第十六話 「黒板の文字」
教室は静まり返っていた。
誰もが黒板を見ている。
白いチョークで大きく書かれた文字。
『次は間に合うかな?』
ただそれだけ。
それだけなのに。
あなたの背筋には冷たい汗が流れていた。
誰が書いた。
なぜ書いた。
そして。
"次"とは何だ。
クラスメイトたちは口々に話している。
「誰の悪戯だよ」
「気持ち悪くない?」
「消せばいいじゃん」
笑っている者もいる。
冗談だと思っている者もいる。
当然だ。
普通ならそう思う。
だが。
あなたと蒼井萌だけは違った。
萌は黒板を見つめたまま固まっている。
顔色が悪い。
唇も少し青い。
その反応が何よりの答えだった。
彼女も知っている。
この文字がただの悪戯ではないことを。
担任が教室へ入ってくる。
「なんだこれ」
黒板を見る。
苦笑する。
「誰かのイタズラか?」
返事はない。
担任はチョークを取り、文字を消し始めた。
ギギギ。
白い文字が消えていく。
それなのに。
あなたの胸の中からは消えない。
『次は間に合うかな?』
誰かが見ている。
誰かが知っている。
六月七日のことを。
そして。
あなたが蒼井萌を助けたことも。
放課後。
あなたは萌を追いかけた。
廊下。
昇降口。
校門。
だが今日は晴れている。
雨は降っていない。
それなのに嫌な予感だけが消えなかった。
「蒼井!」
萌が振り返る。
少しだけ驚いた顔。
「どうしたの?」
「話がある」
萌は数秒黙る。
そして。
「いいよ」
小さく頷いた。
二人は学校近くの公園へ向かった。
平日の夕方。
子供の姿はない。
風だけが吹いている。
ベンチへ座る。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは萌だった。
「黒板のこと?」
あなたは頷く。
萌は苦笑する。
「やっぱり聞くよね」
「知ってるのか?」
萌は答えない。
ただ空を見上げる。
青空だった。
昨日までの雨が嘘みたいな空。
けれど。
萌の表情は晴れていなかった。
「ねえ」
「ん?」
「もし私が突然いなくなったらさ」
あなたは眉をひそめる。
またその話だ。
何度も。
何度も。
何度も。
萌は同じことを言う。
まるで自分に言い聞かせるように。
「忘れて」
風が吹く。
長い黒髪が揺れる。
「探さないで」
その言葉に。
あなたの中で何かが切れた。
「ふざけるな」
萌が目を見開く。
あなた自身も驚いていた。
こんな強い口調になるつもりはなかった。
けれど止まらなかった。
「勝手に消えるな」
「……」
「勝手に諦めるな」
萌が俯く。
握った拳が震えている。
怒っているのか。
泣きそうなのか。
分からない。
だが。
初めてだった。
萌の仮面が少しだけ剥がれた気がした。
そして。
小さな声が聞こえた。
「じゃあどうすればいいの……」
あなたは息を飲む。
萌は顔を上げない。
震えている。
今まで一人で抱え込んでいたものが。
少しだけ漏れ出した。
「どうすればいいのか、私だって分からないよ……」
その瞬間。
萌のスマートフォンが鳴った。
通知音。
二人とも動きを止める。
萌は画面を見る。
そして。
顔色が変わる。
真っ青になる。
あなたは立ち上がった。
「誰なんだ」
萌は首を振る。
「だめ」
「蒼井」
「お願い」
声が震えている。
涙を堪えているようだった。
「もう関わらないで」
その言葉だけを残し。
萌は立ち上がる。
そして走り去った。
あなたは追いかけられなかった。
ベンチの上。
風だけが吹いている。
だが。
萌が立ち去った場所に、一枚の紙が落ちていた。
スマートフォンと一緒にポケットから落ちたのだろう。
あなたは拾い上げる。
折り畳まれた紙。
開く。
そこには手書きで短く書かれていた。
『6月14日 18:00』
『約束の場所』
その下には。
見覚えのない住所が記されていた。




