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34.新しい私を

「おやすみのキスです。」 

彼はそう囁いた。本をナイトテーブルの上に置き、シーツを上に手繰り寄せた。


 春であるというのに肌寒さを感じ、私も同じようにベッドの中に入り込む。先ほどの出来事は、とてもそのような言葉では表現できないものであった。まるで逃げているようだ。 


「手を繋ぎますか?」

と彼に尋ねられる。

「えぇ。」

そう答えて好意を受け取ることにした。


 一度、眠る時に手を繋いでほしいと頼んだことがあった。それから毎晩、彼は声を掛けてくれるようになった。しかし、今日の私にとってはその行動は満足いかないものであった。


 ふと以前、シモーネが私に対してしたことを思い出した。それは初めてセルジョ様に会った日のことだ。馬車の中で彼はずっと私の手に触れていた。あの時はよくわからなかった。しかし、今ならなぜそのような行動をしたのか、彼の気持ちが分かるのだ。

 

 悪戯心が湧いてきた私は、繋いだ彼の手に私の指を一本一本ゆっくりと絡め合わせてみる。さらに中指の側面をそっと撫でた。彼の手は震えた。


 最初は何も反応をすることはなかった。


 しかし、少し間が空いて

「もしかして眠れないのですか?」

と彼は問いかけてくる。それに対して私は返事をしなかった。


 彼はそのような私の態度について気にすることはなかった。


 ただ

「もし良ければ、頭を撫でましょうか。」

そう言って、私を腕の中に抱き入れて髪を撫でるのだ。私は目を白黒させて戸惑っていた。


 呼吸をするだけで頭の中が彼の香りでいっぱいになってしまう。貴方が生きている人間であるということをまざまざと分からせてられてしまうというのに。

 

 彼は一体何を考えているのだろうか。私は翻弄されているのだろうか、それとも――


 私は腕をそっと彼の脇腹に滑らせた。くすぐったいに違いない。しかし彼が私の髪を撫でる動きは止まらない。


「シモーネ……」

観念して察してもらうことを諦めた。彼を呼びかけようとして、うっかり呼び捨てにしてしまう。


 顔が彼の身体にくっついてしまいそうなほど近くて声がくぐもる。聞こえづらかったことを願っていた。


 彼の様子を覗き見ると

「私もステラと呼んでいいのですか。」

そう言って無邪気に笑っていた。


 そして、頭の上にあった手を毛先まで滑らせる。どうやらこれは、弄ばれているようではないようだ。


「えぇ、もちろん。」

と返事をした。


 しかし、彼に私の名前を呼ばせないかのように彼に向けて私の唇を押し付けた。それは先ほどとは比べ物にならないほどに長く――

 

終わった瞬間彼から放たれた。 

「もう、やめましょう。」

その強い言葉に私は動揺した。


 彼の顔に浮かんでいたのは嫌悪感ではなく、羞恥であった。まるで今、庭で収穫できてしまうような苺のように真っ赤だ。それを誤魔化すように彼は手で顔を擦っていた。

 

 そしてこう話すのだ。 

「私は貴方を明確に支配しようとし、辱めたのです。もう少し、もう少しゆっくり休養をとってから考えましょう。」

と。


 あまりにも優し過ぎた。 


 彼は私を愛していて、私は彼を――いや、まだ私には愛について分かることは多くない。

 

 なぜなら人間として過ごした時間の長さや経験の数が彼とはあまりにも違い過ぎるからだ。それでも私はこの世の誰よりも彼のことを、彼以上に理解できる人間になりたいと思っている。


 それが私自身のエゴであったとしても、好意などおおよそがエゴに過ぎないのだ。純粋な気持ちで彼を望んでいることと、彼を通して私の願いを叶えたいということは共存し得る。 


「嫌なら嫌って言ってください。私を投げ飛ばしてもいいです。」

売り言葉に買い言葉だ。彼が過去に言った言葉をそのまま返す。


彼は実際に汗をかいていたわけではない。しかし、焦って汗をかいているように 

「それでももう少し時間が必要だと思います。」

と視線を逸らした。


 私は彼の肩を精一杯押して彼の上に覆い被さった。

「どこまで素直に伝えればいいんでしょうか。私は、私は――」

正直、彼に何を話せばいいのか分からなかった。


 無理に自分を押し通してもかえって彼を傷つけてしまうだけだ。私は何度も彼を傷つけることによって、自分をも傷つけることを繰り返していた。 

 

