第一話「六月の雨」
初めまして。
『彼女が死ぬ三日前』を読んでいただきありがとうございます。
六月の雨は嫌いじゃなかった。
空が暗いとか、制服が少し湿るとか、そういう面倒はある。けれど雨の日の学校には晴れの日にはない静けさがあった。窓ガラスを叩く雨音が周囲の雑音を包み込み、いつもは騒がしい教室でさえ少しだけ落ち着いて見える。
その日の放課後もそうだった。
最後のホームルームが終わると、生徒たちは一斉に教室を飛び出していく。部活動へ向かう者、友達と駅へ向かう者、寄り道の計画を立てている者。
そんな賑やかさも十分ほどすれば嘘のように消える。
あなたは鞄へ教科書をしまいながら、小さく伸びをした。
窓の外では雨が降り続いている。
帰るのが少し面倒だな。
そんなことを考えながら視線を上げた時だった。
教室の隅。
窓際の最後列に、一人の女子生徒が座っていることに気付く。
蒼井萌。
同じクラスの女子だ。
長い黒髪を肩の後ろへ流し、頬杖をつきながら外を眺めている。
雨に煙る校庭。
灰色の空。
彼女の視線はそのどこか遠くへ向いていた。
特別仲が良いわけではない。
ただ、席替えで近くになったことがあり、何度か話した程度の関係だ。
それなのに。
なぜかその横顔が気になった。
「蒼井」
名前を呼ぶ。
萌はゆっくりと振り返った。
一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、小さく微笑む。
「どうしたの?」
「いや、帰らないのかと思って」
萌は窓の外へ視線を戻した。
「もう少しだけ」
「雨、見てるのか」
「うん」
彼女は静かに頷く。
「なんとなく」
それだけ言って黙り込む。
普通なら会話はそこで終わるはずだった。
だが、あなたはなぜか席へ座り直していた。
萌の前ではなく、一列離れた席。
雨音が聞こえる。
時計の秒針が聞こえる。
遠くで運動部の掛け声が響いている。
誰もいない教室の空気は妙に落ち着いていた。
萌がふっと笑う。
「なんか変だね」
「何が?」
「こうして話してるの」
確かにそうだ。
クラスメイトではあるが、二人で放課後を過ごすような関係ではない。
それなのに不思議と居心地は悪くなかった。
「そうかもな」
「うん」
萌は窓の外を見つめる。
そしてしばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「ねぇ」
「ん?」
「もしさ」
彼女は振り返らない。
ただ雨を見つめたまま続ける。
「明日が来ないって分かってたら、どうする?」
あなたは思わず眉をひそめた。
「随分重い質問だな」
「そう?」
「普通の高校生はあんまり考えないと思うぞ」
萌はくすりと笑った。
「かもね」
笑っている。
なのに、その声はどこか寂しそうだった。
あなたは少し考える。
もし明日が来ないとしたら。
家族に会うか。
好きなことをするか。
答えはいくらでも思い浮かぶ。
だが、なぜだろう。
彼女が求めているのはそういう答えではない気がした。
「いつも通り過ごすかな」
結局そう答えた。
萌は意外そうに目を瞬かせる。
「いつも通り?」
「どうせ最後なら焦っても仕方ないだろ」
「そっか」
彼女は小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
理由は分からない。
初めて見る表情だったわけでもない。
それでも何かが引っかかる。
まるで。
この笑顔を忘れてはいけない気がした。
窓の外では雨が強くなっていた。
やがて校内放送が流れ、生徒の下校を促すアナウンスが響く。
萌はゆっくり立ち上がった。
「帰ろうかな」
「だな」
二人で教室を出る。
廊下にはもうほとんど人がいない。
昇降口で靴を履き替え、それぞれ傘を開く。
「じゃあな」
「うん。また明日」
また明日。
その言葉に特別な意味はなかった。
少なくとも、その時は。
萌は駅の方へ歩いていく。
あなたも反対方向へ足を向けた。
それから十分ほど経った頃だった。
スマートフォンが震える。
母親からのメッセージだった。
『夕飯いる?』
返信しようとして立ち止まる。
その瞬間。
遠くから悲鳴が聞こえた。
女性の声。
何かが起きた時の叫び声。
胸騒ぎがした。
嫌な予感だった。
理由もなく心臓が速くなる。
気付けば走り出していた。
雨の中を。
人だかりができている交差点へ向かって。
何が起きたのかも分からないまま。
人を押し分ける。
濡れたアスファルト。
散らばった荷物。
壊れたビニール傘。
そして。
その中心に倒れている少女。
見覚えのある制服。
見覚えのある黒髪。
見覚えのある横顔。
世界から音が消えた。
蒼井萌だった。
数十分前まで話していたはずの少女が、雨の中で動かなくなっている。
理解できない。
理解したくない。
足が震える。
呼吸が苦しい。
誰かが救急車を呼んでいる。
誰かが泣いている。
けれど、あなたには何も聞こえなかった。
ただ。
雨だけが降り続いている。
萌の瞳が、ほんの少しだけこちらを向いた気がした。
そして。
彼女の唇が微かに動く。
――ごめんね。
次の瞬間。
視界が真っ白に染まった。
強烈な耳鳴り。
身体がどこまでも落ちていく感覚。
遠ざかる雨音。
そして。
聞き覚えのあるチャイムの音。
「おはよう」
誰かの声で目を開く。
そこは教室だった。
朝の光が差し込む窓。
ざわめくクラスメイト。
黒板に書かれた日付。
六月四日。
そして。
窓際の席には。
死んだはずの蒼井萌が、何事もなかったように外を眺めていた。
あなたの背筋を、冷たいものが走った。
第一話を読んでいただきありがとうございました。
次回から主人公は、蒼井萌を救うために動き始めます。
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