第二十四話 「帰る場所」
「家ってさ」
蒼井萌は窓の外を見たまま言った。
「帰りたい場所のことだと思う?」
あなたはすぐに答えられなかった。
突然の質問だった。
けれど。
その言葉がただの雑談じゃないことは分かった。
萌は今。
自分の話をしている。
教室には昼休みの喧騒が響いている。
友達同士で話す声。
机を囲んで弁当を食べる生徒たち。
そんな中で。
窓際だけが少し静かだった。
「普通はそうじゃないか」
考えた末に答える。
「疲れてても帰れる場所とか」
萌は小さく笑った。
「普通はね」
その言葉が胸に引っかかる。
普通は。
つまり。
萌にとっては違う。
風が吹く。
カーテンが揺れる。
萌は文庫本を閉じた。
珍しい。
普段なら話題を変える。
誤魔化す。
逃げる。
それなのに今日は違った。
「私ね」
萌が小さく呟く。
「家に帰るの嫌いなんだ」
あなたは黙って聞く。
口を挟まない。
今は聞くべきだと思った。
「昔は普通だったんだけど」
萌は自嘲気味に笑う。
「いつからだろうね」
その笑顔は寂しかった。
「お父さんが変わったの」
あなたの胸がざわつく。
昨日見た男の顔が浮かぶ。
煙草。
酒。
荒れた様子。
あの男。
「仕事辞めてからかな」
萌は窓の外を見ている。
こちらを見ない。
だからこそ。
本音なのだと思った。
「最初は少しイライラしてるだけだった」
「でも」
萌は言葉を止める。
唇を噛む。
「だんだん怒ることが増えて」
「お酒飲むようになって」
「家の中の空気が変わった」
あなたは何も言えない。
萌は淡々と話している。
まるで他人事みたいに。
それが余計につらかった。
「私が悪いわけじゃないのにね」
萌が笑う。
でも。
その笑顔は少し歪んでいた。
「機嫌悪い日は何言っても怒られる」
「静かにしてても怒られる」
「家にいてもいなくても怒られる」
あなたは拳を握る。
机の下で。
見えないように。
「お母さんは?」
思わず聞いてしまう。
萌の表情が少しだけ曇る。
「いないよ」
短い返事だった。
それ以上聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
数秒。
沈黙。
教室の喧騒だけが聞こえる。
「ごめん」
萌が苦笑する。
「変な話しちゃった」
「変じゃない」
即答だった。
萌が少し驚く。
「話してくれてよかった」
萌は何も言わない。
ただ少しだけ目を伏せる。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
萌のものだ。
通知音。
短い音。
しかし。
その瞬間。
萌の表情が固まる。
あなたは見た。
画面に映った名前を。
『父』
萌は慌てて画面を消す。
だが遅かった。
「蒼井」
呼ぶ。
萌は立ち上がった。
「ごめん」
声が震えている。
「今日は帰る」
そのまま教室を飛び出していく。
あなたは追いかけられなかった。
机の上。
萌が閉じた文庫本だけが残っている。
そして。
その本の間から、一枚の紙が滑り落ちた。
白い紙。
見覚えのある文字。
『6月14日 18:00』
『約束の場所』
以前見たものと同じだった。
だが。
今回はその下に新しい文章が書き加えられていた。
『来なければ全部終わる』
あなたの背筋に冷たいものが走った。
六月十四日。
その日。
何かが起きる。
間違いなく。