「貴方は私を買い被りすぎなんです。」

とシモーネは私を見上げて微笑んでいた。その姿はあまりにも悲しく、寂しい。


「私は人の感情に敏感な方ではあります。しかし、それに対して社交性を身につけて人々が楽しく過ごせるようにと気を遣えるような性格ではありませんでした。だからこそ人々を騙すことに向いていたのでしょう。生来からして人間性が良いわけではなく、貴方の正義の救世主とはなれませんでした。」


そして目を閉じて願うようにこう言うのだ。

「本当に能力があればそうなれたかもしれませんね。汚い手を使わずとも、貴方と無理矢理結婚せずとも、その命を助けることが。」  

   

 私は胸が痛かった。彼が行ったことは決して褒められるようなものではない。しかし、私だけでなく、どれだけの人が救われたと思っているのだろうか。決して過小評価をして欲しくなかった。


 それ以上に

「それでも貴方が私を望んだんじゃないですか……」

その言葉を聞いた彼は驚いて目を大きく開いていた。手が差し伸べられる。不思議に思うと私は涙を流していたようだ。

 

「散々私を溺れさせておいて、もうやめようなんて無責任だと思いませんか。」

涙を拭った後、顎に添えられた手が離れてしまわないように強く握った。 

 

「どうか泣かないでください。貴方はもう自由なんです。だからどうか、私になどに縛られないで。」

彼も祈るように私の手を握り続けていた。


 決して争いたくはなかったがその主張は納得いかない。この際に彼とはちゃんと認識を合わせる必要がある。


「私は決して貴方に縛られてなんていません。ただ、そう。寂しかったんです。」

そう私はできるだけ考えが彼に伝わることを願って話し始める。


「貴方とこうやって夜を過ごしたかった。」

小さく呟くと彼は申し訳なさそうな顔をする。


「最初は怖かったです。毎秒のように変化していく自分に着いていけなくて恐ろしかった。」

本心だ。今も自分がどれだけ変わったか直視することは難しい。


「でもいつしか自分の意思で変わっていくことを試してみたら怖くなくなりました。寧ろ色々な自分を見つけてみたいと思うようになったんです。私は今、とっても自由です。」

あまりにも赤裸々過ぎる告白に恥ずかしくなった。目を逸らす。


       

「貴方が私を見つけたんです。だから私も自分自身を見つけ出して探求することができた。見つけるだけではなくて身を挺して守ってくれたから。」


 もう一度目を合わせると、彼の瞳にうっすら涙が滲んでいた。どんな宝石よりも美しいブルートパーズだ。


 しゃがみ込んで彼の耳元にそっと囁いた。 

「新しい私を知ってみたいと思いませんか?」

少しやり過ぎだろうか。


 それでも彼にはちゃんと伝える必要がある。今まで私はあまりにも人に自分の言葉を伝えることを回避し続け過ぎていたのだ。


 これから守るものが増えるのだから、いい加減大人になるべきだ。  

  

 私の言葉を聞いた彼はハッとして 

「…すいません、私の中で考えが完結し過ぎていたようです。」

と言う。


 そして私の背中に手を回して

「ステラの望みなら何でも叶えると言いましたね。」

と言ったが、少し目を逸らして考えるような仕草をしている。


 まだ何か悩んでいるようだった。心に何か引っかかっているように見えたので、何か気が進まないことがあるのかと心配に思ったが、彼は私の腰を抱いて起きあがろうとする。


 ずっと乗りかかられていると重いだろう。いい加減退こうと身体を動かすと、その手は私をしっかりと掴んでいて動こうと試みてもびくともしない。


 そして額と額を近づけてこう言うのだ。

「いいえ。申し訳ありませんが私の願いばかり叶えてしまいそうです。先に謝罪しておきますね。」

未だに夜の帳の中にも月の裏側にも、悪魔が潜んでいるようだった。

ここまでお読みいただいて本当にありがとうございます。

明日最終回更新となります。よろしくお願いします!

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