第二十二話 「帰りたくない家」
蒼井萌が家の中へ消えたあとも、あなたはしばらくその場を動けなかった。
住宅街は静かだった。
遠くで犬が吠えている。
夕暮れの風が電線を揺らす。
それだけだ。
だが、さっき聞こえた怒鳴り声だけが耳に残っていた。
あれは誰だったのか。
父親か。
親戚か。
それとも別の誰かか。
分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
萌はあの家へ帰るのを恐れていた。
玄関の前で立ち止まった姿。
深呼吸していた姿。
そして震えていた肩。
あれは見間違いじゃない。
あなたは拳を握る。
今まで見ていた蒼井萌は学校の中の彼女だけだった。
本当の彼女は。
学校の外にいるのかもしれない。
その時だった。
ガシャン。
家の中から何かが落ちる音がした。
あなたは反射的に顔を上げる。
続いて聞こえる怒鳴り声。
今度ははっきり聞こえた。
男の声だった。
荒く。
苛立っている。
何を言っているのかまでは分からない。
だが怒っていることだけは伝わってくる。
胸がざわつく。
このまま帰るべきか。
それとも。
数分後。
玄関の扉が開いた。
あなたは慌てて塀の陰へ隠れる。
出てきたのは中年の男だった。
無精ひげ。
乱れた服装。
酒に酔っているのか足取りも少しおかしい。
男は煙草に火を付ける。
そして道路へ唾を吐いた。
その姿を見た瞬間。
あなたは本能的に理解した。
怖い。
理由は分からない。
だが近付きたくない。
そんな雰囲気があった。
男はしばらく煙草を吸うと家へ戻っていく。
扉が閉まる。
再び静寂。
あなたは大きく息を吐いた。
そして。
スマートフォンを取り出す。
知らない番号とのメッセージ画面を開く。
今まで一度も聞けなかったことを打ち込む。
『萌の家を知ってるのか』
送信。
数秒後。
既読が付く。
返事はすぐだった。
『やっと気付いたんだね』
あなたの背筋が冷える。
さらに続く。
『六月七日は交差点から始まったんじゃない』
『もっと前から始まってた』
画面を見つめたまま固まる。
もっと前。
つまり。
萌が死んだ原因は。
六月七日そのものじゃない。
もっと長い時間をかけて積み重なったもの。
そういうことなのか。
新しいメッセージが届く。
『助けたいなら急いで』
『時間はあまり残ってない』
あなたは眉をひそめる。
六月七日は過ぎたはずだ。
なのに。
なぜそんなことを言う。
まるで。
まだ何かが起きるみたいじゃないか。
その瞬間。
家の二階。
カーテンの隙間から誰かがこちらを見ているのに気付いた。
蒼井萌だった。
夕陽に照らされた窓。
小さな隙間。
そこからこちらを見ている。
目が合う。
一瞬だった。
本当に一瞬。
だが確かに。
萌は泣いていた。




