている。
生きている。
間違いなく。
制服も。
髪も。
何も変わらない。
あなたは立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
クラス中の視線が集まった。
それでも構わなかった。
ただ確認したかった。
本当に生きているのか。
幻じゃないのか。
萌の席へ向かう。
彼女は近付いてくるあなたを見て、小さく首を傾げた。
「……なに?」
不思議そうな声だった。
あなたは言葉を失う。
数十分前まで死んでいた人間に向かって、何を言えばいいのか分からない。
「蒼井」
「うん」
「お前……」
生きてる。
そう言おうとして飲み込んだ。
頭がおかしいと思われる。
いや、自分自身ですら信じられていない。
萌は少し困ったように笑った。
「どうしたの?」
その笑顔を見た瞬間。
交差点で見た光景が脳裏をよぎる。
雨。
人だかり。
動かない身体。
最後の言葉。
――ごめんね。
あなたは思わず目を逸らした。
「……いや」
それ以上何も言えなかった。
チャイムが鳴る。
担任が教室へ入ってくる。
朝のホームルームが始まった。
しかし授業の内容など頭に入らない。
ノートを開いても文字が目に入らない。
気付けば何度も時計を見ていた。
時間だけは確かに進んでいる。
夢ではない。
だが現実とも思えなかった。
昼休み。
あなたは一人で屋上へ向かった。
フェンス越しに町並みが見える。
六月の風は少し湿っていた。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
日付を確認する。
六月四日。
何度見ても変わらない。
「本当に戻ったのか……」
呟いてみる。
返事はない。
風だけが吹いている。
もし本当に時間が戻ったのだとしたら。
蒼井萌は三日後に死ぬ。
そして、自分だけがそれを知っている。
馬鹿げている。
信じられるわけがない。
それでも。
あの光景だけは忘れられなかった。
フェンスを握る手に力が入る。
考えろ。
三日後。
何が起きる?
事故だったのか。
事件だったのか。
自殺だったのか。
何も知らない。
自分は蒼井萌のことをほとんど知らない。
好きな食べ物も。
家族構成も。
休日の過ごし方も。
何も。
ただ同じクラスだっただけだ。
それなのに。
どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
「やっぱりここにいた」
突然後ろから声がした。
振り返る。
そこには蒼井萌が立っていた。
風に揺れる黒髪。
少し眠そうな瞳。
放課後に見たあの顔。
交差点で見たあの顔。
そして今、確かに生きている顔。
萌は不思議そうにこちらを見る。
「今日、変だよ」
そう言って小さく笑った。
「なんか、朝からずっと私のこと見てるし」
あなたの心臓が跳ねた。
萌は何も知らない。
三日後に自分が死ぬことも。
あなたがそれを見たことも。
何一つ。
けれど。
ここでようやく確信する。
これは夢じゃない。
現実だ。
六月四日。
蒼井萌が死ぬ三日前。
そして。
彼女を救えるかもしれない最初の三日間だった。




